アガペーというギリシャ語に関する「真実」

 

 
 

聖書を信じるクリスチャンは、常にギリシャ語専門家からの攻撃にさらされている。
彼等専門家は、自分はギリシャ語新約聖書の隠された鉱脈を発見したと主張する、しかし、
それは、KJV訳の平明な普通の英語には決して出てこないものである。
 

ギリシャ語の専門家ではない、一般の信者には、その様な主張を退ける力がないかもしれない。
しかし幸いなことには、たいていの聖書信仰者は、賢くも、自分が読めないことがらに関しては、
表面的であるか、または懐疑的であり、彼等は自分が読み取れることのみを信頼している。
その様にすることにより、彼らはニューエージであるローゼンクロイツ(薔薇十字会)の主張に盲目的に従うという落とし穴から逃れている。
KJV(欽定訳)聖書において類語が豊富であるように、
(これは訳者による意図的なものと思われる)、ギリシャ語の新約聖書にも、類語が豊富である。

ギリシャ語及び英語の類語は
それぞれの構文に対して、フイットしているまたはテキストのリズムに他の語よりはよく
まざりあっている。
 時折、一つのギリシャ語単語が、2語以上の 英語の類語へと訳されており、一方、
 複数のギリシャ語類語が、一つの英単語にと訳されている。
 
     第一級の聖書検閲家である、
      W.E. Vineは、ギリシャ語単語の(愛する: アガパオー:AGAPAO)に関して、
      告白しかつ認めている;
 
      「その単語(愛する:アガポ:AGAPAO)の使用に関しては、ギリシャ語の
      文書においても、もしくは七十人訳においても、新約聖書でいう意味の区分に関して、
      光を投じるものはほとんどない。」
 
      言い換えると、何らかの区分は、新約聖書内において、
      見つけられなければならないことになる、何故ならその区分は、聖書以外の他のギリシャ語の
      文書からは見つけられないからである。
      聖書検閲家を聖書のみの範囲に閉じ込めることはいつでも容易なことではないのである。
      Vine氏に感謝しよう。
 
  以下の箇所は、ギリシャ語聖書教師/エキスパートの正直さと正確さを試すものである、
  彼等は、ギリシャ語の名詞アガペー:AGAPE、その動詞アガパオー(AGAPAO)と
  ギリシャ語の動詞フイレオ-:"PHILEOとの間には大きな区分があると主張しているからである。
  これらは皆KJVでは
  愛:loveと訳されている。(ギリシャ語名詞アガペーが博愛と訳されている箇所を除き)
 
      アガペー:AGAPE (名詞) とアガパオー:AGAPAO (動詞) が使用されている
      聖書箇所:
 
      ------------------------
 
      *マラキ1:2「わたしはヤコブを愛した。
        "I loved ('AHAB) Jacob." ; Malachi 1:2
 
       * ロマ9:13「「わたしはヤコブを愛し(アガパオー)、エサウを憎んだ。」
        "Jacob have I loved (AGAPAO)"  Romans 9:13
 
        *マタイ22:37-39
        『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛
        (アガパオー)せよ。』
  39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(アガパオー)。』

        "Thou shalt love (AGAPAO) the Lord thy God with all thy heart . . . Thou
        shalt love (AGAPAO) thy neighbour as thyself." Matthew 22:37-39
 
 
       * レビ19:18「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
        "thou shalt love ('AHAB) thy neighbour as thyself." Leviticus 19:18
 
        *申命6:5「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
        "thou shalt love ('AHAB) the LORD thy God with all thine heart."
        Deuteronomy 6:5
 
        *2 テモテ4:10「デマスは今の世を愛し(アガパオー)、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」
        "Demas hath forsaken me having loved (AGAPAO) this present world."
        2Timothy 4:10
 
 
        *ヨハネ3:19「人々は光よりもやみを愛した(アガパオー)。」
        "men loved (AGAPAO) darkness rather than light." John 3:19
 
 
        *ヨハネ12:43「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛した(アガパオー)からである。」
 
        "For they loved (AGAPAO) the praise of men more than the praise of God."
        John 12:43
 
 
 
       * ルカ6:32「罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛して(アガパオー)います。」
 
        "sinners also love (AGAPAO) those that love them." — Luke 6:32
        --------------
       アガペー:AGAPEということばに関して我々が聞いていた見解は、 (ある人々によるとそれは
       至高の愛をさすという)たくさんあり、それは自己のない愛、親しい愛、道徳的な愛、
       霊的な愛、クリスチャンの愛だというものである。
       しかしながら、それらの定義は、アガペー、アガパオーに関する上記の
       参照箇所と矛盾する。
 
       もし、それらのアガペー、アガパオーの定義が本当なら、デマスは、
       自己のない愛、もしくは霊的な、もしくはクリスチャンのもしくは、道徳的な
       愛をこの世に対してもったというのか?
 
       *2 テモテ4:10「デマスは今の世を愛し(アガパオー)」
       と書かれている。ここでアガパオー(アガペーの動詞形)が使われている。
 
 
       さらに、救われた人々が持つと同じ種類の、
       自己中心でない愛、道徳的、霊的な愛を持つことが罪人にとって可能なのか?
 
       *ルカ6:32「罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛して(アガパオー)います。」
       と書いてある。ここでアガパオー(アガペーの動詞形)が使われている。
 
 
 
       さらに、闇(ヨハネ3:19)や、人からの賞賛(ヨハネ12:43)、主人(マタイ6:4)、この世(1ヨハネ2:15、2テモテ4:10)や、国々(ルカ7:5)、債権者(ルカ7:42)、不正な富
       (2ペテロ2:15)、命(1ペテロ3:10)はその様な方法、至高の愛で愛されたというのか?
 
      これらの箇所には、皆、アガペー、アガパオーのギリシャ語が使用されている。
      アガペー=至高の愛という定義とは全く矛盾しているのである。
 
 
 
 
 
      (コンコルダンスの作者) ストロングによれば、
      ヘブル語の愛に相当することば、アハブ:'AHAB(レビ19:18)の意味あいは、
      「何かに対して愛情を持つ(性的にもしくは他のしかたで)」ということである。
      このヘブル語の「愛」に相当することばには、「至高の愛」というような特別な
      意味あいはない。
 
     * レビ19:18「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。(愛:AHAB:ヘブル語)わたしは主である。」
 
     さて、この旧約の「(普通の)愛:アハブ」ということばが使われている旧約の箇所が、新約のマタイにより、
     引用される時、アガペー(アガパオー)の単語が使われている。以下の通りである。
 
       *マタイ22:37-39
        『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛
        (アガパオー)せよ。』
  39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(アガパオー)。』
  
  この違いは何なのか?
  
      マタイは、ヘブル語の愛に相当することばを
       取り扱う時間違えてしまい、神への愛、隣人への愛として使ってしまったというのか?

もしくはもとのヘブル語の「愛」ということばが間違えなのか?
このことばが、隣人への愛、もしくは神への愛として、としてレビ19:18で使用され、
女性への愛として、民数記6:5、2サムエル13:1、1列王11:1、2、2歴代26:10で使用され
ている。

ヘブル語及び英語の愛ということばは、あまりにも用法が多く、訂正が必要なのか?

事実は何か?想像される事実は、「アガペー=至高の愛」と主張する
ギリシャ語学者が間違えており、このことばに特別な意味あいを持たせることには
無理があるのではないのか?

     <フイレオー(愛): PHILEOに関して>
 
     --------------
 
     *ヨハネ16:27「それはあなたがたがわたしを愛し(フイレオー)、....父ご自身があなたがたを愛して(フイレオー)おられるからです。」
 
        "the Father himself loveth (PHILEO) you, because ye have loved (PHILEO)
        me." John 16:27
 
        *1コリント16:22「主を愛(フイレオー)さない者はだれでも、のろわれよ。」
        "If any man love (PHILEO) not the Lord Jesus Christ, let him be
        Anathema."  1 Corinthians 16:22
 
        ヨハネ5:20「それは、父が子を愛して(フイレオー)」
        "For the Father loveth (PHILEO) the Son." John 5:20
 
        テトス3:15「私たちを愛する(フイレオー)信仰の友に、よろしく言ってください。」
 
        "Greet them that love (PHILEO) us in the faith." Titus 3:15
 
        ---------------------
 
        また、我々はギリシャ語の専門家により、ギリシャ語のフイレオー:PHILEO"が意味するものは、
        単なるうわべだけのもしくは友人的な類いの愛であると告げられている。
 
        しかし、一体神は、聖徒をうわべだけの愛で愛する
        というのだろうか?彼らが神の子をうわべだけの愛で愛したからといって。
 
        *ヨハネ16:27「それはあなたがたがわたしを愛し(フイレオー)、....父ご自身があなたがたを愛して(フイレオー)おられるからです。」
        と書かれている。
 
 
        また、我々は信仰の兄弟達をうわべだけの愛で愛するべきなのだろうか?
 
        *テトス3:15「私たちを愛する(フイレオー)信仰の友に、よろしく言ってください。」
        と書かれている。
 
       また、我々は主イエスキリストをうわべだけの愛で愛するべきなのか?
 
       * 1コリント16:22「主を愛(フイレオー)さない者はだれでも、のろわれよ。」
       と書かれている。
 
 
 
       さらに、父は、その子をまた我々をうわべだけの愛で愛しているのだろうか?
 
       *ヨハネ5:20「それは、父が子を愛して(フイレオー)」
        と書かれている。
 
 
       <パズルの様なギリシャ語参照>
 
       ------------------
 
       *ヨハネ21:20(19:26; 21:7)「ペテロは振り向いて、イエスが愛された(アガパオー)弟子があとについて来るのを見た。」
 
        "Then Peter . . .seeth the disciple whom Jesus loved (AGAPAO)" ; John
        21:20 (19:26; 21:7)
 
        *ヨハネ20:2「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された(フイレオー)、もうひとりの弟子とのと     ころ」
        "She. . .cometh . . .to the other disciple, whom Jesus loved (PHILEO)"
        John 20:2
 
 
        *ヘブル12:6「主はその愛する(アガパオー)者を懲らしめ。」
 
        "For whom the Lord loveth (AGAPAO) he chasteneth." Hebrews 12:6
 
 
 
        *黙示録3:19「わたしは、愛する(フイレオー)者をしかったり、懲らしめたりする。」
 
        "As many as I love (PHILEO), I rebuke and chasten" ; Revelation 3:19
 
 
       * ルカ11:43「あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです(アガパオー)。」
        "ye love (AGAPAO) the uppermost seats in the synagogues, and greetings
        in the markets."
        Luke 11:43
 
        *ルカ20:46「広場であいさつされたりすることが好きで(フイレオー)、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。」
 
        "love (PHILEO) greetings in the markets, and the highest seats in the
        synagogues" Luke 20:46
 
        ------------
 
 
        何故ヨハネは一方で、イエスがこの弟子を親しく深く、自己愛なしに、霊的に愛したことを
        語り、しかし他の箇所では、イエスが彼をただうわべだけで、愛したと述べているのだろう?
        以下の2つの箇所は、「アガペー:至高の愛/フイレオー:表面的な愛」という観点に立つなら、
        お互い全く矛盾している。
 
        1)ヨハネ21:20(19:26; 21:7)「ペテロは振り向いて、イエスが愛された(アガパオー)弟子があとにつ    いて来るのを見た。」
 
        2)ヨハネ20:2「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された(フイレオー)、もうひとりの弟子と    のところ」
 
        「愛された」弟子、ヨハネのことをある箇所では、アガペーのことばで表現し、他の箇所では、
        フイレオーで表現している。これら、2つのギリシャ語が本当に全く異なる愛をさすというなら、
        これらの記述の違いは全く意味不明、理解不可能だということになる。
 
 
 
 
        また、何故、ルカは、パリサイ人が「あいさつ」や、「会堂の上席」を親しく、深く、
        自己愛のない、道徳的なもしくは霊的な愛で愛したといい、しかし、他の箇所では、
        彼らがそれをただ、うわべだけの愛で愛したと述べているのだろう?
 
        以下の様にこの同じことがらに関しても一方では、アガペー(アガパオー):至高の愛が
        使われ、他方では、フイレオー:表面的な愛が使われている。
        これらの2つのギリシャ語がもし、本当にギリシャ語専門家達がいうように、全く異なることばだというなら、この2つの記述は互いに全く矛盾したものとなってしまう。
 
        1)ルカ11:43「あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです(アガパオー)。」
 
 
        2)ルカ20:46「広場であいさつされたりすることが好きで(フイレオー)、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。」
 
 
 
        <フイレオーの愛、それともアガペーの愛、兄弟の
        愛としてふさわしいのはどちらか?>
 
        *1テサ4:9「兄弟愛(フイラデルフイア)については、..あなたがたこそ、
        互いに愛し(アガパオー)合うことを神から教えられた人たちだからです。」
        "But as touching brotherly love (Philadelphia) . . . ye yourselves are
        taught of God to love (AGAPAO) one another."  1 Thessalonians 4:9
 
     *1ペテロ1:22「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛(フイイラデルフイア)を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し(アガパオー)合いなさい。」
        "obeying the truth. . . unto unfeigned love of the brethren
        (Philadelphia), see that ye love (AGAPAO) one another." 1 Peter 1:22
 
        ---------------------
        もし「アガペー(アガパオー):至高の愛」と主張する聖書訂正者達が正しいのなら、
        兄弟の愛もしくは兄弟への愛に対応することばには、うわべだけの愛を示すギリシャ語
        フイレオー:PHILEO,よりは、さらに高い、さらに親しく、深く、自己愛がなっく、霊的なギリシャ語であるアガパオー:AGAPAOがふさわしいはずである、しかし実際の聖書の記述は、そうはなっていない。

        逆に、上記箇所の兄弟愛に相当する箇所には、フイレオーを含むフイラデルフイアということばが
        使用されている。
        この矛盾は何か?実際はアガペー もフイレオーも同じく愛を意味するギリシャ
        語に過ぎず、実際の差などないと思った方が正しいのではないのか?
 
        そう、何かにつけ、ギリシャ語の専門家をきどり、長い間親しまれてきた
        KJV訳を文法的に間違っている、正しいギリシャ語に対応していないと
        主張し、聖書を改ざんしようと志す、怪しいギリシャ語専門家、聖書訂正学者こそ、
        間違っているのではないのか?
 
        彼らは、自分達が専門家であると自称し、聖書を改ざんし、
        同性愛を認める聖書へ、フェミニズム、エコロジー神学だのに適合する、
        内容にするべく、聖書を改ざんしている。
 
 
      <アガペーの愛もしくはフイレオーの愛であなたは私を愛するのか?>
 
       * ヨハネ21:15-17
        「15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

        "Jesus saith to Simon Peter. . . lovest (AGAPAO) thou me more than
        these? He saith unto him, Yea, Lord; thou knowest that I love (PHILEO)
        thee...He saith to him again the second time . . . lovest (AGAPAO) thou
        me? He saith unto him, Yea, Lord; thoughtless that I love (PHILEO) thee.
        . . He saith unto him the THIRD time, Simon, son of Jonas, lovest
        (PHILEO) thou me? Peter was grieved because he said unto him the THIRD
        time, Lovest (PHILEO) thou me? And he said unto him, Lord, thou knowest
        all things; thou knowest that I love (PHILEO) thee. Jesus saith unto
        him, Feed my sheep."  John 21:15-17
 
 

 
        自己満足な人々であるギリシャ語解説者は、
        この箇所に来る時、この箇所のテキストから、実際には存在しない、何かをさがしだそうとして、お   意味不明なことをする。
        一方彼らはこの箇所の主要ポイント、すなわち、ペテロが主を3度否定したその為に、
       主により 三度愛するのかと尋ねられていることを見のがしている。
       彼らの考えは、イエスは、ペテロに対して、彼の否定にもかかわらず、
       より高いギリシャ語の愛(アガパオー:AGAPAO
       )ということばを用いて、彼が主を深く、親密に愛するかと問うているというものである。

        おそらくイエスは、ペテロが
        より低いギリシャ語の愛に相当することば(フイレオー:PHILEO)を
        使うことにより主のことばをはぐらかそうとしているので、
        イエスはペテロに対して三度も質問を繰り返していると彼らはいうのである。
 
        しかし、これらの怪しいギリシャ語専門家、聖書をかいざんする者達は、
        必要な何かを見落としている。
 
        ここでは、イエスがペテロに対して、三度目に、「私を愛するか(フイレオー:   PHILEO)」
        ときいているのである。すなわち、イエスはペテロに対して、フイレオー:
        表面的な愛で自分を愛するのかときいていることになる。
        これは大いなる矛盾ではないのか?
 
        だから、無知で、知識のない、聖書信仰者は、
        最初と2番目のことばは三番目のことばとは同じ意味であると理解してしまうのである。
 
 
        ギリシャ語に相当することばが間違えているのか?
        それともギリシャ語のことば、アガペー、フイレオーの間にはそもそも
        大きな違いなどなく、どちらにも置き換えられるものなのか?どっちなのか。
 
 
 
       事実はこれらの自称専門家の主張が矛盾しており、彼らの主張には根拠がないと思った方が正しいのではないのか?
 
 
 
 

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