ローマ・カトリック主義の真実

                  M. H.レイノルド

*この教会の真実の姿は、背教そのものである。

 ローマ・カトリック教会は、すべてのいわゆる「キリスト教教団」の中で最大で、最も裕福です。彼らは、一貫して、自分たちが唯一の真実の教会であると主張してきました…教会とは、イエス・キリストによって、彼の地上での活動の間に設立された教会のことです。
さらに、特に、今日の世代において、この教会はそのイメージを飾り、尾ひれをつけ、この教会こそ、今迄一度も変わったことのない唯一の教会である、という主張によって教会会員を惹きつけて止みませんでした。しかしこれらの主張すべては間違いです。

 それどころか実際のところは、近年この現代において、この教会は実際はカトリック教徒、同じく、非カトリック教徒の変化するニーズを満たすために、多くの変更を自慢げにしながら、完全な180度の転向を果したのです。

 ローマ・カトリック教会は世界に只一つの真実の教会でしょうか?
その過去と現在の教えと習慣は聖書的ですか?
どのようにローマ・カトリック教会は世紀を通して変わりましたか?
それは私達の生涯においてどれほど変化をきたしましたか?
 これらの変化は基本的な点だったでしょうか、それとも表面的なものでしょうか?
ローマ・カトリック教会はどこに向かっているのでしょうか?

 この記事の目的は、ローマ・カトリック信仰の過去の歴史と現在の教えについて、その両方に真実のスポットライトを向けることです。
 私達の心からの願いは、これがカトリック教徒への助けになることです。
(彼等の多くは、近年、彼らの教会が多くの変化を設けたことに十分に、気づいています。そしてその変化のほとんどは、彼らを混乱と不確実さに陥れ、深い悩みの中に放置しています。)

 その信仰の初期の頃、彼らの生活において、多くのカトリック教徒は彼らの教会、その指導者たち、その教え、およびその実践について、重大な問題を感じます。
 彼らは現在、彼らの教会が一致結合するのではなく、産児制限、流産、離婚、聖職者の独身、女性牧師、同性愛聖職者、教皇制度の無謬、祈り、礼拝、音楽、煉獄、告白、およびミサの意味などの問題で意見が分かれることに気づいています。

 カリスマ運動を揺さぶり動かした道徳的な退廃と金銭のスキャンダルはまた、バチカン宮殿から地域教区までのローマ・カトリック教会全体で暴露されています。彼らの宗教をまじめに考える最上位にある、カトリック教徒は混乱に捕らえられ、どうしたらいいかわかりません。
 これ以上のさらなる混乱の源は、幾世紀にも及んで、ローマ・カトリック教徒は、この教会の外にいるすべての人は、異端者であり、避けられ、迫害されるか、殺されるべきであると教えられてきたという事実です。
 最初に「非カトリック教徒」を「分離した同胞兄弟」と呼ぶことによって、ローマ・カトリック教会がその立場を修正し、軟化したのは、20世紀の半ば以降でした。最近、その否定的な言外の意味さえ取り除かれて、今日、カトリック教徒は「すべてのキリスト教徒」を「キリストにある兄弟と姉妹」であると考えることになっています。しかし、非カトリック教徒へのローマ・カトリック教徒の側での変更された外向けの姿勢と彼らが福音的な用語を頻繁に使用することとは、結果として、カトリック教の基本的な偽りの教義と異端が今や変化、改善したと信じる多くの福音主義クリスチャンを生じてしまいました。

 従って、カトリック教徒と非カトリック教徒の両者は同じ様な目を持ち、聖書的に、歴史的に、またこの教会の現在の姿を、このおそらく世界で最も大きいキリスト教教団を新鮮な目をもって観察しなければなりません。
 この教会が、もし本当に、彼らが主張する通りの、唯一の真実な教会であるなら、キリストにあるすべての信者はその一部になるべきです。
 しかし、それがいつも、偽りの教会であるならば、本当に聖書を信じ、そして救い主としてイエス・キリストを信じる者はすべて、この教会から別れて、この教会について警告し、さらに自分たちと同様に警告するべく、他の人に勧めるべきでしょう。

 私達の広いラジオと文書の働きを通して、以前ローマ・カトリック教徒であった多くの人々が、カトリック教会の偽りの教義の束縛から救われたという連絡を受けることは大きな祝福です。それらの人々は、単純にイエス・キリストへの信仰によって新しい誕生を経験しました。そして、次に彼らは、カトリック教徒である愛する人や友人たちに、神の言葉とイエス・キリストの福音とを届けようと最善を尽くしています。
 同時に、キリストを救い主と公言する、もともとカトリックではなかった多くの人々が、ローマ・カトリック教会が最近とっている、新しい態度や新しいカトリックの語彙によって、欺かれていることを知って、大変心を痛めています。というのも、大勢の福音的クリスチャンがカトリック教会を、偽りの教会(これこそ実際の現実ですが)というよりも、「些細な違いしかない姉妹教会」であるとして受け入れ始めているからです。

 ローマ・カトリック教会についての真実は、それが絶えず偽りの教会であり続けていることです。神の神聖と無謬の言葉、聖書を否定する伝統に基づいたローマ・カトリック教義によって、信仰と教えを告白する聖書的な教義が損なわれています。誤りが真実と見せかけて提示される時以上に、人を欺くものはありません。
 その全体の歴史を通して、ローマ・カトリックの指導者たちは、第Uペテロ2:1−3、18、19の中で説明されている、偽教師に符合しており−彼らは、作り話(虚飾や偽善)によって多くの人々を欺いて、その空しい大言壮語を持って、終わりの日に現れるであろう−と前もって警告された、偽りの教師と言えます。
 ローマ・カトリック教会のよく知られている偽りの教えのいくつかを試験し、反駁する前に、ローマ・カトリック教の二つの基本的な偽り(その他の多くの誤りを別にしてさえ)の教えを理解し、これを真実の教会というよりも、カルト宗教として明確に分類することは必須です。
 これらの二つの基本的な誤りとは:
まず第1に、
ローマ・カトリック教会は、聖書は神の言葉であると教えながらも、偽りの外典を聖書に追加し、また、教会伝統と法王と協議会(人の言葉)の布告を、神の言葉と同等あるいは、それ以上に重い位置に高めていることです。これは、神の言葉に追加し、従って神ののろいの下にローマ・カトリック教会を置くことに該当します。申命記4:2;黙示録22:18、19。

第2に
ローマ・カトリック主義は、イエス・キリストへの信仰が救済に必要であることを教えながらも、罪の赦しと永遠の命のための要件としてサクラメント、善きわざ、および煉獄を追加することによって、実際のところ福音の真実を否定しています。これは、神ののろいの下にローマ・カトリック教会を置き、偽りの福音を説くことに相当します。ガラテヤ1:6-10.
このように、聖書の基準によれば、ローマ・カトリック教会は、神の恩恵を期待できる真実の教会どころか、神の裁きをのみ期待できる偽りの教会なのです。どれほど沢山の外観の変化も、この事実を覆い隠すことを許されません。その歴史がイエス・キリスト、ペテロ、または他の使徒にまで辿れる、というローマ・カトリック教会の主張がありますが、そのような主張は歴史と聖書の支持を欠いたものなのです。

 マタイ16:16の中で記録されるように、イエス・キリストの真実の教会はペテロ自身にではなくペテロがキリストを神と告白したことに基づいていました。シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)
 ペテロは最初の法王ではなく、ここにはそのような職務のための聖書的正当性は何もありません。彼の立場と働きについて、ペテロ自身の霊感を与えられた証言は、ペテロ5:1-4で提出されています。
 第Uペテロ1:1においてペテロは彼自身をしもべ、およびイエス・キリストの使徒と認識しています。
 歴史は初代教会においても、またローマ・カトリック教会の初期の世紀においてさえ法王が全く存在していなかったという事実を確認しています。

 さらに、ローマ・カトリック教会が、一貫して、決して変わらなかった唯一の教会であったという長い間保持されてきた主張は、教会史によっても、ローマ・カトリック教会史によってさえも支持されてはいません。
 しかし、いかにこの偽りの主張が、多くの人々に影響を与え、ローマ・カトリック教会に加わらせ、またそこにとどまり続けてさせているかを知ることは、なんと悲しいことでしょうか。しかし、実際にはこの教会のその変化の産物は数えられないほどなのです。
 これらの変化のほとんどは、その後にローマ・カトリックの教えと礼拝に組み入れられた異教の習慣と実践とを生み出す結果として起こりました。以下は、17世紀の期間にローマ・カトリック教義の一部になった異教的で、聖書に反する習慣の部分的なリストです。
与えられた日付のいくつかは、近似的なものです。
 多くの場合に、これらの異端は、それが必要とされる信仰の地位を与えられる前に、何年もの間討論されました:

1. 死者のための祈祷   300年A.D.
2. 十字を切る    300年A.D.
3. 天使と死んだ聖徒への尊敬  375年 A.D.
4. 礼拝に偶像を用いる   375年 A.D.
5. 日々の祝会としてのミサ  394年 A.D.
6. マリヤ崇拝の始まり:「神の母」という用語がエペソ公会議で適用
 431年 A.D.
7. 終油の秘跡    526年 A.D.
8. 煉獄の教義(グレゴリウスT世)  593年 A.D.
9. マリヤと聖徒たちへの祈祷  600年 A.D.
10. 十字架、偶像、遺跡の礼拝  786年 A.D.
11. 聖徒の列聖   995年 A.D.
12. 聖職者の独身制   1079年 A.D.
13. ロザリオ    1090年 A.D.
14. 免罪    1190年 A.D.
15. 聖体変化(インノセントV世)  1215年 A.D.
16. 懺悔(司祭への罪の告白)  1215年 A.D.
17. 聖体拝領    1220年 A.D.
18. 聖杯を一般信徒に禁止  1414年 A.D.
19. 煉獄説を教義として宣言  1439年 A.D.
20. 七つの秘跡の教義を確定  1439年 A.D.
21. トリエント公会議で「伝承」が聖書と同等の権威であることを宣言
 1545年 A.D.
22. アポクリファ(偽典・外典)を聖書に加える
   1546年 A.D.
23. マリヤの無原罪懐妊  1854年 A.D.
24. 信仰と道徳に関する事柄における法王の無謬性をヴァチカン公会議によって宣言
 1870年 A.D.
25. マリヤ昇天(マリヤの死直後、彼女の肉体は天に挙げられた)
 1950年 A.D.
26. マリヤを教会の母と宣言  1965年 A.D.

 前述のローマ・カトリック教会の異端的教義については、今も教会の内外で多くの人々によって論議されていますが、どれも公式に拒否されたことはなく、数百万人のカトリック教徒によって世界中でなお行われ続けています。ローマ・カトリック教徒、およびすべてのクリスチャンと呼ばれる人にとっての現在、差し迫った必要は、自分たちの教会における信仰と教えが、果たして唯一確実な基いである聖書に基づくものであるかどうかを吟味することです。たとえ、多くの人がどのようにその教えに執着するとしても、旧新約66巻の聖書と矛盾していたり、その教えが聖書に加えたり、そこから取り去っていたりするものなら、それは全て誤りです。

 聖書を読むローマ・カトリック教徒は、多くのカトリックの教えや習慣が、聖書により禁じられている、特にイエス・キリスト自身によって禁じられていることをすぐに発見することでしょう。

 無益な礼拝、無益な伝統、および無益な繰り返しについて、当時の宗教指導者に対して主イエス・キリストによって与えられた以下の警告を慎重に心に留めてください。これらのすべては今日特にローマ・カトリック主義に適用できます。

・無益な礼拝(マタイ15:8-9)『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』それが神の言葉よりも人の命令に基づく時に、すべての礼拝は実に無益です。

・ 無益な伝統(マタイ15:6)『自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。』

注:有効な伝統は聖書に基づき、それを立証します。無益な伝統は人の教えに基づき、聖書に違反します。ローマ・カトリック主義の中で、一貫して伝統を聖書より高めており、結果として無益に礼拝すること(たとえどんなに誠実でも)となり、結果として神の命令を無効にしています。これは非常に重大な問題です。

・ 無益な繰り返し(マタイ6:7)『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』ローマ・カトリック礼拝の基本的部分は、ヒンズー教、イスラム教、および仏教などの異教の宗派にその起源をはっきりと辿れる「ロザリオ」の頻繁な繰り返しです。ローマ・カトリック教徒は、カトリック主義の無益な繰り返しを用いることよりも、無益な繰り返しを禁じているキリストの言葉に耳を傾けるべきです。

 この40年の間に、ローマ・カトリック教会の少なくとも三つの重要な傾向がはっきりと観察されています。それらは、
(1)マリヤの地位に、より大きい重点を置く。
(2)すべての宗派の完全な可視的な統一性を求めるという視点でのエキュメニカル運動に大きな重点を置く。
(3) 「聖霊の働き」と謳われた新しい強調点を持つ教会、いわゆるカリスマ的リニューアル(更新)の受容。

これらの主要な流れのそれぞれが今後引き続き増大するであろうと信じる、すべての理由がここにあります;そして、これらすべては常に人を欺き、非常に危険で、非常に反聖書的です。

 ローマ・カトリック教会においてマリヤに与えられている地位は、非聖書的であり、かつ、新しいものでもありません。しかし、決して否定されることはなく、この100年間でマリヤへの崇敬は劇的に増大しています。前述の歴史図表の中で、マリヤと「聖母マリア」という用語の賞揚が西暦431年に公式なカトリック教義になったこと、彼女への祈りが添えられたのが西暦600年であったことに注意してください。しかし、彼女の「無原罪懐妊」が宣言されたのが1854年であったことにもご注目ください。彼女の昇天は1950年まで、そして「教会の母」という称号は、近年1965年まで宣言されることはありませんでした。

あるローマ・カトリックの観察者たちは、マリヤが公式に「キリストとの共同贖い主」と宣言されるまで、さほど遠くないかもしれないと信じています。
実のところ新しいローマ・カトリック出版物の主要な問題、『カトリック遺産』(第1巻、No.1の1991年の9月-10月)は第一面タイトルが「マリヤ、教会の母」となっており、質疑応答欄の中の、質問は、「十字架の足下で、マリヤは情熱の神秘を分担しました。本当か、嘘か?答えは:真実です。マリヤは彼女の悲しみを彼女の息子と結びつき共有しました。マリヤの惨めな純潔な心は彼女の息子と共に人類のすべてのために血を流しました。この理由で、われわれは『共同贖い主』という名のもとで、マリヤに助けを懇願するのです。」と記されています。

 この30年の間の法王のすべては、聖書にというよりも完全に伝統に基づいているローマ・カトリック教会におけるマリヤの影響を増大させるために彼らの職務のある部分を費やすことでした。

 1975年8月28日の公式バチカン新聞には、「ロゼバトレ・ロマノ、法王パウロ6世が、聖ペテロ寺院でのマリヤの昇天祝賀会前日に「マドンナの誉れ」記念式典のスピーチで、「サウルス・ポピュリ・ロマーニ、として知られるマリヤの尊い像は、聖マリヤ寺院から行列によって運び出されました。それは、神聖な年の式典の一部として、世界各地からあふれ来る巡礼者たちが、それを見ることができるためであり、このようにして、キリストの唯一で中心的崇拝と切り離すことができないマリヤへの崇敬が増すためなのである。このことによって、マリヤ崇敬の意味と実践とがわれわれ全てに思い起こさせられるためである。さあ、信頼と幼子のごとく謙ってマリヤに祈りましょう。」

 現在の法王、ヨハネ・パウロ二世が完全にマリヤに献身したことをご存知ですか?1985年、法王がバンクーバーを訪問した際にB.C.の特別な記念版として、カトリック信徒たちは、「すべてをあなた様に」とラテン語で書かれた字幕の下の法王の一面写真の入ったものを携えて帰りました。以下の説明は、1958年にピウス7世によりキャロル・Wojtylaがクラカウの司教に就任した際に、「すべてをあなた様に」を彼のモットーとして取り上げて、彼自身をマリヤに捧げました。法王に選ばれたすぐ後の彼の最初のUrbi et Orbiメッセージの中で彼は、「この困難な時代に、恐怖で満たされた私達は、常にキリストの中央に住まわれた彼の母として存在される聖母マリアに対し、幼子の愛情を持って私達の考えを向けなければなりません。私達は、20年前、私達の心と魂に銘記されたTotus Tuus(すべてをあなた様に)を繰り返さなければなりません。」と言いました。

 法王ヨハネ・パウロ二世は主要なマリヤ寺院の多くを訪問しました。彼は、暗殺者による死と東ヨーロッパの共産主義からの彼の脱出を「マリヤの介入」に帰していました。数百万人のカトリック教徒は、マリアの寺院を巡礼し、捜し求め、しばしば、癒しの奇跡とマリヤへの彼らの祈りに対する答えを主張しています。マリヤの新たな出現と彼女からの特別なメッセージは世界の様々な地域で主張されています。しかし、これらの信仰または習慣には、いかなる聖書的な根拠も全くありません。マリヤは、まことに処女(性的に純粋)でした。それは、旧約聖書の預言「キリストは処女から生まれる」を成就することでした。(イザヤ7:14).彼女は信心深い女性でしたが、罪の無い人ではありませんでした。キリストにあるすべての真の信者と同様に、マリヤが死んだ時、彼女の魂と霊は天国に行ったけれども、彼女の体は復活を待ちます。イエス・キリストのようにではなく、彼女は肉体をもって天国に昇りはしませんでした。聖書のどこにも、祈りがマリヤに捧げられたり、彼女が誰かによって拝まれたことをも示していません。マリヤについてのローマ・カトリック教育のほとんどは、完全に人間の伝統に基づいたものであり、聖書、神の言葉を否定しています。

 ローマ・カトリック教会の現在のエキュメニカルの強調と運動とは、これもまた近年に始まったことです。第Tバチカン公会議が1869年-1870年に開催された時に、法王からギリシャ正教会への参加招待は断られました;
 そして、彼の大衆は、「プロテスタントとすべての非カトリック教徒」に、憤慨すべき拒絶を受けた「唯一の真の信者」に報い返すことを訴えています。しかし、仲裁の年に、彼らの教会が特に他の教会との関係についていくつかの重大な更新の(最新のものにする)必要があることが、ローマ・カトリック上層階級にますます明らかになりました。1960年に、法王ヨハネXXVはキリスト教統一を促進するために事務局を設立しました。そして、1962年に、彼は、「世界教会のためのエキュメニカルな協議会」と呼んだ第Uバチカン公会議を召集しました。

1年経たずに、法王ヨハネXXVは死に、彼の後継者パウロ6世は、法王になる前に、第Uバチカンの四つのセッションに出席し、エキュメニカルな強調を継続し拡張するために可能なすべてを行いました。彼の表現した立場は、ローマ・カトリック教会が非難または厳しさによってではなく「慈悲の薬」によって最もうまくその教えの妥当性を証明することができたことでした。彼の強調点は、「すべてのキリスト教徒の間で真理における完全な可視的な統一のために働くこと」にあり、この統一が非キリスト教徒にも拡張されるべきであるということです。
第Uバチカン公会議のこの新しいアプローチは、ほとんどすべての主要なプロテスタント教団からの38人の委任されたオブザーバーと同様に主要なギリシャ正教会の協力を得たことで成功しました。もちろん、法王ヨハネ・パウロ二世は先例のない高さにまでローマ・カトリック教会におけるエキュメニカルな強調点を拡張しました。

 これが宗教指導者たちと教団から高い賞賛を受けたのに対して、ローマ・カトリック教会が目指す統一の類は聖書に反しています。教義の純粋さを犠牲にして獲得されるすべての統一は悪魔的であり、欺きです。第Uコリント6:14-18、 エペソ5:11、第Uテモテ3:1-17;4:1-8.
 偽りの福音を説く人々と、エキュメニカルな友情の中で手を結び合うすべての人々は神ののろいの下にあります。ガラテヤ1:6-10.

ローマ・カトリック教会は1960年代の初め、カリスマ的な運動の偽りの教えと聖書に反する習慣に侵入されました。ローマ・カトリック主義の中でのその影響は急速に成長しています。悪魔は、いつもそうであるように、まともな外観を与える結果により、誤りを混ぜ合わせる非常に賢い方法を持っています。スペースが限られているので、私はその過去と現在の彼らの接近のより包括的な考慮について書くのを割愛し、私達は、なぜカリスマ的な動きとその教えがそんなに偽りであり、危険であるかに興味をもっているすべての人々に対し、重要な詳細を提供している他の記事を準備しました。

一旦この運動が、ローマ・カトリック教会に確立すると、その指導者たちは、これらの教えに反対するよりも、促進することが自分たちにとって有利であると素早く察知しました。彼らは、それを論理的で、必要とされる「教会の中の更新運動」と考えることによって、ローマ・カトリック教会を建てるのを助けるためにカリスマ的な教義と実践を用いることができると気づきました。追加された要因は、ミサ、他のサクラメント、マリヤの敬慕、およびローマ・カトリック主義のすべての他の偽りの教えを含めて、たぶん聖霊のバプテスマを経験した人々がローマ・カトリック教会に対し、これまでより大きい愛情と敬意の念を抱いたことでした。

 多くの人々は、いやし、奇跡、その他の聖霊の存在と力と思われる演出に引き付けられ、これがもし聖霊の真実の働きであったならば、ローマ・カトリック主義の偽りの教えに気がつかないはずはないことを悟らなかったのです。しかし、ローマ・カトリック教会の内外におけるカリスマ的な動きは、聖霊の働きではなく偽りの霊の運動です。ヨハネ16:7-14;第Uコリント11:13-15.

 私達の今日の宗教的混乱に加えるべきは、二人の世界的福音リーダー、ビリー・グラハム博士とビル・ブライト博士によって取られた一貫性のない、妥協的立場です。
 彼らは今や、自分たちのオリジナルで、聖書的な立場の完全な反転を代表するエキュメニカルの背信者、カリスマ的な詐欺師、およびローマ・カトリック教徒と一緒になって、賛美し働いています。両者とも広く尊敬されて、魅力的な個性を持っていますがしかし、彼等二人は「イエスを主と呼ぶ」誰とでも積極的に進んで共に働くことに関しては、キリストがマタイ7:21-23で与えた警告を完全に無視しています。

ビリー・グラハムは、現在、彼のクルセード大集会の中で、「決断」をしたカトリック教徒を、彼等の偽りの福音への警告をなすことをせずにして再びローマ・カトリック教会に彼らを帰しています。ビル・ブライトは彼のキャンパス・クルセード運動スタッフにローマ・カトリック教徒を含めています。このようにして、これらの両者は聖書に背いています。

 ローマ・カトリック神学と礼拝のまさしくその心臓部にあるミサに関してはどうでしょうか?その厳守は聖書あるいはカトリック伝統に基づいたものですか?ローマ・カトリック主義はその意味と重要性について何を教えていますか?

 バルチモア教義問答は言います:
「私達が重大な理由で許されない限り、義務の日曜日または祝祭日のミサを聞かないことは致命的な罪です。彼らはまた、それらの要請の下にありながら、他のものを持って、十分な理由なしに彼らがミサを聞くことを妨げるなら、致命的な罪を犯すことです」

 法王ピウス四世の信条教義、ローマ・カトリック教会の公式な教義は、「私は、ミサの中で、真実で適切でなだめの犠牲が(すなわち、神の正義を満足させて、従って、罪のために刑罰を相殺する犠牲)、生きている者と死者のために提供される、と公言します。そして、その聖餐の最も神聖なサクラメントにおける真実で本質的な私達の主イエス・キリストの魂と神性と共に、それは本当の体であり血です。そして、パンの物質全体が肉体に、ワインの物質全体が血へ変換します。そのことをカトリック教会は変質(化体)と呼びます。」と言います。

トリエント宗教会議は宣言します:
 「イエス・キリストが祭司であり犠牲であるので、ミサの中での犠牲は十字架の犠牲と同一同等です。唯一の違いは奉納の方法にあります。それは十字の上では血にまみれ、われわれの祭壇の上では血のない方法で。」
 「そして、カトリック法規の中で私は述べました。たとえ誰でも、キリストの肉体と血が、聖餐の最も神聖なサクラメントに、真実に、私達の主イエス・キリストの魂および神性、その結果キリスト全体が本質的に含まれていることを否定し、ただキリストのしるしと形において、または彼の力によって存在すると主張する者は呪われよ!」

 しかし、聖書は十字架の上のイエス・キリストの犠牲について何と言っていますか?
ヘブル書10:10-14、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 十字架の上のイエス・キリストの犠牲について、聖書が教えることとローマ・カトリック主義が信じて、教えることとの間には何という大きな違いがあることでしょうか!
 聖職者によるキリストの継続的な奉納は、十字架の上のキリストの完了したわざを否定します。
 聖書は、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(第Tペテロ3:18)と言います。

 ローマ・カトリック主義は永遠の命の保証とすべての罪の赦しがないまま、「救い」を長く、複雑なプロセスにしてしまいます。イエス・キリストへの信仰に洗礼、ミサ、告白、マリヤと聖人への祈り、良いわざ、および煉獄を追加することによってです。
 これと対照的に、聖書はサクラメント、祈り、または行いによってではなくイエス・キリストへの信仰のみによる救いを教えます。エペソ2:8, 9、テトス2:13。聖書にいう「救い」は、キリストが彼の罪のために死に、彼の義のために再び甦られたと心に信じる、どのような罪人にも与えられる無償の賜物です。第Tコリント15:1〜4、ローマ10:9〜13。
 聖書の救いは、人に直ちに永遠の命の保証を与えます。第Tヨハネ5:10-13。注意して、次のヨハネ伝の箇所を読み、このことばを信じてください。ヨハネ福音書1:12、3:16,18、3:36、5:24、14:1-6、20:30,31.
 これまでどの「教会」も、誰ひとりをも救い得ませんでした。けれども、「キリスト」は、彼を救い主として信頼する誰をも救うことができるのです。使徒4:12、ヨハネ6:37、10:27-30。あなたは今日、キリストを信頼し、永遠の救いを受けてください!

[By M.H. Reynolds, reprinted from Foundation Magazine, Vol. XIII, Issue 1]
Fundamental Evangelistic Association
Box 6278 - Los Osos - CA 93412 - USA
[Please write for free packet of helpful literature]
[たM.H.レイノルズによる、財団雑誌、vol.XIII、1から増刷]
根本主義的な福音伝道者協会
ボックス6278--Los Osos--CA 93412 - 米国
[どうぞ、役立つ自由なデータ文書を書いてください]

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