ユダヤにより計画された英ピューリタン革命:


チャールズ一世の断首を行った英国革命の裏に潜むユダヤ

 かつてユダヤ人を追放した国家に侵入する計画がどれほど首尾よく実行されたかは、以下の
記録によって判断される。一六〇〇年、ユダヤ人は英国に戻った。ハンガリ−には一五〇〇年
に戻ったが、一五八二年に再度追放され、スロヴアキアには一五六二年に戻ったが、一七四四
年に再び追放された。また、リトアニアには一七〇〇年に戻った。何度も追放されたが、ユダ
ヤ人地下組織は常に存在しつづけ、そこから 「秘密権力」 の革命活動が指示された。
 英国王エドワード一世はユダヤ人を追放した最初の人物だったから、フランス、オランダ、
ドイツのユダヤ人金融男爵は、計画された革命テクニックをまっ先に英国で試せば、趣のある
正義となると考え、地下組織の代理人(組織細胞) を利用して国王と政府のあいだに、雇用者
と労働者のあいだに、支配階級と労働階級のあいだに、教会と国家のあいだに軋轢を生じさせ
た。陰謀者は政治と宗教に侃々諾々の議論を持ち込んで国民を対立陣営に二分した。最初はカ
トリックとプロテスタントに、さらにはプロテスタントを英国国教徒と非英国国教徒に分立さ
せたのだった。

カネで雇われたクロムウエル


 チャールズ一世が議会と対立状態に置かれると、オランダの金融男爵マナセ・ペン・イズラ
エルはその代理人にオリヴアー・クロムウエルと接触させ、「英国の王座を転覆させるという
彼らの計画を実行してくれれば大金を提供する」 と申し出た。マナセ・ペン・イズラエルの他
にもドイツ、フランスの金貸し業者がクロムウエルに資金を融資した。歴史上の 「偉大なるユ
 ダヤ人」 として言及されることも多いポルトガルのフエルナンデス・カーヴアハルがクロムウ
エルの中心的な請負人となって円頂党を再編して軍をつくり、金で買える最高の武器、装備を
これに与えた。陰謀が進展すると、訓練を受けた何百人もの革命兵士が英国に密かにおくり込
まれ、ユダヤ人地下組職に合流した (これとまったく同じことは、現在のアメリカでも生じて
いる)。

 当時、英国におけるユダヤ人地下組織の指導者はデ・ソウズだった。偉大なるユダヤ人であ
るフエルナンデス・カーヴアハルはその影響力を利用して、デ・ソウズをポルトガル大使の地
位に就けた。革命的ユダヤ人地下組織の指導者たちが秘密のうちにその目論み、企てを練りあ
げたのは外交特権に守られたデ・ソウズの屋敷においてだった。

 革命が決意されると、ユダヤ人陰謀者はカルヴィニズムを英国に導入して教会と国家、そし
て国民を引き裂いた。一般通念に反して、カルヴィ二ズムはユダヤにその起源があり、キリス
ト教の信者を分派させ、国民を分立させるために入念に考え出されたものだった。カルヴイン
の本名はなんとコーヘンなのである。ジユネーヴからフランスに移って、その思想を広めはじ
めたときにはコウインとして知られ、英国に渡ってからカルヴインとして知られるようになっ
たのだった。スイスで目論まれない革命が存在しないように、その名を変えないユダヤ人事命
指導者も存在しないーまさに歴史が示すところだ。
 

一九三六年にパリ (フランス) でブナイ・ブリスの祝典が催されたとき、コーヘン、コウイ
ン、カルヴイン (いずれが本名であるとしても)、彼がユダヤの血を引いていたことが喝采の
うちに承認された。

 宗教論争ばかりではなく、革命指導者は武装暴徒を組織し、その指揮者によって政治、労働
にもたらされたあらゆる状況を悪化させた。のちにビーコンズフィールド卿となったペンジヤ
ミン・デイズレーリの父親アイザツクディズレーリ (一七六六・一八四八年) はユダヤ人で、
その著書「チャールズ二世の生涯 」 (全二巻) のなかで、英国の革命
をこの角度から詳細に論じている。同書でアイサック デイズレーリは、当時駐英フランス特
使だったユダヤ人、メリキオール デ セーラムの記録からかなりの情報を入手していること、
そして英国およぴフランスの革命に先んじる革命的活動に見られる類似性ないしはそのバター
ンに大いに注目していることを述べている。換言すれば、世界革命運動の陰に隠れたほんとう
の指揮官のやり口が、どちらにおいても明確に見られるということだ − それこそが私がさ
らに実証しょうとしている事実である。
 
 

   チャールズ一世処刑の企て


 オリヴアー・クロムウエルがユダヤ人による革命の企てに加担したことを断固、実証する証
拠はノース・ブリティッシュ出版社から発行されていた週刊の評論誌『プレーン・イングリッ
シュ 』 の編集者アルフレッド・ダグラス卿によって入手された。一九二一年
九月三日号に掲載された記事で、同卿は友人でアムステルダムに住むL・D・ヴアン・ヴアー
ルカートが、ミユールハイムのシナゴーグの記録のうちの散逸していた一冊を所有するように
なった経緯について述べた。これはナポレオン戦争時に失われたもので、シナゴーグの指導者
層に宛てられたり、指導者層によって記されたりした書簡の記録だった。
 それはすべてドイツ語で記され、一六四七年六月一六日の日付のある一通には以下のょうに
書かれていた。O.C.(オリヴァー・クロムウエル) よりエベネゼル・プラット宛て。
 

  経済支援の見返りに、ユダヤ人の英国への入国を提唱しよう。しかしながらこれは、チャ
 ールズが生きているかぎり、実行され得ない。が、裁判にかけないかぎり、チャールズの処
 刑は不可能であり、現在のところ裁判にかける適切な根拠も存在しない。それゆえ暗殺があ
 り得ることをチャールズに諌言するがよかろう。とはいえ、当方には暗殺者の手配に関わる
 つもりは一切ない。チャールズの逃亡を手伝うだけだ。
 

 これに対する返答として、記録によれば、E・プラットは一六四七年七月一二日にクロムウ
工ル宛てに以下のょうな手紙を記した-

  チャールズが除去され、ユダヤ人の入国が認められ次第、経済支援を行なう。暗殺は危険
 すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるだけでよい。その後に身柄を拘束すれば、裁判に
 かけることも、処刑も可能となる。支援は惜しまないが、裁判が始まらないうちから、金額
 についての議論をしても意味はない。
 

 同じ年の一一月一二日、チャールズは逃亡の機会を得たが、無論、再監禁された。この時代に関する研究の権威、ホリスもラドロウも、この逃亡をクロムウエルの策略と見なす記録を残
している。チャールズが再監禁されると、事態はたちまち進展した。クロムウエルは国王に忠
誠を尽くすと思われる議員の大部分を英国議会から追放した。このような強硬措置がとちれた
にもかかわらず、一六四八年一二月五日に夜を徹して下院議会が続けられると、大多数は 「国
王によって提出された譲歩案は和解のために納得できる」 と合意した。

 和解の実現は、E・プラットを介して国際金融男爵から約求された血塗れの金(殺人謝礼金)
をクロムウエルが受け取れなくなることを意味した。そこで彼はもう一度手を打ってプライド
大佐に命じ、国王との和解を支持した議員を議会から追放させた。これが歴史の教科書に現わ
れる 「プライドの追放」 である。
         
 追放の結果、五〇名の議員が残り、「議会」 として記録される議会が構成され、絶対
権力が奪取された。一六四九年一月九日、英国王を裁く目的で、クロムウエルの軍隊出身の
 
「水平派」 がその三分の二を占める 「高等法院」 が宣言されたが、このメンバーにはチャール
ズ一世に対して犯罪告発状を草案する英国人法律家を見いだせなかった。そこでカーヴァハル
は英国におけるマナセ・ペン・イズラエルの代理人でユダヤ人のアイサック・ドリスラウスに
命じて国王チャールズ一世を裁くための告発状を書かせた。チャールズは英国民ではなく、ユ
ダヤ人である国際金融男爵によって差し向けられた罪状に対して有罪を宣告され、一六四九年
一月三〇日にホワイトホール (ロンドン) のバンケッティング・ハウスの前で公開処刑された。
エドワード一世によって英国を追放されたユダヤ人金貸し業者にしてみればきサタンのシナ
ゴーグの高僧から指示を受げつつ − これで復讐が果たせたのだった。そしてオリヴアー・クロムウエルは、かつてユダがそうしたように、血塗れの金を受け取った。

戦費を貸し付けて国家財政を転覆させる


 歴史が示すょうに、国際金貸し業者のユダヤ人は、復讐以外の目的からもチャールズを亡き
者にしようとした。英国経済および英国政府の支配権を手中におさめるためである。彼らはま
た、∃ーロッパの多くの国家を英国との戦争に巻き込もうと計画した。戦争遂行には巨額の資
金が必要とされるため、戦争を誘発し、その軍事費を∃ーロツパの諸国王に貸し付ければ、∃
ーロッパ諸国すべての国家負債を急速に大きくすることができるからだった。
一六四九年のチャールズ一世の処刑から一六九四年の英国銀行の設立に至る歴史的出来事を
並べると、国家負債がどんどん膨らんでいくさまがよくわかる。国際銀行家はあの手この手で
キリスト教徒を互いに対立させていった。
 

一六四九年=クロムウエル、ユダヤ人から経済支援される。アイルランドでの戦いを開始。
      =ドロエダ、ウエックスフォードを占領。
      =英国プロテスタント、アイルランドのカトリック教徒の処刑を非難される。
一六五〇年=モントローズ、クロムウエルに反乱。捕らえられ処刑。
 一六五一年=チャールズ二世、英国に侵入。敗北してフランスに逃げ戻る。
 一六五二年=英国、対オランダ戦争。
一六五一二年=クロムウエル、護国卿を宣言。
一六五四年=英国、さらなる戦争。
一六五六年=植民地アメリカで問題発生。
一六五七年=クロムウエル死去 − 息子リチヤードが護国卿に。
一六五九年=リチヤード、策謀に嫌気がさして辞職。
一六六〇年=モンク将軍、ロンドンを占領。チャールズ二世、王位を宣言。
一六六一年=クロムウ工ルおょびその仲間のアイルトン、ブラッドショーによって計画され
     た策略の真相が暴露され、大衆の反応は深刻。国王殺害者の遺体が掘り起こさ
      れ、タイバーンヒル (ロンドン) で縛り首に
一六六二年=宗教紛争が発生し、プロテスタントのメンバーが諸派に分裂。英国国教会に属
      さない非国教徒、迫害される。
一六六四年=英国、再度の対オランダ戦争。
一六六五年=英国全土に不況が波及。失業、食糧不足により国民の健康が害される。加えて
      ペスト禍が広まる。
一六六六年=英国、対フランス、対オランダ戦争。
一六六七年=カバルの代理人による新たな宗教および政治紛争が生じる。
一六七四年=英国、オランダと和睦。国際陰謀者、配役を変える。仲介者となり、地味なウ
      ィリアム・ストラツドホルダー氏をオランダ軍の総司令官に立てる。オラニエ
     家皇太子ウィリアムとなったウィリアム・ストラツドホルダーと王位継承者である∃ーク公の長女                    メアリ−との出会いが手配される。
一六七七年=メアリーとオラニエ公ウィリアム、結婚。ウィリアムを英国の王位に就けるに
     はチャールズ二世とジェームズ二世となるはずのヨーク公の二人が取り除かれ
      なければならなかった。
一六八三年=チャールズ二世と∃ーク公の暗殺を企てたライハウス事件が生じるも、失敗。
一六八五年=チャールズ二世死去。∃ーク公、英国王ジェームズ二世となる。即刻、ジェー
      ムズ二世に対してランファーミ−運動が開始される。言いくるめられたか、ある
     いは賄賂を与えられたかして、モンマス公が王権転覆のための反乱を指揮。六
      月三〇日、セッジムアの戦い。モンマス、敗退して逮捕され、七月一五日に処
     刑。八月、歴史家の言う 「血の巡回裁判」 をジエフリーズ判事が開始。モンマ
      スの反乱に関与した約三〇〇名が残虐な方法で死刑に処され、一〇〇〇人近く
     が奴隷として売られる (陰で操る 「秘密権力」 によって 「秘密権力」 以外の人
     物が責めを負う状況がつくりだされた典型例)。

                   結果として、責めを負わされ
     た人物に対する反対運動が起こされ、そうした人物が抹消されることになる。
     ジェームズ二世は、オラニエ公ウィリアムが国王となって 「秘密権力」 の指示
      の実行に着手しないうちから、抹消されなければならない存在となった。英国
     民は皆、途方に暮れた。真実を知ることができなかったからだ。彼らは陰で繰
     る 「秘密権力」 以外、すべての人物、すべてのことを責めた。陰謀者は次の段
      階に進んだ。一六八八年=オラニエ公ウィリアム、トーペイに上陸するよう命じられる。一一月                        五日、ウイリアム、これを決行。ジェームズ二世は退位してフランスに逃亡。ランファ
     ミー運動、陰謀、さらには自らの愚かさと罪のために、彼は大衆の支持を失っ
      ていた。
一六八九年=オラニエ公ウィリアムと公妃メアリー、英国王ならび王妃を宣言。ジェームズ
     二世には戦いもしないで退位するつもりはなかったが、彼はカトリック教徒だ
     ったために、オラニエ公ウィリアムがプロテスタント信仰の擁護者として 「秘
     密権力」 によって擁立された。一六八九年二月一五日、ジェームズがアイルラ
     ンドに上陸。断固対立する宗教信念を持った人々によってポイン川の戦いが戦
      われた。以来、七月一二日には秘密結社オレンジ・ソサイエティの党員によっ
     てこの戦いは祝されている。とはいえ現在、仮に一万人の党員がいたとしても
    一六四〇年から一六八九年にかけて戦われた戦争、反乱のすべてが、英国の政
     策および経済を支配できる地位に就こうとした国際金貸し業者によって誘発さ
     れたものだったとは一人も知らないのではないかと思われる。そうした金貸し
     業者は、英国銀行の設立許可を受けること、そして彼らによって誘発された戦
     争の費用として英国に貸し付けた金の返済を確保することを何よりの目的とし
     ていた。この目的を彼らがどのように果たしたかについては歴史が示すとおり
      である。 分析をつきつめると、戦争、革命に関わったどの国家もどの良民も、
恒久的利益を得ていな
いことが明白となる。

政治的、経済的、宗教的問題に関するかぎり、恒久的あるいは満足のゆ
く解決が実現されたためしはない。利益を得るのは、戦争、革命に資金を融資した金貸し業者
と、軍隊、船舶、軍需品を提供したその友人、代理者といった小集団に限られている。
 英国の王位についたオランダ将軍は、英国大蔵省を説得して一二五万ポンドの金を、自らを
英国に送り込んだユダヤ人銀行家から借金させた。歴史の教科書が伝えるところによれば、こ
の話し合いは英国政府を代表するジョン・ハブロン卿およぴウィリアムーバタリン氏と、正体
 を秘密に保たれたままの、金貸し業者のあいだで行なわれたとされている。

 歴史文書の研究によって、秘密を保つために、貸付け条件についての交渉が教会内で行なわ
れたことは明らかである。キリストの時代、金貸し業者は神殿を利用した。ウィリアム公の時
代、彼らは教会の神聖さを汚した。国際金貸し業者ほ自らが条件を設定できるなら、英国大蔵
省に一二五万ポンドまで融通してもよいとした。 この提案は承認された。以下に彼らが設定し
た条件の一部を記しておく、
 

 1、貸付けを行なった人物群の名は伏せられること。そして彼らに英国銀行設立の特許状が
与えられること。
 2、英国銀行理事に金本位制を確立する法的確限が与えられること、それによって。
                                   
 3、金庫室に保管されている金 一ポンド等価で一○ポンド相当まで貸付け可能とすること。
 4、国家負債の清算およぴ国民からの直接税によって、元金と利息としてしかるペき金額の

支払いの確保が認められること。
 

 こうして、国王オラニエ公ウィリアムは一二五万ポンドのために英国民を経済的隷属状態に
陥らせ、ユダヤ人金貸し業者はその野望を果たした。国家通貨の発行、管理の権限を奪取した
のである。この権限さえ手に入れてしまえば、彼らは誰が法をつくろうと一切関知しなかった。
 金本位制が採用されたとはどういうことか[簡単な取引を例にとって考えても容易に理解
できる。英国銀行の理事は抵当物として保管されている金一〇〇ポンド等価で一〇〇〇ポンド
相当の貸付けを行なうことができたという二とだ。

利息はまるまる一〇〇〇ポンドにかけられ
たから、利息五パーセントで年間五〇ポンドが取りたてられ、それによって最初の一年が終わ
った時点で、彼らは貸付けを保証するために貸し出した金額の五〇パーセントを回収していた。
また、融資を望む相手が個人の場合、銀行家は不動産、株券、債券など、必要とされている貸
付け等価以上の抵当物を求め、この個人が元金、利息を支払えなかった際には、抵当物受け戻
し権喪失の手続きをとって貸付げ等価の何倍もの資産を手に入れた。
 

 国際銀行家には、英国に国家負債を完済させるつもりなど毛頭なかった。彼らは、関係国家
すべてをどんどん借金状態に追い込むような国際状況を現出しようと計画していた。
 英国に関するかぎり、国家負債は増加の一途をたどり、一六九四年から九八年にかけての五
年間で一〇〇万ポンドから一六〇〇万ポンドまで膨れあがった。すべては戦争のためだった。
この時期の軍事指導者がジョン・チャーチル (一六五〇・一七二二年)だったことを思うと興
味深い。その軍事的才能および英国への貢献から、彼には初代マールバラ公の肩書きが与えら
れた。
   
世界革命運動の背後に潜む「秘密権力」は、糸を操ってスペイン王位継承戦争を引き起こし
た。一七〇一年、マールバラ公はオランダ国軍の最高司令官に任じられた。唯一、『ユダヤ百科辞典」だけが、「数々の功績にゆえにマールバラ公爵には、年間少なくとも六〇〇〇ポ
ンドの金がオランダに住むユタヤ人銀行家から与えられていた」
という事実を記録している。

 一六九八年から一八二九年のあいだに英国の国家負債が八億八五〇〇万ポンドにまで膨れあ
がった事情は、フランス革命に至る出来事によって説明される。一九四五年には英国の国家負
債は二二五億三五〇三万二三七二ポンドという天文学的数字となり、一九四五・四六年のあい
だの金融経費だけで四億四五四四万六二四一ポンドに及んだ。
「この異常なポンドにあくまで執着するのはユダヤ人支配下にある組織くらいのものだろう」
-あるアイルランド人経済学者はそう言った。
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