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No. 753 まずエリヤが来る

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マルコ 9:11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」

 9:12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。

 9:13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

本日は「まずエリヤが来る」という題でメッセージしたいと思います。

前のメッセージにも書きましたが、聖書によるなら、終末の働きは以下の様な順番であることがわかります。

1 まずエリヤが来る

2 主の日が到来する

この2つはセットのようだということがわかるのです。

さて、このようにエリヤが来る、来ない、ということが終末の日を見分ける一つの特徴だということがわかります。福音書を見るとイエスの初降臨時代のときの神の民もこのことを

よく理解していました。それで、エリヤの到来に関して多くの人が語っていたのです。以下のとおりです。

マタイ16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

マタイ27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。

マコ6:15 別の人々は、「彼はエリヤだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」と言っていた。

ルカ9:8 ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからである。

さて、このように待望されていたエリヤは実はイエスの時代にすでに来臨していました。

しかし、それは私たちが想像したような形ではありませんでした。

以下の様に書かれています。

“マタイ11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。

 11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。

 11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。

 11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。

 11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

 11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

 11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。

 11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。“

ここで主はバプテスマのヨハネこそ、来るべきエリヤであることを語りました。

このように主が語られる以上、確かにバプテスマのヨハネはエリヤなのでしょう。しかし、このことは

若干我々の期待を裏切るものであることも確かです。

私たちが旧約のエリヤが再度来臨するといわれたとき、もつイメージはどのようなものでしょうか?

火の馬車とともに天に行ったエリヤですから、その来臨も火の馬車によるものだ、などとは考えないでしょうか?何かそんな奇跡的な登場を考えてしまうかもしれません。しかし、実際に来たエリヤ、すなわちバプテスマのヨハネは火の馬車ではなく、普通にザカリヤとエリサベツとの間に生まれた男の子としてやってきたのです。しかし、登場の仕方がどうであろうと主がそういわれる以上、バプテスマのヨハネこそ、その約束されたエリヤなのです。

何故私はこのようにわかったようなことをくどくど述べているのか、というと、エリヤは終末の日にも来臨するからです。以下の様に書かれています。

マラキ 4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

 4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

エリヤは旧約時代の終わりにもバプテスマのヨハネとして来臨しました。そしてそのあと、旧約の背教の神の民に対して主の日が到来しました。このことは事実ですが、しかし、それは終末の日に再度起きることがらの型とも理解できます。何をいっているのか、というと主の日の本番は新約の時代の終わりであり、その日、背教の新約の神の民に対して主の日が再現するからです。

そしてその日、主の日の到来の前に必ず、エリヤが来臨、登場するはずだからです。

そしてそのエリヤの来臨を正しく悟るかどうかは命にかかわる、永遠の命にかかわる大きな分岐点になる可能性があるのです。それで、私たちはエリヤの来臨を正しく知るべきなのです。

イエスの時代の人々はどうでしょうか?このエリヤの来臨を正しく悟ったでしょうか?以下の様に書かれています。

マルコ 9:11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」

 9:12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。

 9:13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

すなわち、エリヤは預言どおり来臨したけれど、人々はそれを預言者として受け入れたり、悔い改めることをせず、勝手なことをしたのです。

さらに以下の様にも書かれています。

マタイ11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

 11:15 耳のある者は聞きなさい。

 11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、

 11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』

 11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

ここでは、バプテスマのヨハネすなわちエリヤが来ても人々は彼を受け入れず、耳を傾けずそれこそ、笛吹けど踊らず状態、逆にヨハネを悪霊つきだとののしっていることが語られています。

しかし、神のことばはかわらず、人々がこのようにヨハネすなわちエリヤを受け入れないとしても、

「主の大いなる恐るべき日が来る前にエリヤを遣わす」とのことばは成就し、間違いなく主の日は背教の神の民の上に到来したのです。

そしてこのこと、この順番は終末の日にも必ず再現します。

すなわち、まずエリヤが来て、そのあと、主の日が来るという順番です。

さて、私たちがこれらのイエスの時代の人々の失敗を通して学ぶべきことは、エリヤはくるけどしかし、

すべての人がそれを認めるわけでない、という教訓です。我々もそれと認めず、見過ごしてしまう可能性があるからです。

終末の日、黙示録の日に再度エリヤが来臨することを黙示録は預言します。以下の通りです。

黙示録 11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

 11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

 11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。

 11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

 11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

この2人の預言者を多くの聖書学者はモーセ、エリヤであると語ります。2人にはモーセ、エリヤの特徴があるからです。

さて、彼らがモーセ、エリヤの再来だとしてどのようにして私たちはこれらの預言者が来たとき、それであると悟ることができるのでしょうか?

その理解の方法の一つとして、先ほどのバプテスマのヨハネ=エリヤの理解が役立つと思われます。それは、バプテスマのヨハネの時、そうであったように、再来のエリヤは決して火の馬車に乗って来臨はしないであろう、逆に普通にお父さんとお母さんの間に生まれた人だろうということです。

問題は物理的に火の馬車に乗る、乗らない、とか顔が似ている、似ていない、という物理的な問題でなく、あくまでその霊、エリヤの霊を受けている、さらにその働き、エリヤの働きをなすかどうか、ということにポイントがあるように思えます。

エリヤに関しては明らかに真理の回復や、正しい教えの回復ということに強調があるように思えます。

以下の様に書かれているからです。

マタイ 3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

バプテスマのヨハネ、すなわち来るべきエリヤの働きの特徴はここに書かれているように、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』との使命です。このことはイザヤ書の引用箇所にさらに詳しく語られています。

イザヤ40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

 40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

 40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」

ここにたとえを通して来るべきエリヤの働きが描かれています。

この箇所を見るに、

“荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。”

主の道を備えよ、とは具体的に道路工事をしろとの命令ではありません。そうではなくて、

命に至る門は狭い、その道も狭い、といわれた命の道に関することばです。道路工事を行うのはその道が陥没したり、崩れていたり、穴があいていたり、まともに歩けないからです。同じく、終末の日において大事な教え、命に至る道はまっすぐでなく、陥没したり、崩れていたり、穴が開いていたりしている、すなわち、まともな道ではなくなっているのです。その道をただし、直すべく、来るべきエリヤは働きをなすのです。具体的には艱難前説を始めとしたおかしな教理が蔓延している、その修復の働きを成すのです。

 40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

谷はあるべき場所より低い場所です。たとえの意味合いとしては聖書の基準より、低い道、教えということでしょうか。クリスチャンと名がつけば、すべての人は天国へ入る、などとは基準の低い、谷みたいな教えです。また、山や丘はあるべき位置より高い場所です。ホーリネスのように、きよめの恵みを受けていないとまともなクリスチャンでない、キリスト者の完全などの教えは聖書が語るより、高い、到達できない目標を掲げる誤った教えです。これらは是正されるべきなのです。

 40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」

これらの道がただされ、正しい命の道、狭い道が回復され、初めて神の栄光があらわされるのです。

そして、来るべきエリヤはこのような回復の働きをする人、もしくは人々、教会、グループなのです。

決して火の馬車でやってくるわけではありません。

これらの回復の働き、正しい真理へ戻る働きが始まったら、私たちはそろそろエリヤの働きが始まった、来るべきエリヤが来つつあることを知るべきです。毛皮の衣を着て、イナゴを食べている人を探せば正しいエリヤに行き着くとは限らないのです。

まとめますが、聖書は、終末の恐るべき日、主の日の前にエリヤが来ることを語っているので、必ず、エリヤは来るはずです。しかし、その到来の方法は、火の馬車に乗ってくるわけでなく、

普通の人としてくるでしょう。しかし、その働き人もしくはその働きをになう教会にはエリヤの霊があり、また、真理の回復者としての働きがあるはずです。これらのことを覚え、正しくその働きを見分けましょう。終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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