ローマ・カトリック教会は聖書的教会か

       バーバラ・ウィルヘルム、9/01

 以下はローマ・カトリック教から抜粋文、および参照を含んでいます:
 マイク・ジャンドロン(「福音を宣言する」の編集長)による「聖書vs伝統」;ローマ・カトリックを熟知しているジェームズG.マッカーシー著、「ローマによる福音」、および小冊子「あなたがローマ・カトリック教会について知るべきこと」Berean CallのT. A.マクマホン。
 ジャンドロン師、マッカーシー師、およびマクマホン師は、以前はカトリック教徒でありました。その後、新生体験した、キリスト教徒であり、カトリック教会に対して働きかけています。

 35年間カトリック教徒であって、新生体験を経て23年間のクリスチャン生活を送った著者の私は、「現在のカトリック教会の教義」を扱っているコースを近年受講しました。以下、各々の立場からの報告です。 カトリック教義への注釈はカトリック教会の公式な教義要覧と第Uバチカン公会議のオースティンフラナリー版を参照しています:この公会議文書は、カトリック教会の審議機関および、前審議機関によるものです。

* 様々なカトリック教会における専門用語の定義によって、カトリック教義上のガイドという表題を付けた項目もあります。ガイドのための資料は、ローマ・カトリック教会の「出版許可」(公式な認可)を経たカトリック家庭用大型聖書です。

はじめに ローマ・カトリック主義を教えているほとんどの一般の教職者は、いわゆる悪意によって故意に人々を欺こうとしているのではありません。このことは、知っておく必要があります。彼らは、単に自分たちが真実を持っていると心から信じて、彼らに手渡されたものを伝達しています。 カトリック教徒は、彼らの教会について全ての教義を信じるか、さもなければ彼らの教会から呪われる(永遠に非難されて、呪われる)者となることを覚悟しなければなりません。 彼らの心に真理が浸透するためには、祈り、愛、同情、および理解が、神の言葉の力とともに私たちを通して働く必要があります。忍耐こそは、ローマ・カトリック教徒が捕虜にされている独断的な「蜘蛛の巣」から解放されるために必要なものです。  (ローマ・カトリック教:マイクジャンドロンによる聖書対伝統より)。 

ここで覚えておいていただきたいことは、ローマ・カトリック教徒の中にも、神を愛して、本物の生まれ変わった経験を持っている人々がいるということです。彼らは、無知ゆえに、そのカトリック主義の教義の中にとどまったのです。 第Uコリント11章2-4節でパウロは述べています:「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」

 いわゆる「ユニティ(一致)の章」と呼ばれているヨハネ福音書17章において、イエス自身は、教義上の真実が、信者と聖化との、基礎的な主要な一体化の要素であることを述べております:v.17「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

用語の明確化 カトリック教会と、聖書的なキリスト教の用語の意味の違い、という興味深い議論を始める前に、それらの用語が意味していることを明確化することは、各見解から見る場合に特に必須です。 彼らがカトリック教徒に対してするように、以下の言葉のいくつかは、聖書を信じるクリスチャン達に同じ意味として理解されるかもしれません。けれども、実は彼らの意味している物は全く異なるものです。 さらに、キリスト教徒に馴染みのない用語があるでしょうが、これらがローマ・カトリック神学の中では重要なの役割を果たすので、その中のいくつかは取り上げて議論します。

カトリック教義のガイド序:「私達、カトリック教徒にとって、聖書がキリストの教育の唯一のソースではなく、私達は二重の規則すなわち「聖書」と「伝統」とを信頼し持っている。伝統は、明らかにされた教義の集合体であり、神聖な聖書の中には、記されていないが、しかし合法的な教会の監督たちを通して伝承されたものである。

バプテスマ: イエス・キリストによって設立された霊的な浄化と再生のサクラメント(秘跡、儀式)。 洗礼において、人間は、霊的に再び誕生し、他のサクラメントを受け取ることが可能にされる。

教会立法: 信者は、教皇庁(法王)の承認を受けておらず、司教の管理下で出版されたものではない自国語の翻訳聖書を読むことは許されません。 カトリック教徒のためには、個人の私的な(聖書)翻訳は、無価値であるとみなされており、この分野については、教えるためにその神性の委員会を訓練している無謬のカトリック教会の権威的な評決だけが有効です。「カトリック教会が受け取ったところを越えて、誰かが聖書を信じたり、権威的であるとみなされたり、重要視されたり保持されている場合、彼は呪われるべきである」。
 

告白と聖職者による赦免: 罪の赦免権威を持っている聖職者に対してなされた、洗礼の後で犯されたすべての罪の明白な告白。 聖職者は、悔い改めた罪人に対し、バプテスマの後に犯した罪の償いのために、ざんげ(告解の秘跡)の行為を義務づけます。ざんげの行為は、「マリヤ様」さらに「私達の父」を、特定された回数を言うか、自制か、あるいは善い業を実行することを含むかもしれません。 このサクラメントにおける聖職者の役割はキリストの代理です。
 
 
 

公会議(Council): 信仰、モラル、および訓練の問題を定義するために召集されたビショップ(ローマ司教、法王を含めた)の協議会(公会議)。多くの公会議がありました:ニカヤ会議(325)、トレント会議(1545-1563)、第Tバチカン公会議(1869)、および第Uバチカン公会議(現代)。

教義(Dogma): 「教義」という言葉がカトリックの教えで使用される場合、正式な教理の声明文を意味します。全世界の教師としての法王によって、あるいは法王と一致している統一された協議会によって作成されたところの信仰とモラルに関する天啓についての宣言文を意味します。

聖餐(Eucharist): 「感謝する」の意味のギリシャ言葉に由来する言葉。 外観はパンとワインで行われる新しい律法による典礼。これは、本質的にキリストの体であり、血が現実にそこにあるのであり、これは魂の糧として恵みを産出する真の食物です。 このサクラメントのために材料を準備する権威は神によって与えられた聖職者ひとりにあり、神聖な神の言葉を発することによってパンとワインという物質をキリストの体と血に変えるのです。 神聖な聖餐は生ける(オリジナルの文では強調)キリストです:御体の含まれたパン(ウェハース)はイエス・キリストの魂であり、天的なものです(1374年に決議)。 それは、礼拝の対象であり、食され、犠牲とならねばならない(1378年)。
 

償い(Expiation): 贖罪(罪ほろぼしの仕事)は、ミサにより、「血に染まっていない犠牲」を通して今に至るまで続いています。 それゆえ、私達(カトリック教徒)のために、罪ほろぼしの最もすばらしい仕事は、神がなだめを受けるミサの犠牲を通してなされているのです。

恵み(Grace): 恩恵は致命的な罪によって失われています。それは祈りと神の影響の下でなされた功徳を通して、そして正しく受け取られたサクラメントによって保存され、増大します。

免罪(Indulgence): この世における有限な刑罰の免除は、ざんげ又は完全な償いの奉献を行うことにより、与えられその罪責が赦されます。それは、適切な教会の権威によって与えられます。 生きている者に対する免罪の方法であり、また他者の祈りによる死者の処罰の赦免の方法です。 魂から罪の有罪が取り除かれた時、この世の罪は、まだ残されているので、魂が天国に入るまで、この世的な処罰は取り除かれ続けなければなりません。 免罪は、よい行いと苦行によって受け取られ、その人の生活の罪と死者(1471-79年)の罪に適用されます。
 

トレント公会議宣言: 「免罪について協議する権限は、キリストによって彼の教会に与えられています。この聖なる教会会議は、免罪の使用が、教会に受け継がれ保持されていることを教え、また命じます。それが無駄であると主張したり、教会が、それらを与える権限を持っていない、などと主張する人々を呪いの下で非難します。」
 

無謬性(Infallibility): 信仰と道徳に関連して明確な教義主義を宣言する際、ローマ教皇と司教が、無謬であるという確信。第Tバチカン公会議宣言 「ローマ司教が、権威を持って話す時の定義は変更を許されないもので決定的に無謬であり、教会外に語ったことは天からの啓示により明らかにされた教義です。この教義は、教皇がすべてのキリスト教徒の羊飼いであり教師として行動する際に、彼は最高の使徒の権威によって、信仰または道徳に関する教義を定義するとします。それは、教会全体によって保持されることになっています。誰であれ、これをあえて否定するなら、彼は呪われよ。」
 

致命的な罪(大罪)(Mortal Sin): 完全な知識と同意(1857年のカトリック教義要覧から)によって犯された重要な罪のこと。 この状態で死ぬ人々は地獄(1035年)に下ります。ざんげ(Penance): 洗礼の後に犯した罪を、聖職者に告白し、神と和解できるように許しを求めるサクラメント(和解のサクラメントとして現在知られています。1456年)ローマ教皇(Pope): この言葉はギリシャ語の「父」への呼びかけの用語 。ローマの司教として、法王は聖ペテロの後継者であるので、地上の教会の見える頭(かしら)です。
 

煉獄(Purgatory): 魂が死後、天国に入る前に、一時的に苦しみ、彼らの罪から浄化される場所、またはその状態。 ここにおいて、この地上の生涯において一度も後悔または愛の行為によってか、またよい行為によって許されていない、小罪は取り除かれます。 地上における一時的な刑罰の借り(保留されている致命的な罪による刑罰)、永遠の処罰に価する罪、ざんげのサクラメントによって取り除かれている罪責感の中で、有罪とされる罪はここで除かれなければなりません。煉獄の中の魂が、地球上の信者の祈りと犠牲によって、そして特に聖餐のサクラメントによって助けられることは、信仰によります。
 

ロザリオの祈り(Rosary): マリヤへの53回の繰り返しの祈り、父なる神へ6回、および三位一体の神へ6回を数えるために、ビーズを使用した、マリヤへの帰依の表現。
 

聖典礼(Sacraments): カトリック教会は、7つのサクラメントがあることを教えており、それぞれが恵みを含みます。7つのサクラメントとは: 洗礼、ざんげ、聖餐、堅信礼(聖霊を受け取ります)、結婚、叙階(聖職者と修道女による誓約)、および病者への注油(油塗)。これらは、神がローマカトリック教会にある人々に恵みを与える主要な方法です。 教会の教えは、サクラメントが救済に必須である、ということです。[1129年カトリック教徒教義要覧]
 

小罪(Venial Sin): 一時的な処罰にのみ値いしていて、恵みまたは神との親交を罪人から奪わない罪。小罪は「ざんげ」と「善い行い」によって償いをすることができます。キリストの代理者(Vicar of Christ): 法王によって要求された多くのタイトルの1つ。地球の上でキリストを代表していることを意味する。(カトリック教義上のガイドセクションの終わり)。

追加の定義 - キリスト教資料から聖書外典(Apocrypha):ローマカトリック教会によって12巻の文書が、、霊感を受けていると宣言され、1546年にカトリック正典(聖書)に追加されました。 聖書外典の中の教えの多くは聖書を否定します- 免罪、死者のための(代償)ミサ、イエスが子供の時にされた魔法など−

Magesterium:「主人」という意味のラテン語から来て、ローマカトリック教会の教育権を持つ司教と関連しています。マジェステリアム(Magesterium)はローマ司教、法王を含むすべての司教で構成されます。彼らは、教義について判断を下す人であり、カトリック教徒がどんな解釈を聖句に与えることができるかを述べる人々です。彼らによってなされたよい仕事の量に比すなら、とても不十分な支給で(生活し)、しかし恵みを分け与えている人です。
 

教会の宝庫(Treasury of the Church): (ジェームズG.マッカーシー著「ローマ(カトリック教会)による福音」から:)「生ける者が死者を助けることができる別の方法は、この世の時間的な処罰[1032.1471]を相殺する『免罪』と呼ばれる特別な「信用貸し」(クレジット)を取得することによるものです。」 ローマ・カトリック教は、教会が、教会[1476-1477]の宝庫と呼ばれる功徳の広大な貯蔵庫から免罪を分け与える力を持っていることを教えます。「教会の宝庫」は無限の価値があります。(それは神の前に持つキリストの功徳なのですから、決して尽きることがありません)。この宝庫には聖母マリアの祈りと善き業、同じく、すべての聖人のよい業も含まれます。
 
 

第Uバチカン公会議: この会議は1962年-65年催され、そこで、新しいカトリック正典が成立しました。第Uバチカン公会議の後に、「福音主義とカトリック教の統合」と呼ばれる非聖書的協定は頂点に達し、他の教会への強いエキュメニカル運動の展開がありました。

カトリック教徒とキリスト教徒:本質的な教義上の違い


ローマ・カトリック教会は、名目上は、ガラテヤ人の手紙の中の多くのユダヤ主義者のようにキリスト教信仰の四つの基本的な教理を支持します:・キリストの神性、・三位一体、・イエスの処女降誕、・およびイエスの身体的な復活。 しかしながら、彼らは、キリストの贖いの業が完成したものであり、キリストの十字架における償いが十分なものであることを否定します。

 さらに、カトリック教理はキリスト教信仰にとって本質的に必須であるべき教え、信仰のみによる義認の教義、に大いに反対します。 ローマカトリック教会はただにこの教義を否定するのみでなく、また、それを信じる者が誰であっても非難します。カトリック教会は、ことばの上では、自分たちは「キリストにある信仰のみにより、恵みのみにより、救いがあることを信じている」、と言うかも知れませんが、その教会の教義はこれらの言葉を否定しています。 ローマ・カトリック教会は、自分たちは「恵みのみによる救済」を信じていると伝えています。

 しかし、それらの「恵み」はキリストによる無償の贈り物(プレゼント)ではなく、ローマカトリック教会の「Magesterium」(教会の指導者達のこと:定義のためにカトリック教義の案内を見てください)を通して分け与えられる部分的な恵みを個人的に受け取ることができるだけなのです。 ローマカトリック教会は、自分は、信仰のみによる救済を信じている、と言います。けれども、「わざ、行い」をそれに追加します。 
 

ローマカトリック教会は、キリストのみによる救済を信じていると伝えます。けれども、さらに加えて、水による洗礼を加え、洗練により、幼児でさえ、新生する(生まれ変わる)と信じています、また非聖書的なマリヤ信仰をも救いの手段、要素として追加します。 教義が議論され、正しく知ることがないならば、クリスチャンは、聖書の教義と、ローマカトリックが固執する教義とは異なるものであり、別物であることに決して気がつかないでしょう。 さらに重要なこととして、もし私達がキリスト教会とカトリック教会の教義の違いを論じないならば、自分たちが新生したと信じかつ、ローマの教会に留まるカトリック教徒に対して、私達はひどい仕打ちをすることになります。 もし私達が教義上の問題を回避するならば、カトリック教徒に対して、カトリックの欺瞞に従うことに対して宣告されるであろう永遠の死から逃れるチャンスを与えてはいないことになります。人が誤った福音を信じるならば、彼は救われることはなく、キリストの弟子とされることもありえません。教義上の違いに関する議論は実に死活問題なのです。

聖書「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ3: 16-17)。また、Uペテロ1:3-10とTコリント 2:13。申命記 4:2;箴言30:5,6;黙示録22:19これらは聖書に追加することや聖書から取り去ることへの警告です。
 

しかし、ローマカトリックには、これらの警告に注意を払っている様子はありません。 ほんの一つの例をあげるなら、カトリック教会は、単純な形態での「十戒」を公言しません。神の前に偶像を全く持たず、刻まれた像を絶対に作るべきではないという第二番目の命令を取り除いています。ローマカトリック教会は、その際、聖書的の10番目の命令を取り、これを二つにわけ、その代わりにこれを当てます。それゆえ、ローマカトリックの十戒は聖書的な十戒ではありません。

 ローマ・カトリック教会は、いわゆる聖書外典*を追加して、バイブルの66巻より多い正規の聖書があると信じます。外典は、子供の時に魔法を実行しているイエスの説明と死者と煉獄のために祈ることなどのカトリック信仰を含んでいます。 「煉獄は、彼が、彼の罪のために追加の賠償を作る必要があるかもしれない時に、カトリック教徒が死の後で入る苦しみの場所です」。「彼はそこにおいて、以前にざんげ*の行為によって償いをしなかったか、または、まだ免罪の行為を実行すること、或いはローマカトリック教会から取得した特別なクレジットによって無効にされていなかった罪の処罰の代償を払います」(J. マッカーシー:『ローマ・カトリック教について知るべきこと』より)。 カトリック教会はまた伝統と教皇無謬性*を聖書の教えに追加し、結果として、聖書もこれ(伝統と教皇無謬性)もどちらも誤りがないといいます。(マタイ福音書 15:6によれば:「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」ということになります)
 

(この後の記述はローマ・カトリック教の文書から抜粋されたものです:
マイクジャンドロンによる「聖書対伝統」):

聖書の記述とカソリックの教義が異なることがわかります。

イエスの教義救い主イエス 
*聖書:神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、…私たちを救ってくださいました。(テトス3:5) 
*ローマ・カトリック教会は、「イエス・キリストは、ご自分の死と復活によって、天国を私達に『開かれた』と教えます。」(1994年のカトリック教徒教義要覧から) 各人は恵みと善い業によって自分自身の救済を得ます。(1477)

イエス、罪の無い贖い主 
*聖書:また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、(Tペテロ1:17,18) 
*ローマカトリック教会は、マリヤが罪の無い共同贖い主である、と教えます。 「彼女を束縛する1度の罪もなく、彼女は完全に彼女の息子と彼の仕事に没頭しました。」「イエスと共に贖いの神秘に仕えるために、マリヤは従順に仕えたので、彼女は自身のため、そして人類全体のための救済の原因になりました」(494)
 
 

イエス、私達の弁護士、およびただ一人の調停者 
*聖書:神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(第Tテモテ2:5) 
*ローマカトリック教会は、マリヤが「彼女の救済事業を中断しなかったこと」を教えます。「けれども、彼女の多くの執り成しによって、永遠の救済の贈り物を私達に送り届けて持って来続けます」。「彼女は弁護者であり…かつ女性仲介者です」(969)
 
 
 

イエス、教会の頭 
*聖書:また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1:22,23) 
*ローマカトリック教会は、「法王がキリストの代理者として、そして全体の教会の牧師として、彼の事業のため、教会全体の上に、完全にして、最高の全世界的なパワーを持っていることを教え、彼が妨害されず、いつも執行することができる能力について教えます」(882)。「彼が最終的な行為によって信仰またはモラルについての教義を宣言する時、彼は、無謬です」(891)
 

イエス、やがて来られる王 

*聖書:このイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11) 
*ローマカトリック教会は、「イエスがカトリック教会の祭壇に礼拝されるために毎日来られる(戻られる)」と教えることによって、この再臨の教えをすりかえ、否定します: 聖餐*(1374-78)において、「私達の神イエス・キリストの御体と血…われらの主の魂と神性が、真に、現実的に、本質的に含まれています」。

キリストの業イエスは私達の罪を償います。 
*聖書:神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。(ローマ3:25) 
*ローマカトリック教会は、煉獄において罪が「浄化火」とそれを通じて償われることを教えます。私達は「猶予として罪のこの地上における処罰を受け入れるために努力しなければなりません」 (1030、31;1472-75)。

イエスは贖いの業を完成した
* 聖書:ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。(ヘブル7:27,28) 
*ローマカトリック教会は、十字架の上のイエスの業が終わっていることを否定します。「キリストの犠牲および聖餐の犠牲は、一つの単一の犠牲...その同じキリストが、十字架の祭壇の血まみれの方法でご自身を1回提供したキリストは、聖餐の中に血に染まっていない方法で含まれていて、捧げられます」(1367)。「この神秘が祝われるたびに、私達の贖いの仕事は続けられます」(1405)。この犠牲は、生きている者と死者(1414)の罪のために償のために捧げられます。 ローマ・カトリック教において、イエスは永遠の犠牲として十字架の上で繰り返しくり返し死ぬのです。

イエスの人生、死、および復活は、救われるための唯一の道を提供しました。 
*聖書:この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12) 
*ローマカトリック教会は「カトリック教会が救済に必要である」(846)と主張することによって、これを否定します。

エスの流された血は罪のための唯一の赦免です 
*聖書:血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(ヘブル10:18) 
*ローマカトリック教会は、免罪は、罪責がすでに赦されている罪に対する、この世での処罰の神の前における減刑である、と教えます。それは生きている者または死者に適用されるのです。(1471) この教えはイエスの血による全ききよめを損なうので、完全に聖書に反しています。さらに罪人を浄化するために免罪が、必要であると述べることによって、免罪のための人間の行いを、イエスの血より高い位置に起きます。

イエスは私たちを罪から聖める 
*聖書:御子は、…罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:3)今は神は、…あなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。 
*ローマカトリック教会は、「すべて、神の恵みと交わりの中で死んだ人々は、まだ聖めが不完全であるから、天国の喜びに入るために必要なきよさを達成できるように、浄化を受ける」(1030)と教えます。

救いの教義 救いはイエス・キリストの福音において宣言されます。 
*聖書:福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、(Tコリント15:3、4)
*以下を含む救済のための追加の要件を要求することによって、ローマカトリック教会は違う福音を説きます:サクラメント(1129)、賞賛に値するミサ(1405)、教会籍(メンバーシップ)(846)、煉獄(1030)、免罪*(1498)、および洗礼(1256)。

救いは神による、人によらない 
*聖書:あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ1:13)この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13) 
*ローマカトリック教会は、「洗礼は、これを行わずには、誰も神の国に入ることができない新生のサクラメント(儀式)です」(1213、 1215)と教えます。

救いは信仰による、行いによるのではない 
*聖書:あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8,9) 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。(詩篇49:7,8) 
*ローマカトリック教会は信仰に行いを付け足すことによる救済を教えます。彼らは、人々が、よい行いと免罪(1477、1479)を通して彼ら自身の救済を得る、また同時に彼らの兄弟を救うように協力することができると言います。(ガラテヤ人の手紙のリンゼル・バイブル注解の序文:「信仰を業と混ぜる時に、誤謬はこのように重大であるので、真実の福音を損失する結果となるでしょう」。)

救いは恵みによる、功徳によらない 
*聖書:ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。(ローマ11:6) 
*ローマカトリック教会は、価なし、行いなしの義認の恵みは不当であるとし、否定します。「私達は、永遠の命を達成するために必要であるすべての恵みのために自分のため、そして他の人のために功績(行い)を積むことができます」(2027)。(上記で使われたローマカトリック教会資料は、1994年カトリック教会の教義要覧です。)(抜粋文終わり)
 

上記いずれの項目も、クリスチャンとして妥協できる問題ではありません。それどころか、これらは私達の信仰の主要な教義なのです。カトリックに関連して議論されるべき非常に多くの論題がありますが、ほんの三つの点を今回試みましょう。
1. 最初の論題はキリスト教会の聖餐とカトリックの聖餐(Eucharist)の違いです;
2. 次に聖書的なマリヤとカトリックのマリヤの違い。
3. 最後の論題は、第Uバチカン公会議がかなりカトリッ教義を変更したという誤った確信です。

●ローマカトリック教会の聖餐と対照的なキリスト教の聖餐 

カトリック教徒が聖餐とミサ*を観るのと、生まれ変わったクリスチヤンが聖餐と聖餐式を観るのとでは、その間に非常に大きな違いがあります。生まれ変わったクリスチャンは、パンとワインがその素材そのものであり、聖餐と聖餐式はイエスの「一度限りで全てに有効な」犠牲の記憶としてなされると主張します。 一方、カトリック教徒は、ミサで提供された聖餐がイエスの実際の肉体であると信じます。 

彼らは、これは、変質する(パンとワインが実際に現実のイエスの体と血に変化するというカトリック教義)と語ります。トレント宗教会議、13番目の会議において、第T典礼は述べます:「聖餐(the Eucharist)は真に、現実に本本質的に、私達の神イエス・キリストの魂と神性とともに肉体と血です」。カトリックのミサは何度も何度も繰り返されるイエスの「血に染まっていない(血が流されていない)犠牲」なのです。 しかし、聖書は繰り返して、「血の流されることなくして、罪の赦免がありません」と述べます。 

カトリックミサで提供されるウェハーを呼ぶ言葉は、犠牲者を意味するホスティア「hostia」です。それゆえ、永遠の犠牲者としてイエスは繰り返し各カトリックミサにおいて犠牲にされています。トレント公会議はまた述べました(セッション22、2章):ミサにおいて、「同じこの神性な犠牲の中に、キリストは現存し、そして祭壇の上の血に染まっていない方法で犠牲にされ、捧げられています。ただ、捧げる方法が違っているだけです」。ヘブル書 9:22と10:10-17のみことばによれば、これらのカトリック教義は聖書と完全に矛盾します。 

結果として、どうして「聖書的な聖餐」と「カトリックの聖餐とミサ」とを同等視することができるでしょうか?また、神であるイエスの人格と十字架の上の贖いの業を中心にする礼拝を行う代わりに、ローマカトリック教会は、聖餐のウェハーを「礼拝の中心」にし、実際、彼らの聖餐が「贖いのサクラメント」であるとその教義要覧の中で語っています。(1994カトリック教会セクション1846の教義要覧) そして「私達の贖いのわざはその場所で遂行され完成される」と述べられているのです。 (教皇政治のヴァチカンUオースティンフラナリー 1ページ)。 聖職者がウェハーを持って、「神の子羊を見よ」と言って会衆に提出する時、彼は本当に、そのウェハーが神の子羊、イエス・キリストであることを意味しています。 

「コーパスクリスティ」(ラテン用語で「キリストの死体」の意味)と呼ばれ、祭儀の間、カトリック教会はウェハー(イエスの人格ではない)への崇拝を強調します。 その日に、「聖体顕示台」と呼ばれた容器の中に運ばれる聖餐ウェハーの崇拝のため、カトリック教徒の行列が聖職者の後に続きます。 ローマ・カトリック教会が、贖いが、聖餐(the Eucharist)を摂取することによって来る、と信じるのです。彼らが言う時、その中には十字架の上でなされたイエスの業によってではなく、ウェハーを摂取することで、という意味なのです。 

それゆえ、カトリックミサ(聖餐)は聖書的な聖餐ではありません。彼らは同じ言葉を使うことができるけれども、意味はまったく違います。
 

●聖書のマリヤとカトリック主義のマリヤ 

マリヤについての唯一の信頼できる説明は、個人的に彼女を知っていた人々によって提供されている聖書からであり、さらに重要なこととして、聖霊による霊感の下で書かれた聖書から見出されるべきであります。 マリヤの生涯に言及されている聖句は90箇所以下で、私達はそれらが、彼女の控えめな救助者(ルカ 1: 47)としてイエスを喜んでいる神のすばらしい奉仕者であることを知ります。マリヤの奉仕は幼子イエスの出産と保育でした。 イエスが成人期に達した後、彼女は彼の地球上の奉仕活動について有力な役割をほとんど果たしませんでした。彼女の最後の言葉が記録されている所は、カナ(それはイエスの公的な奉仕活動を開始した場所)の結婚式宴会です。

彼女は、使用人に『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』(ヨハネ2:5)と適切な言葉を述べており、その後、マリヤは舞台裏に消えていきます。 聖書を検索してください。使徒たちの間でマリヤが果たしたリーダー的役割を全く見いだせないでしょう。彼女は教義を全く教えませんでした。 使徒たちが、何かを相談するためにマリヤを捜し求めている姿などは決して聖書に見いだせません。 福音書以外では、新約聖書においてたった一度言及されているのは、「使徒の働き」の中で、彼女が息子たちと共に祈祷会へ参加していることのみです。 

マリヤが、永遠の処女であるという教えは多くの聖句(マタイ 12:4マルコ 6:36、ヨハネ7:3、5、1Cor 9:5、ガラテヤ1:19、詩篇69:8,その他)と比べるなら聖書と矛盾しています。マリヤと同時代の人であった、初代の法王とみなされる使徒ペテロは彼女については何も書きませんでした。 使徒パウロはマリヤへの帰依または償いの重要性に関する、疑わしい言及を全く述べませんでした。 彼女を敬うことについて、聖書の最後の本を書き、イエス自身によってマリヤの世話を与えられた使徒ヨハネは何も語りません。 

イエスの再臨の前に最後の日々に人びとが大いに霊的な欺瞞に引き入れられているということがあるとは言え、イエスの真の母への、注目すべき『神のはしため』(ルカ1:38)という言葉が、ひどく誤り伝えられることによって、彼女の息子以上に、クリスチャンが彼女に引き寄せられているということはおおいにに悲しむべきことです。(逆に言えば)、カトリック教のマリヤは純血のまま懐胎し、永遠に処女であり、神と人の間の女性仲介者、および天の女王であるのです。 十万を超える聖職者たちによる「聖母マリア運動」の創立者ゴビ神父にマリヤが語ったところによれば、「わが像の全てに、わが臨在のしるしあり、そは、汝の天の母なることを覚えしめんため」と宣言しました。 従って、その像は尊ばれるべきであり、より高い尊敬に価する場所に置かれるべきである、となるのです。

 「私達のファティマの女性」を考えてみてください:彼女は「世界平和を打ち立てるために、毎日ロザリオを唱えてください…神は、私の純潔な心への敬慕を世界に設立することを望んでおられます。人々が、私があなたに話すことを実行するなら、多くの魂は救われれるであろうし、平和があるでしょう。」と語りました。 これらは聖書に見る控えめで、従順なマリヤの姿ではありません。ロザリオはすべての者が主のためにマリヤに10回祈りを捧げることを訴えます。しかし、イエスこそ「平和の君」です。ただキリストの一度限りの贖いの犠牲によって、魂は地獄から救われるのです。 マリヤの心の純潔さによるのではなく、また私達も、私達の主であり救い主に対して、他の誰よりも霊的に敬慕するゆえに、魂が救われるのではありません」(抜粋文終わり)。 無原罪懐胎のカトリック教義は、プロテスタントのキリスト教の教義が述べる「イエスが罪なしで誕生したこと」とは、別のものです。むしろ、それは、マリヤがどのような罪からも逃れて誕生したことを述べています。「おお、マリヤよ、罪なくして懐胎した方、あなたに依り頼むわれらのために祈りたまえ」この祈りは特に仲裁者として彼女を取り立てます------------。 

さらに、カトリック教徒は、特例として、マリヤがすべての罪、小罪*からさえ免れ保護されたと信じます。また、マリヤが、彼女の死の後で、天国の中に肉体をもって「引き上げられた」と教義的に信じているので、決して、彼女の罪の堕落を認めないのです。「マリヤ昇天」の祭儀と無原罪懐胎の両方はカトリック教会で「義務の聖日」とされており、「致命的な」*罪の刑罰の下にあるゆえに、この日に、ミサに出席することをカトリック教徒に義務づけています。 カトリック教会がマリヤに与えるタイトルの一つは「天の女王」です。 エレミヤ7:18と44:19、の中で、「天国の女王」に申し出をしているイスラエルの人々についてエレミヤは実際に語りかけています。そして、なおこの章の簡単な記事は、神がこの異教の礼拝のため非常に怒っていたことを示します。 「マリヤ様」(ロザリオの中で繰り返し使われた祈り)における呼称について、聖書的なものとカトリック的なものの混合があります。それはこう述べます: 

「マリヤ様、優美に満ちておられ、神はあなたとともにあります。あなたは女の中で祝福された方」 これは実際、ルカ1:28の中で見出されます。 しかし、祈りの残りは聖書的でありません。 それは、「聖なる、マリヤよ、聖母マリアよ、われら罪人のためにお祈りください。現在と私達の死の時に。アーメン」と述べます。 彼女はイエスにあってのみ神聖なだけです。彼女は神の母なのではなく子供イエスの母でした。カトリック教会がするようにそれを述べることは、イエスより上に優れたするタイトルを彼女に与えることになります。マリヤ自身は罪人であったゆえに、彼女は私達罪人のために祈ることができません。そして、イエスのみが、永遠に生きて、私達のために仲裁の祈りをすることができるのです。(Heb7:25)。
 

●第Uヴァチカン公会議は、何かを本当に変えたのか? 

1960年の第Uヴァチカン公会議の開催された後、ローマカトリック教会は、プロテスタント教会との溝を橋渡しする試みとして、速やかな内部変革を遂げています。ミサの祭儀は、今やラテン語に替わってその地域の言葉によって捧げられ、またプロテスタント教会の聖書を読むことを最早禁止せず、プロテスタント教会の礼拝に出席することを禁じていません。 司祭は、会衆に背を向けず、祭壇にあって、会衆に顔を向けています。最早、古典的カトリック賛美と応答歌ではなく、テンポの速いフォークソングが許されています。 しかし、変わっていない部分に注意しなくてはなりません。未だに、任命された司祭が強制的祭壇に立っています。未だ、イエスは永遠の生け贄としてミサの犠牲に供されています。キリストが掛けられた十字架像は現在もかわらず据えられています。そうです。カトリック教徒は今やプロテスタントの聖書を読むことができますが、自分でその解釈をすることは許されておらず、ただMagesteriumにのみ解釈が許されているのです。

 まだ、共同贖罪人、共同女性仲介者、天の女王であるマリヤに提供された9日間の祈り(9日の徹夜の祈り)とロザリオがあります。 法王の勅令が聖書を否定する時にさえ、彼はまだ、無謬であると考えられています。「伝承」はまだ、聖書と等しい地位を与えられています。 パンとぶどう酒を生きた聖体とイエスの血に変換するという聖職者の変質能力がもたらす、ウェハー(イエスのでない)の崇拝は、まだカトリック聖餐に残っています。 いくつかの点では変わったけれども、ローマ・カトリック教会の一つの根本的な教義は全く変わっていません。ほとんどのカトリック教徒と非カトリック教徒は、第Uバチカン公会議が、カトリック教会の幾世紀にも亘る教義を変えたと考えており、特に、福音派キリスト教徒が悩まされてきたものが、最早過ぎ去ったのだ、と考えられています。しかし、これまで見てきたように、実はそうではありません。 実際は、ローマカトリック教会は、以前の主要公会議における基準と判断を再確認して承認しているのです。「この聖なる公会議は、忠誠を尽くして、われらの先祖の信仰を尊び承認する。そして、これらの公会議とはニカヤ第U公会議、フローレンス公会議(煉獄説)トレント公会議(死者のためのミサ、法王の無謬性、救いの必須としてのカトリックの典礼)」−オースチンフラナリVOL.1 412ページ) 
 

トレント会議においては、宗教改革を非難し、百回以上の呪いをかけて福音主義信仰を地獄行きと決めつけています。これらすべての「神の恵みの福音」に対する非難を、第Uヴァチカン公会議は是認し、再確認しているのです。(デイヴ・ハント:「獣に乗った女」)(以下T・A・マクマホンによるトラクト「なぜそれが問題なのか」PART1) 以下の引用はトレント公会議からです。この公会議はプロテスタント宗教改革の教えを非難する前、19年以上先だって開かれた会議です。 このトレント公会議は16世紀に開かれ、その決議は第一ヴァチカン、第Uヴァチカン共に再確認されています。カトリックの立場を福音主義の福音理解の立場から熟慮してください。(救いは、恵みにより、キリストに対する信仰のみによる。彼の十字架の犠牲の死を通して、救いはあり、人類の全ての罪に対する刑罰が完全に払われた)第6会議、法規9: もし、だれでも、「人が義とされるのは、信仰のみによる。義認の恵みを得るために、それに加えて何ものも要求されない」と語るなら、彼はアナテマ(呪われよ。永遠に有罪とされる)たれ。第6会議、法規12: もし、だれでも、義とされる恵みを受けた後、罪責がすべて免除され、永遠の刑罰が全ての悔い改めた罪人から完全に取り除かれたので、果たすべき義務としてこの世においても、また煉獄においても、天国の門が開かれる前において、一時的な刑罰は残されていない、と語る者は、アナテマ(呪われよ。永遠に有罪とされる)たれ。

第7会議、法規4: もし、だれでも、新しい法規(正典と基準)による典礼(サクラメント)は、救いのために不要であり、それを除外してでも、人は信仰のみによって神より義とされる恵みを受けることができる、と語るなら、アナテマ(呪われよ。永遠に有罪とされる)たれ。 上に挙げた法令が要求するように、ローマカトリックは、救いのためにキリストへの信仰以上のものが必要であるとしているのです。 明らかな、聖書的福音への非難が、百を越える「呪い」とともに、トレント公会議においてなされ、1960年の第Uヴァチカン公会議で再確認(承認)されています。これらは、最高位のローマカトリックの権威(枢機卿と法王)から出ていることです。 正規基準に関する規範文に通じている一般信徒は、わずかです。そこには、教会を統治する決まりや実施条例が1750項目以上あります。(ただ、これらの決まりや実施項目は、カトリックがカトリックであると認められるために従われるべき事柄です)(第Uヴァチカン公会議以来)ローマは、福音主義の衣をまといました。そして、いくつかの聖書的なアクセサリーをも加えました。

(彼らの非聖書的救いは、依然として残っていますが)彼らの計略は福音的クリスチャンをそそのかして、ローマカトリックも同じ福音と同じイエスを宣言しているのだ、と信じさせる所にあります。 そこで、尋ねてみましょう。第Uヴァチカン公会議による「修正」は、福音派教団とのエキュメニカルの対話を設立したではないか?そして、カトリックは本当に変わったし、より聖書的になったことによって、福音派陣営とカトリックが、少なくとも「一緒に」なれることを証明したのではないか? クリスチャン統一を推進していた、オーガスチン枢機卿のビー神父は、第Uヴァチカン公会議の事務局長でしたが、ローマ側の意図を明確に以下のように述べています。「もし、このキリスト教統一運動の冒険と、われわれの開放が、ローマカトリック教会の立っている既成の教義的立場を、多少でも再考する用意がある等と結論づけられるなら、ローマカトリック教会は、大変な誤解をされることになるであろう。教会が実行しようとしていることは、より想像的に、そして現代的に、これら既成の立場を演出することにある。」(抜粋おわり)われわれの責任 われわれの最大の責任は、深い同情と愛をもって祈り、行動することです。われわれが、これらの真理をカトリック信徒と分かち合うとき、彼らが語られている真理を受け取れるように、聖霊による優しさで、愛をもってしなければならないのです。雄弁であっても高慢な言葉づかい、或いは人間的知恵の説得などで彼らに近づくことは必要ありません。ただ分かち合うことができれば…イエス・キリストはメシヤであり、この方が十字架に付けられたことを分かち合えるなら、それで十分です。 

もし、われわれや、ある組織が、カトリックをクリスチャンと呼び続けるなら、イエス・キリストただお一人によって救われるという真の福音は、偽りでダマされているカトリック信徒たちに決して提供されないでしょうし、新生体験したカトリック信徒が「カトリック主義の真実」を知ることもないでしょう。彼らは滅びてしまいます。何が正しいキリスト教で、何がそうではないかのラインを引くことがクリスチャンの愛にあって、しなければならないことではないでしょうか?カトリック教徒をキリスト教徒として認め続けることは、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる神」の愛ではありません。(第Tテモテ 2:4) この報告書の目的は、単に真理を知るということです。この真理を分かち合わずにおられないという「愛」は、ただ、主との深い祈りから生まれるものです。主イエスこそは、カトリック教会という「蜘蛛の巣」に捕らえられた彼らへの深い重荷を持っておられるお方です。私たちが祈るなら、彼、キリストご自身が、カトリック信徒とともに彼の愛と真理を分かち合えるようにと、私たちにその重荷を与えて下さるでしょう。

参考文献・付録書籍
「全ての道はローマに通ず」マイケル・デ・セムリエン著「ローマによる福音」ジェームス・G・マッカーシー著「プロテスタントとカトリック」彼らはもう同意しているのか?ジョン・アンカーバーグ&ジョン・ウエルドン著「ローマ主義の秘密」ジョセフ・ザケロ著「二つのバビロン」アレクサンダー・ヒスロップ著「獣に乗った女」デイブ・ハント著WEB SITES and MINISTRIES: http://www.pro-gospel.org/ Mike Gendron, Proclaiming the Gospel P.O. Box 940871 Plano, TX 75094. e-mail: ptg@pro-gospel.org http://www.gnfc.org/ http://www.reachingcatholics.org/articles.html

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