虐殺のゆえにベルギー国際法廷に訴えられている

イスラエル首相シャロン

 

 
 
 

サブラ・シャティーラでの
虐殺に対する
アリエル・シャロンの関係責任
(フランス語からの公式英訳文より和訳)
 

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訳および資料作成において、以下のサイト/ページを参考・引用させていただきました。

●『パレスチナ』広河隆一著(岩波新書)約束の国の真実1〜約束の国の真実9
●血で血を洗うイスラエルの「レバノン侵攻」と「パレスチナ難民大量虐殺事件」
●Web無料公開『湾岸報道に偽りあり』
●東方観光局イスラエル、レバノン、パレスチナ
●中東人物伝
●Teaching Letterイスラエル史の重要な事実40
●なぜなにIDF
●ZenJustice.com
●Human Rights Watch
●Bashir Gemayel Home Page

その他、関連資料サイト
[注意] 以下は悲惨な資料写真が置いてあるサイトも含みます
●CAABU>>Campaigns>>Ariel Sharon and war crimes
●PRRC>>The Indict Sharon Campaign
●Arab European League
●Enough - Crimes Against Humanity
 

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序文
 

 
●原告  1.サミーハ・アッバース・ヒジャーズィー夫人
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)

2.アブデル・ナーセル・アラメー氏
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)

3.ワドハ・ハッサン・アル・サービク夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

4.マハムード・ヨーニス氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

5.ファディア・アリ・アル・ドーキ夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:サイダ)
 

6.アミーナ・ハサン・モフセン夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:サイダ)
 

7.サナ・マハムード・セルサウィ夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

8.ナディーマ・ユーセフ・サイド・ナセル夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

9.ムーナ・アリ・フセイン夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

10.シャーキル・アブデル・ガーニ・タタット氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

11.スアード・スルール・アル・メリ夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

12.アクラム・アフメド・フセイン氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

13.バヒージャ・ズレイン夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

14.ムハンマド・イブラーヒム・ファキー氏
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)
 

15.ムハンマド・シャウカット・アブー・ルーデイナ氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

16.ファディ・アブデル・カーデル・アルサッカ氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

17.アドナーン・アリ・アル・メクダード氏
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)
 

18.アマル・フセイン夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

19.ヌーファ・アフメッド・アル・ハティーブ夫人
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

20.ナジブ・アブデル・ラーマン・アル・ハティーブ氏
(国籍:パレスティナ、現住所:ベイルート)
 

21.アリ・サリーム・ファヤード氏
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)
 

22.アフメッド・アリ・アル・ハティーブ氏
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)
 

23.ナーゼク・アブデル・ラフマーン・アル・ジャマール夫人
(国籍:レバノン、現住所:ベイルート)

 
 

代理人となる弁護団は以下の通り:

弁護士:リュック・ウォーレイン(在ブリュッセル)

弁護士:ミハエル・ベルハーグ(在オーフェライセ)

弁護士:チブリ・マーラット(在ベイルート)

原文では、原告、弁護団ともに詳しい現住所が掲載されている。
 

 
アリエル・シャロン、アモス・ヤロン両氏、およびその他のイスラエル人、レバノン人に対して、1982年9月16日木曜日から18日土曜日、サブラ、シャティーラの難民キャンプで起こった大虐殺によって、一般市民が被害を受けた殺害、 強姦および行方不明の責任を求める民間訴訟である。
 

この告訴は、1993年6月16日(1999年2月10日改正)国際的な人道主義の法律の重要な違反の抑圧に関連したの法律に基づいて行われ、とくに該当する点は以下の通りである。
 

●大虐殺行為(I)
●人間性に対する罪(II)
●1949年8月12日に、ジュネーブで署名されたジュネーブ条約によって保護される人と所有物に対する罪(III)
 
 

告訴は、関連する同じ犯罪と同様、国際慣習法と国際法上の強行規範(ius cogens)に基づく。
 

原告は、これらの犯罪によって個人的に負傷を受けたり、それだけでなく近親者や財産を失った。
 

 

公式訴状:サブラ・シャティーラでの虐殺に対する
アリエル・シャロンの関係責任
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B. 個々の被害
 

 
1) 原告、サブラ・シャティーラの生存者
 

現在の請求に追加して、原告は個人的に受けた虐待についての供述を提出する。それぞれの供述はアラビア語の原文をフランス語(そして今、英語→さらに日本語)訳された。非常に説得力があり、多くを物語るものである。
 

01 サミーハ・アッバース・ヒジャーズィー夫人
 

火曜日、イスラエル軍が来ると、一帯は砲弾の嵐でした。状況はさらに悪化するので私たちは地下のシェルターへ降りました。()私たちが、虐殺が行われたことを知ったのは金曜日です。私は隣人の家へ行きました。隣人の大けがをしたムスファ・アル・ハバラットが自ら流した血の海に横たわっていました。彼の妻と子ども達は死んでいました。私たちは彼をガザ病院へ運び、それから逃げました。状況が落ち着いてから、私は戻り、娘と夫を4日間探しました。4日間かけて、すべての遺体を見て回りました。ようやく見つけた娘のゼイネブは顔が腫れ上がり死んでいました。娘の夫は体を二つに切られ、頭部はありませんでした。私は二人を運び、埋葬しました。
 

アッバース・ヒジャーズィー夫人は娘と義理の息子、娘の名付け親、そして他の愛する人を失った。
 
 

02 アブデル・ナーセル・アラメー氏
 

殺戮の夜、私たちは家にいて、シャティーラで虐殺があったことを聞きました。()私たちは夜中、交代で数時間眠っては道路を見張り、それは誰かが脱出の手はずを整えた夜明けまで続きました。私たちに先立ち、西ベイルートへ行っていたはずの弟を待ったのですが、彼が帰って来ることはありませんでした。事実、弟はイスラエル軍に連れ去られた一人で、二度と彼に会えず、彼の遺体さえ見つかっていません。
 

アラメー氏は彼の19歳だった弟を失った。
 
 

03 ワドハ・ハッサン・アル・サービク夫人
 

家族と家にいた9月17日の金曜日、近所の人たちが来て「イスラエルが来たわ。イスラエル軍へ行ってみて。スタンプを押した用紙を持ってきてるから。私たち見てきたの。私たちが行ったとき、戦車と兵士たちが配備されてた。でも驚いたことに、レバノン軍もいっしょだった。男を捕まえて、私たち女、子どもはまとめてそのままにしたわ。子どもと全部の男を引き離して捕まえると、『スポーツセンターへ行け』って言われて、そこに連れて行かれたの。午後7時までそこに留められて、それから今度は『ファクハニ(Fakhani)へ行け、ただし自宅には戻るな』って。それからよ、彼らが私たちにむかって銃撃をはじめたのは」。
 

一方では、ここでは数人の男が逮捕されました。イスラエル軍は彼らを連れ去り、私たちは彼らを見つけることも、彼らに何が起こったのか知ることもありませんでした。この日まで、私たちは何が起こったのか知らず、ただ彼らは姿を消したのです。
 

アル・サービク夫人は2人の息子(16歳、19歳)と兄弟、そして15名の親族を失った。
 
 

04 マハムード・ヨーニス氏
 

私は11歳でした。あの夜、爆撃と銃撃の音が聞こえていました。()私たちは寝室に逃げ込んで、そこでじっとしていました。彼らが家に来るとすぐ、居間へ直行し、「ブラック・セプテンバー事件(ヨルダン内戦)」で殺された兄の写真をはじめ、壁から写真をむしり取りました。彼らは口汚く罵りの言葉を吐きながら、居間を荒らしました。私たちを探しながら見つけられなかった彼らは、そのあと屋根に上がって一夜を過ごしました。銃声と人々の悲鳴を聞きながら、隠れた部屋で過ごした恐怖の夜が明けるまで、イスラエル軍は照明弾を打ち上げて空を照らしていました。
 

翌朝、彼らは「出てこい、命は助けてやる」と言い始めました。18か月の甥はお腹を空かせ、隠れていた場所は台所からずっと離れていました。姉が甥を静かにしようと手で赤ん坊の口を覆いましたが、心配したとおり彼らはおそらく聞きつけたのでしょう。いずれにせよ全員の運命は神に定められているのだからと、姉の夫は投降することを決心しました。女性が先に出て、私の兄弟、父、義理の兄、そしてほかの家族がそれに続きました。私の兄弟は病気でした。私たちの声を聞きつけた彼らは、私たちのいる方へ銃を撃ちはじめ、家の中に戻ってきました。家に入ってきて誰も見つけられなかった昨日、お前はどこにいたのかと彼らは尋ねました。そして女と子どもに外へ出るよう命じました。義理の兄は小さな娘にキスをはじめ、別れを告げていました。武装した男が姪に近寄ると、首にロープを巻いて締め上げ、父親に彼女を外に出さなければ絞め殺すぞと脅迫しました。彼は娘を外へ出し、私に託しました。彼らは母とほかの女性たちをスポーツセンターまで歩かせました。歩いていると、うちのそばで斧で首を打ち落とされて殺された伯母の夫のアブ・ナエフを見ました。遺体は形を留めていません。姪を抱いて歩いていると、斧でめった打ちにされた死体につまづいて転びました。それで私が少年であると知った一人が、私をつまみ出すと壁に向かわせ、頭に弾を撃ち込もうとしました。母が彼にすがってキスをして懇願したので、私は行くことができたのでしょう。彼は母を押しのけると、母が胸に隠し持っていたお金がチャリンと鳴ったのを聞きつけ、それは何だと尋ねました。お金はみんなあげるから、子どもを私から取りあげないでと母は答えました。こうして私たちはスポーツセンターへ送られ、到着しました。イスラエル軍のブルドーザーが忙しく広範囲を掘りおこしていました。私たち全員が入らなくてはならない、と伝えられました。彼らは私たちを生きたまま埋葬したがっていたからです。死ぬ前にお水を一口くれないか、と母は彼に再び懇願しはじめました。
 

スポーツセンターでイスラエル軍と、もちろん戦車、それにブルドーザーや大砲を見ました。全部イスラエル軍のものです。イスラエル軍とファランジストも混ざっていました。
 

スポーツセンターは子どもと女性でいっぱいでした。私たちは夕暮れまでそこにいました。イスラエル兵の一人がやってきて「みんなコラ地区へ行け。キャンプへ戻った者は誰でも殺す」と告げました。そしてその場を立ち去ろうとする私たちにむかって発砲しはじめたのです。
 

ヨーニス氏は父、3人の兄弟、母方の伯父、母方の従兄弟、父方の従兄弟2人、そしてほかの家族を失った。
 
 

05 ファディア・アリ・アル・ドーキ夫人
 

爆撃がはじまり、キャンプがイスラエル軍に包囲されたことを知ったとき、父は家族に脱出するよう勧めました。みんなでいっしょに行こうと促すと、父は家を守らねばならないと拒絶しました。父を家に残して、私たちは逃げました。そのあと虐殺が全域に及んだことを知りました。新聞に掲載された写真で、父が亡くなったことがわかりました。父の足は切り落とされていました。父が避難していた家にいた近所の人が、どのように彼が殺されたのかを教えてくれました。
 

当時11歳だったアル・ドーキ夫人は、父親を失った。
 
 

06 アミーナ・ハサン・モフセン夫人
 

爆撃がはじまった火曜日、家族は家にいました。私は外で何が起こっているのか知りませんでした。爆撃が激しくなってきて、自分自身と子どもたちを守るため出ていこうとしました。外に出ると、通りには死体が並んでいました。子どもたちは怯えました。一人のイスラエル兵は私たちに、この場を立ち去るように命じました。レバノン語を話す人も何人かいました。イスラエル軍が駐留している地帯から出ると、彼らは私たちに向かって銃を撃ち始めました。その時、子どもの数を確認すると、サミールがいません。地面に横たわる死んだ人たちを見た息子のサミールは、恐れおののくあまり走り出したのです。至るところにイスラエルとレバノンの兵士で溢れていたその時、私には息子を探しに行ける冷静さを失っていました。逃げました。そして虐殺のあと、サミールを探しましたが、バラバラにされた死体は損壊がひどく、私は死者の中から息子を見分けることはできませんでした。
 

モフセン夫人は16歳の息子を失った。
 
 

07 サナ・マハムード・セルサウィ夫人
 

サブラのサイド地区に住んでいた私たちは、爆撃がはじまったとき、シャティーラの私の両親の家へ避難する手はずをつけていました。水曜日のことです。真夜中ごろ、西部地区から来た女性数人が、そこで人が殺されていると口々に言い、私たちはもう一度、キャンプの中心部へ向かって逃げようとしました。そこで、夜明けとともに療養所にあるシェルターへ身を隠しました。当時、私は妊娠中で、しかも乳飲み子の娘2人をかかえていました。土曜日までの2日間、私たちは療養所にいました。しかしミルクが底を尽き、夫が娘たちのために何かを探しに出かけました。夜はとても長く、イスラエル軍は照明弾で空を照らします。それは夫がサブラへ出かけた日のようでした。イスラエル軍がガザ病院近くまで進軍して来たので、夫を探しに外へ出ると、妹も彼女の夫を探すために出てきていました。二人でシャティーラの入り口へ着くと、彼らは男性を片側へ、女性を逆の側へと分けていました。私はすべての男性をくまなく見回しました。夫をみつけた私は彼に言いました「知ってるでしょ、ココにいるのはファランジストよ」。「テル・アル・ザアターで起きたのと同じことが私たちにも起きようとしているんだ」と夫は答えました。武装した男たちが、私たちとそして後ろにいた男性たちに、前で歩くように命じました。私たちはこんなふうに歩きながら、やがて公共墓地へ着きました。そこではブルドーザーが掘り起こしはじめています。私たちの集団に混ざっていた白い看護人のシャツを来た男性を、彼らが指して呼びだすと、全員の前で弾丸の雨を降らせました。女性たちは悲鳴をあげはじめます。イスラエル軍はクウェート大使館前とリナブ駅前では拡声器で、私たちはイスラエル軍の支配下に入るように請求する告知を行っていました。
 

それが彼らの支配下で生き延びる方法でした。彼らが私たちをスポーツセンターへ連行していくとき、おそらく男性は私たちの後ろを歩いていたのだと思います。男性はシャツを脱がされ、目隠しをさせられました。このような状態でスポーツセンターではイスラエル軍が若者を服従させ、尋問を行い、ファランジストは200人の人々をイスラエル軍に差し出しました。こうしたことがあり、私の夫も、妹の夫も帰ってくることはありませんでした。
 

セルサウィ夫人は30歳だった夫と義理の弟を失った。
 

 

Jenin--Forget you not--
「ジェニンを忘れるな!」
署名はこちらで → http://www.petitiononline.com/JENIN/petition.html

ジェニンではデ−ル・ヤシンにおける大虐殺と同規模の虐殺が起こっていた。シャロンは、ジェニンにおいて、殺戮と破壊、彼が人間以下の存在であると軽蔑する最悪の異教徒、すなわちパレスチナ人を殺したいという己の病的なまでの欲望を解き放つ決意を固めていた。

パレスチナ人というのは、シオニストの思惑にとって目ざわりな存在である。シオニストは、一方では、世界に対し、パレスチナは「土地なき人々のための住み手のない土地」であると言ってきた。その一方で、シオニストはこの「現実を歪めたマントラ」を自分たち自身に向けて唱え続け、それを信じ込んでいった。シオニストは自分たちが勝手にイスラエルであると思っている地域を民族浄化し、自分たちの夢を半ば現実のものにした。その地域からパレスチナ人を追い出すことによって。

1948年、シオニストがデ−ル・ヤシンで民間人254名(老人・女性・子ども)を虐殺し、その他の村でも小規模の虐殺を行なった時には、彼らはパレスチナ人を強制退去させることができた。しかし、今回(2002年)のジェニン難民キャンプのケースでは、シオニストはデ−ル・ヤシンと同様に民間人の殺害を行なったのだがパレスチナ人を強制退去させることはできなかった。そのかわりに、激しい抵抗に会い、戦闘において命を捨てる覚悟をも辞さない姿勢にシオニストはたじろいだ。

これは彼らの描いていた青写真とは正反対の事態である。そして、事がシオニストの思惑通りに進まなかったことが事態を最悪のものにした。デ−ル・ヤシンの虐殺はシオニストの思惑通りに事を運ばせた。つまり、住民を強制的に立ち退かせることによって「住み手のいない土地」を手に入れることができたのである。しかし、今回のジェニンキャンプにおいて住民からつき返されたメッセージ、「自分たちは立ち退かない」「自分たちはここに留まり続ける」「必要とあらば死んだっていい」というメッセージは、シオニストの思惑とはまったく逆のものだった。

パレスチナ人たちが、現在いるところへ留まり続ける決意を固め、自分たちの存在が現在住んでいる土地の切り離すことの出来ない一部分であると主張しているのだから、シオニストは「住み手のない土地を手に入れる夢」が容易には実現しそうにないという事実と折り合いをつけなければならない。いかなる暴力、包囲攻撃、飢餓も現在のパレスチナ人の意志を打ち砕くことはできない。イスラエルは現在感情的な危機に直面している。

イスラエルは報道陣をジェニンに入れさせない。イスラエルの宣伝組織に妨げられながらも、数多くの証言が徐々にではあるが報道網に浸透していきつつはある。しかし、その一方で、何か恐ろしい、何かとてつもなくひどい出来事がジェニン難民キャンプで起こったのではないか、と誰もが勘ぐりはじめている。イスラエル寄りのCNNネットワークのレポーターであるベン・ウェドマン氏さえもが、「イスラエルは何かを隠している、世界に見られたくないものが何かある、という感じがする。」と述べている。

生存者の数は数えられるだろう。そして、ジェニン難民キャンプのがれきの下に埋められた人の数(彼らのうち何人かは生き埋めにされたのだが)もまた数えられるだろう。そして、パレスチナの代表交渉人であるサイーブ・エラカットの出した500人という数字が仮に実際のナブルスやジェニンの死者数に非常に近い、またはそれよりも低く見積もられた数であったとさえしてもそれは驚くべきことではない。

連続殺人者シャロンは、サブラ、シャティ−ラにおける大量殺人での責任に関してベルギーの法廷に告訴されている。しかし、そんな状態にありながら、彼は今回パレスチナの中心地ジェニンでまた新たな虐殺を行なった。4月12日、イスラエルのハアレツ紙はとうとうイスラエル軍が巨大墓地を作りそこに大量の死体を埋めたことを明らかにした、という記事を載せた。しかし、報道陣は現地を見ることが許されず、イスラエルは今後も視察団がジェニンキャンプ訪問を許可されない理由を説明しようと長期に渡って言い訳をし続けていくつもりでいる。

しかし、結局の所、真実はイスラエルのメディア包囲網の迷路を通り抜けてから顕在化し、世界に届くのだろう。世界中の人は、この男ならやりかねないというひとりの指導者のもとで行なわれた直接的で組織的な大量殺人を許し、またそれを容認したという点では消極的な意味での共犯者である。その時までに世界中の人はそのことを認識しなければならない。

我々が黙って何もしないでいる時間が長くなればなるほど、イスラエルは自分たちの犯罪を隠蔽し、虐殺について真実が明らかにされるまでに時間がかかってしまう。

それゆえ直ちに調査を開始するよう国連に求めるべきであるし、望ましくは国連高官からなる独自の調査委員会によるジェニン難民キャンプの調査開始を公式に要求するよう私はパレスチナ代表に求める。

 
 
 
 
 
 
 

Q&A: ベルギーの類まれな法律
 
 

ベルギー司法当局が、今注目を浴びている。戦犯容疑者の国籍や犯行が行われた場所が世界中のどこであろうと、ベルギーの法律にしたがって戦争犯罪を訴えることができる。

原文:Q&A: Belgium's unique law July 5, 2001
ようこ(訳)+apo(編)

この法律の判例として最も有名なのは、1994年に行われた同胞への組織的大量虐殺で果たした役割に関する2人のルワンダ人修道女の有罪判決。現在、再びイスラエル首相アリエル・シャロンに対する司法調査で話題にのぼっている。シャロンは1982年に国防相として果たした役割について提訴された。

CNNのパトリシア・ケリー記者がブリュッセルで、この法律の国際司法への影響について取材した。

 
  ルワンダ人修道女の裁判で一躍有名になった
この法律が、導入されたのはいつ?
  制定されたのは1993年。その後まもなく、ルワンダ人修道女への調査が開始され、今年(2001年)の裁判まで続きました。

さまざまな人々が、すでにこの法律によって犯罪を申し立てられています。最初のルワンダの裁判が見本になりました。このあとで訴訟がどんどん起こされたわけではなありません。数件に関しては申し立てられたのはルワンダ以前ですし。例えば、国連のある将軍のルワンダ事件への関与に対して提訴されましたが、起訴は不受理となりました。

ベルギー法廷はチリの元指導者アウグスト・ピノチェト将軍がイギリスを訪問した際に逮捕、監禁されたと同時に彼を指名手配しました。

すでにイスラエル首相アリエル・シャロンに対しては、提訴が一件却下されています。訴訟を起こした人物が申し立てられた犯罪に関係していなかったからです。
 
  この法律で扱われる罪は?
  組織的大量虐殺(ジェノサイド)、戦争犯罪、そして人道に対する犯罪です。

  導入された理由は? それは誰が?
導入の推進力となったものは?
  この法律が導入されたのは、世界的な国際犯罪裁判所を設立するという国際的な努力の一環としてです。ベルギー政府が最終的に立法を裁定し、1999年、組織的大量虐殺と人道に対する罪の告発が可能なように改正が行われました。

政府に強く働きかけたベルギー議会に密接に関わってきた多くの人権派人権派弁護士と上院議員が、この法律の導入の推進役となりました。

  この法律が持つ権限は?
  理論的には、何人たりとも起こされた訴訟を免れることはできません。裁判を免れるのは、調査によって犯罪に関わっていないと判明した場合のみです。

最初の調査手続には約1週間を要します。次の段階で包括的調査が行われ、これが数か月続きます。その結果、起訴か不起訴かが決定されます。例えば、ベルギーと無関係のグリーンピースやイラク人がアメリカ大統領に対して訴訟を申し立てることも可能ですし、セルビア人がジャヴィエ・ソラナ(訳注:NATO事務総長)に対して戦争犯罪で訴訟を申し立てることができるのです。提訴を行う誰に対しても法廷は開かれた存在ですが、起訴されるかどうかはまた別の問題です。
  この法律は最終的に、
ハーグの国際戦犯法廷と競合するのでは?
  いいえ、これは全くハーグに関係したものではありません。ハーグの裁判所は国連安全保障理事会により設立されました。現在、旧ユーゴスラビアとルワンダで行われた犯罪容疑を扱っています。ハーグは特別裁判所です。ベルギーの場合、国内法によって、ベルギー法廷の裁判権が国境を越えて及ぶことを規定したものです。

  世界の指導者何人かは、
ベルギー訪問を避けるようになるのでは?
  そうは考えません。心配する問題のない政治家なら、誰もベルギー訪問を戸惑い悩む必要はありません。ある国家元首が、どこの国の政府からでも招かれて公式訪問する場合、そこで逮捕はされません。しかし、休暇で訪問していたなら逮捕は可能です。

ベルギーはさらに、この法律の改正を予定しており、現在、改正案が非公開の作業部会で作成されています。

改正の一つは、国家元首がまだ政権の座にある間は、一時的に免責機関を与えるというもの。ただし任期が満了した時点で、必要であるならもちろん告訴は可能です。

もう一つの改正案は、現行の裁決がたった1人の治安判事によるという状況から改善して、裁判官で構成される審査員団が裁決を行い、さらに国際逮捕状の発行責任まで担わせるものです。

どちらが現実化されるか否か現在のところわかりませんが、決定が来年まで持ち越されることはないでしょう。
  ルワンダ人修道女裁判に対して
ベルギー国内の反応は?
  (法の有効性への)確信です。懲役12年、またもう1件の懲役20年という裁判の判決が、どの新聞でも一面ヘッドラインを飾りました。つまり、ベルギー国民とこの法律は感覚においては違いがなかった、ということです。

この法律にはまだ議論の余地があり、まだその長所と短所について討論されている最中です。

  調査と裁判の負担を分かち合ってくれる
追随する国の登場をベルギーは期待していますね。
現実味はどのくらい?
  たとえばスイスやカナダなど、ベルギーの法律がいかに施行されるか関心を持って見つめている国があります。そのうちの何か国かはベルギーの後に続くことになるでしょう。
 
 
 
 
 

ホベイカはレバノンでの虐殺の「新たな証拠」を握っていた
ベルギー上院議員、語る
 

Hobeika had "new evidence" about Lebanon massacres: Belgian senator
January 24, 2002, 01:02 PM arabia.com
 

ブリュッセル(AFP) ベイルートで車両爆破によって殺害されたレバノンのキリスト教民兵組織の元指揮官エリー・ホベイカは、サブラ・シャティーラでの虐殺に関する新たな証拠を持っていることを今週、ベルギー上院議員2名に告白していたことが明らかになった。そのうちの1人、ジョゼ・デュビエ上院議員はさらに、ホベイカが「脅迫されている」事実を火曜日に行われたレバノンでの会合の席で2人に打ち明けたと述べた。

ホベイカは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻時におけるベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでの虐殺を実行したレバノンのキリスト教民兵組織の参謀だった。木曜の朝、ベイルートの自宅近くを車で通り過ぎたところ、車両爆破で3人のボディガードとともに殺害されている。

仏語系緑の党(エコロ)所属の議員で、ベルギー上院司法委員会議長を務めるデュビエはAFP通信に対して、ホベイカはデュビエとフランドル地方選出の上院議員バンサン・ヴァン・キッケンボルネに、自分が虐殺に関与していなかったと語ったという。さらに「無実の証拠」を持っていると断言した、とデュビエは述べている。

「ホベイカは虐殺の3日間、サブラ・シャティーラに立ち入っていないと言ってました」と上院議員は語る。侵攻当時、国防相だったイスラエルのアリエル・シャロン首相は、現在ベルギーで本件における組織的大量虐殺の罪で、訴訟にかけられている。

デュビエによれば、3人のベルギーの上院議員で組織されるレバノンへの派遣団のための一連の会議とは別に、火曜の夕方、ホベイカとの秘密会談が行われた。3人目の上院議員、仏語系社会党ジャン・コルニルは、この時すでにレバノンを離れていた。その席でホベイカは、シャロンが虐殺と関わった事実をベルギー当局が立証するのに「いちばん正式なブリュッセルの訪問の仕方を私に確かめてきた」とデュビィは言う。

デュビィが、身の危険を感じないかと尋ねると、「危険な状態だ。ただ私には真相を明かす事実がある」とホベイカは答えたという。「だから私は、それならなぜ今その事実を出さないのか、と尋ねたのです」と言う上院議員に「『裁判までとっておく』と彼は答えたのです」。

「ホベイカを消して得をするのは誰でしょう? それが核心です」とデュビィは言った。「私にはわかりません。しかし確かなのは、彼がしゃべらないことで得をする人間が多い、ということです」。

司法関係筋によれば、水曜、1982年の虐殺でのシャロンの責任を問う司法調査を続けるかどうかは、ブリュッセル上訴裁判所の刑事法廷により3月6日に決定される。

「私達が確認している限りにおいて、ベルギーにこの事件を裁く権限はない」とシャロン側の弁護士アドリアン・マセットは水曜日、非公開の公聴会の後、報道陣に語った。しかしベルギーの検察官は、イスラエル側のそんな主張ムム組織的大量虐殺と人道に対する犯罪によるシャロン告訴を受け入れるべきではないという異議ムムをすでに却下している。

1982年、イスラエルのレバノン侵略の後、およそ800から1500人ものパレスチナ難民がキリスト教民兵によりキャンプで殺戮された。シャロンに対するこの訴訟は、戦争犯罪、人道に対する罪、および組織的大量虐殺について、犯罪が行われた場所に関わらずベルギーの法廷で裁けるという1993年に制定されたベルギーの法律に基づき、虐殺によるパレスチナ人生存者とその遺族、計23人によって提訴された。
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「ホベイカ暗殺があってもまだ優勢だ」原告側弁護団Sharon case 'strong' despite assassination(Guardian)
 

レバノン政府、元民兵組織指導者の暗殺事件でイスラエルの関与を指摘(Y!JAPAN)
 
 

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殺害された将軍、シャロンが裏から攻撃-シリア国営ラジオ報道
Slain Warlord: Sharon Behind Attack(AP)

[インタビュー]レバノン政府、シャロンとの和平は不可能
INTERVIEW-Lebanon says peace impossible with Sharon(Reuters)

ベイルートでレバノン元閣僚ら爆死 イスラエル暗殺説も(朝日新聞)
 

82年パレスチナ人虐殺「首謀者」ホベイカ氏爆殺か ベイルート近郊(毎日新聞)
 

ロバート・フィスク:シャロン裁判の証人になるはずだった男、これも暗殺リストか?
The man who would testify against Sharon is blown up. Was this another targeted killing? By Robert Fisk in Beirut

ロバート・フィスク:エリー・ホベイカ:色男の血にまみれた戦争犯罪
Elie Hobeika: lady-killer and blood-soaked war criminal By Robert Fisk in Beirut
[日本語訳]→All about Robert Fisk
 

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レバノン元指揮官、車両爆破で殺害
Lebanese warlord killed in car bomb(AP)

爆弾、元レバノン官僚の命奪う
Bomb kills Lebanese former warlord(BBC)

閣僚の死とシャロン裁判と関連
Warlord death 'link with Sharon case'(BBC)

ホベイカのプロフィール
Profile: Elie Hobeika(BBC)
まずは金。ガッチリ稼ぐなら、やっぱ武器でしょ、とイスラエルはギリシャに先進システム搭載のF-16戦闘機を売りつけることが決定。ちなみにこの飛行機、ガワはアメリカ製で、システムはイスラエル製。窓口はエリースラグループで、CEOのAvner Raz氏によれば「少なく見積もって5億ドル(約628億円)」のお取り引き。アメリカは「911事件のようなテロ抑止にもなるし、くるしゅうない、よきにはからえ」と合意。

もっともアメリカには、これ以上イスラエルがフトコロ不如意になると、ワシントン最強のロビー、AIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)からどんな注文されるかわからん、という本音もあったかも、だ。世界1の借金大国でありながら、アメリカはイスラエルに毎年、援助しているのだから。それも高額な。今年は軍備に20億4000万ドル(約2561億6280万円)、経済援助に7億2000万ドル(約904億1000万円)。しめて30億ドル(約3767億1000万円)近く「よきにはからえ」してるのだ。なんて心の広いミツグ君なんだ!と感心するのは早い。この金額を削減しようとすると、AIPACからアッパーカット喰らって、政治生命の終わりにもなりかねないんだからしょうがない。ま、もともと税金だしね。ちなみにイスラエルのGDP(国内総生産)は1124億ドル(2000年)。

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≪catcitymama短信≫ フランス外務大臣ユベール・ヴェドリンはシャロン首相を『最悪の政治』を行っていると非難。イスラエルでは、もと左よりの人もだんだん右に寄ってきていて、ペレス外相の支持者も少なくなったようです。ペレスの提案は、パレスティナ一国、イスラエル一国。そして共通の経済です。彼の朋友、ラビン首相の極右イスラエル青年による暗殺時のペレス(現外相)の苦悩の表情を私はしっかり記憶しています。先日、もう一人の長年のパートナー、アラファトと同じテーブルに着きながら会談を拒否したのは、シャロンの指令を受けてのものらしいです。
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西洋人は何もわかっていないとフィスク氏は嘆く。そんな無理解が悲劇を生んでいるのだ、と。ブルカをかぶらせるのを非人道的と騒ぐなら、デイジー・カッターで大量殺戮を行うことは人道的なのか? 他国の文化を批判するより理解せよ、と。中東に、中央アジアに深い理解を寄せるフィクス氏の視線はやさしい。そして理解をもって接すれば受容されうることを立証してみせた。──彼は「西側嫌い」のオサマ・ビン・ラーディンへのインタビューに3度も成功している。アメリカが、そして西洋が「嫌われる理由」をブリティッシュ・ミッドイースタンの彼が鋭く指摘する。

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著書
『The Point of No Return: The Strike which Broke the British in Ulster(1975)』
『In Time of War: Ireland, Ulster, and the Price of Neutrality(1982, 1983)』
『Pity the Nation: Lebanon at War(1990, 1992)』
最近では、『Iraq Under Siege: the Deadly Impact of Sanctions and War(2000)』にノーム・チョムスキーらとともに寄稿。(写真はBBCより)  ロバート・フィスク 中東・中央アジア専門のジャーナリスト/政治学博士。Independent紙中東特派員、The Nation誌、Znetで執筆。ベイルート在住。

1985年のダブリンのトリニティー・カレッジで政治学の博士号を、イギリスのランカスター大学で文学とジャーナリズムの名誉博士号を修得。 1971-1975年「タイムズ」紙ベルファスト特派員、1976-1987年同紙中東特派員を勤め、以後、現在まで中東からのレポートを行っている。これまでに、北アイルランド紛争、レバノンへのイスラエル侵攻(1978/1982)、イラン革命(1979)、イラン・イラク戦争(1980 - 1988)、アフガニスタンへのソビエト侵攻(1980)、湾岸戦争(1991)、ボスニア戦争(1992 - 1996)、アルジェリア内紛 (1992〜)、NATO軍のユーゴ攻撃(1999)、パレスチナ動乱を取材。

1995年、ジョン・ホプキンスSAIS-Ciba国際ジャーナリズム部門賞を授与されている。アルジェリアのレポート、NATO軍のユーゴ空爆の記事で1998年と2000年にアムネスティ・インターナショナルUK・メディア賞受賞。

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