テキスト:マルコ 9:31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
本日は「人の子は人々の手に渡される」という題でメッセージしたいと
思います。
上記テキストの中で、主は人の子、すなわち、キリスト御自身が人々の手に渡されること、そのあと,殺されることを語りました。このことを考えて見たいと思います。
ここで遣われている人々とのことばは、ギリシャ語でanthropos:英語では人類と訳されていることばです。
ですので、ここで主がいわれていることは単に教会やユダヤ人の問題ではありません。大げさなようですが、人類全体の罪やら神への反逆、ということがらについて語られているのです。
そして、この箇所が語っていることは、人類全体が神の遣わされたキリストに敵対し、そしてその命を奪う、ということがらに関して語られているのです。
このことは、事実であり、キリストが殺されたとき、それはユダヤ人だけがかかわった罪というより、当時の全世界がかかわっていた、ともいえるのです。というのは、彼は当時の全世界を支配していたローマの提督の手に渡され、そしてその兵隊たちの手に渡されて、十字架で命を失いました。
キリストの死には、その当時の世界帝国もまたそこに住む人々もある意味かかわっていた、といえると思います。
さて、以下にもこれと同じような箇所があります。
マルコ10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
ここには、「そして、異邦人に引き渡します。」というように、キリストが異邦人に引き渡されることが描かれています。
そしてそのあと、キリストは苦しみにあいます。ですから、聖書は単にユダヤの律法学者や、大祭司の罪のみでなく、異邦人、言い方を変えると人類全体の罪に関しても語っているのです。
そしてそのあとにはこう書かれています。
「すると彼らは(異邦人は)あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
キリストが異邦人にあざけられ、むち打たれ、殺されることが描かれています。
すなわち、異邦人、人類全体がこの神の遣わされたキリストを「あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺」す罪について書いてあるのです。
このキリストのことばは成就し、実際にキリストは異邦人であるピラトの下で死刑判決を受け、殺されました。また、ローマの兵隊たちはこのキリストを「あざけり、つばきをかけ、むち打」ったのです。
以下のように書かれています。
マタイ27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
27:28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
27:31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
ですので、聖書はここでは単にユダヤ人の罪のみでなく、異邦人の罪に関しても述べているのです。
いわば人類の罪です。
さて、このことはイエスの初降臨のとき、3年半の公生涯に起きたことです。
このことは、再度主イエスの再臨のとき、3年半の艱難時代に再現する可能性があると思われます。
何が再現するのか?
1 神の民のリーダーがイエスを異邦人に引き渡す:
かつて、旧約の神の民のリーダーたちの手へとキリストは売られ、異端視され、
死刑判決を受けるべく渡され増ました。以下のことばのとおりです。
マルコ10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。」
このことは、終わりの日に再現するでしょう。終末の日にもキリスト教会のトップたちは、
キリストを裏切り、異端視し、殺されるべく画策するでしょう。
今、すでにキリスト教会では、キリストのことばに逆らい、地獄はない、クリスチャンは艱難時代を
経由しない、刺青は問題ない、同性愛は許される、と語っています。彼らがいずれ、キリスト自身を裏切り、キリスト自身が異端である、神に逆らっているという日が来るのは遠くないでしょう。
2 教会の指導者がキリストを異端、神に逆らう罪びとであるとして異邦人、未信者の手に渡す。
「彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。」
この箇所で、旧約の神の民のリーダーたちは率先して、キリストを異邦人の手に渡しました。お尋ね者、死刑に値するもの、神に逆らうものであるとの非難とともにです。
同じことが世の終わりにも再現するでしょう。何故なら、キリストの十字架は黙示録の時代に再現することが語られているからです。
黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
その背教の日に全教会のトップが一丸となってキリストを売り、非難し、こいつは本当はペテン師だった、と宣言する日が来るでしょう。キリストは人類に逆らうものであり同性愛者を圧迫するもの、不当に権利を圧迫するもの、との非難を掲げるようになるでしょう。
また実際は存在しない地獄の教理を語り人々に不安を与えたものとの攻撃も成されるでしょう。
キリストの復活も奇跡も嘘の作り話だったと、キリスト教リーダー自ら宣言する日が来るでしょう。
3 イエスを鞭打つ
マタイ27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
さて、旧約の神の民のリーダーである大祭司たちにイエスを引き渡された異邦人の提督であるピラトはイエスを鞭打ちました。
こんなに宗教のリーダーたちが熱心にイエスを非難しているのなら、やはりこいつは、悪者、罪人、悪いやつなんだろうとの思惑から、罪人にふさわしい処遇、鞭打ちの罰を下したのです。
同じことが終末に再現するでしょう。キリスト教会のリーダーたちがイエスを裏切り、偽りものであると宣言し、それゆえ、それを見たこの世の人もまたイエスをののしり鞭打ち、非難や、厳しいことばをあげるようになるのです。
今の時代、インターネットの時代においては一晩の間にある人の今までの評判がひっくり返されることも普通にあります。キリストへの評価もある日、ひっくり返るようになるでしょう。
4 異邦人(未信者)はイエスをあざける
さて、このようにキリスト教のリーダーがこぞって、イエスを偽りものと非難するようになるので、
この世の人々もそれに同調してイエスをあざけるような風潮が世にあふれるようになるでしょう。
「 マタイ27:28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。」
ここで、イエスをあざける異邦人の兵隊がイエスに緋色の衣を着せたことが書かれています。
緋色の意味合いは何でしょうか?緋色は以下の箇所でも使われています。
“ヨシュア2:18 私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。“
この箇所の赤いということばに緋色と同じ原語が使われています。
この箇所はイスラエルの斥候が自分を助けてくれたエリコの遊女に助けを約束した箇所です。
この赤い(緋色)のひもはイエスの十字架の血を表す色と理解できます。
異邦人の兵隊たちがイエスに緋色のきものを着せてあざけったことは、すなわち、
人々の罪を許す十字架の血のあがない、をあざけるとの意味合いと理解できます。
その日、この世の人はキリストの尊い血や、あがないを非難、あざけるようになるのでしょう。
“27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」”
ここで異邦人の兵隊たちは、イエスをあざけり、いばらの冠をかぶらせました。
冠は王権をあらわすものです。彼らはキリストがユダヤ人の王であるとのことばを狂人のたわごとと思い、非難しあざけったのです。
同じことが終末に再現するでしょう。キリストは教会の王であるとの主張に対して、
多くの未信者から、あざけりや嘲笑の声が聞こえるようになるでしょう。
「
27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。」
さらにイエスへつばきをかけ、頭をたたくような冒涜や非難がこの世にあふれるようになるでしょう。
このようにして、キリストは世の終わりのとき、この世の人からも憎まれ、非難され、攻撃されるようになるでしょう。であるがゆえに、非難が全世界に及ぶゆえに、キリストに
忠実な人はこの世で多くの苦難を受けるようになります。
世界中の人から憎まれるようになるのです。以下の様に書かれています。
“マタイ 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。”
そしてこのときが艱難時代なのです。ですので、艱難時代はすべてのクリスチャンと名がつく人に到来するわけではないのです。このように変節した時代においてなおかつキリストにとどまる人に臨む試練こそ、艱難時代の艱難なのです。キリストを見捨てたクリスチャンは艱難に会うことはないでしょう。
そしてこのようにキリストを冒涜し、正しいクリスチャンを迫害する、世の人々にも滅びがいずれやってきます。以下のとおりです。
2ペテロ3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
いずれ、天がすなわち宇宙が焼け溶ける日がきます。その日、これらの冒涜者も滅びるようになるでしょう。
まとめますが、聖書は確かに終末における神の民の背教を語りますが、しかし、終末とはクリスチャンのみが迎えるのではなく、この世の人、すなわち、全人類が迎えるものでもあります。
そして、その日、神を受け入れず、神の唯一のひとり子を拒否、死に至らしめた人、人類全体に対して恐るべき神の裁きが下され、天も地も焼け溶けるようになる、このことを知りましょう。
終末における主のみこころをおこないましょう。以上