奇妙なペンテコステ主義

 

オーラル・ロバーツ


ペンテコステ神癒者オーラル・ロバーツ(1918年-)の働きは混乱した別の事例研究課題を示します。
ロバーツは、病は悪魔の仕業であると主張し、彼の初期の活動においては、悪魔を見破ることができ、右手を通して病気の悪霊を認識することができると主張しました。

彼は、「癒しの働き」をはじめた時に、神の力が、電流のように彼を通して流れ出て、まるで「火の流れ」が彼の腕を通して押し寄せるかのような感触がした、と言っています。
そのことに言及して、「癒す水の流れ」という彼の雑誌の1949年の記事は、ウィリアム・ブランハムの訪問を記述し、フロリダのタンパにおけるロバーツの「癒し集会」について:「二人とも神の声を聞き、両者とも彼らの手に、癒しの力を感じた」と記しています。ブランハム氏は、彼の左側が振動によって、ロバーツ氏には、彼の右側に、悪霊の名前と悪霊の数を見破る力があった。ロバーツは、彼の右手に神の臨在の証明を感じ、それが信者と神の癒しの力の間の「接点」を提供し、彼に「数千人の人々の癒しを結果として生じていた保証」を与えていたと主張しました。(「ハレル、すべての事は可能」、ページ49、50)
1950年代の初期に、ロバーツは、彼らの金銭の贈り物が神によって7倍にされて自分自身に返されるであろうと彼の追従者に約束しはじめました。
1954年に、彼は「恩恵協定」を開始し、その働きのために捧げられたどのような贈り物でも「全く予期しない資源から、完全に」返されるように祈ることを申し出ました(Ibid.,49).
1950年に、ロバーツは、人々に、イエスがその年に再臨することを期待するように神が、彼に、指示したと主張しました。1954年に、彼は、「終末的なリバイバルのために神の油注がれた人々が一緒に来ることを預言しました」(Ibid.、p.50).

「癒しの水の流れ」の1952年3月号の表紙は「3名の偉大な医師たちが、ロバーツを祝している」と一面を飾りました。彼らの中の一人はJ.H.ミラー博士(際立った医師であり、20,000を超える医師を擁する医学会の会長)でした。

問い合わせがアメリカ医師会に二人の長老派の牧師によってされた時に、これらの「偉大な医者たち」の記録が全然なかったことが判明しました。長老派の牧師キャロル・ステガル・ジュニアは、オーラル・ロバーツの大集会に出席し、癒されたとする人々に再度インタビューをしました。彼は、ロバーツの主張を支持する基礎が全然なかったと証言し、「長老派展望」(1955年)にステガルは、「私は一度も(いやしの)変化の痕跡を見たことがありません。私は、私のテクニックに続いて、どのような正直な調査者にでも、ロバーツの発見が私のものと合致していないかどうかを検証することを要求します」と書き込んで、締めくくりました。一般のペンテコステ神癒者と関連して、ステガルは言いました:
「それらは、治癒というより、しばしば殺しています。恩恵からは遙かに遠く、都会では、むしろ呪い、惨め、騒動であり、単純な人々の信仰への破壊です」。

オーラル・ロバーツ、デイビッド・ハレル・ジュニアの伝記の中で、ヨハネ・コウブラは「神癒治療の最も著しい実例」としてロバーツによって勧められた二人の個人にインタビューしました。

コウブラは、「両者とも自分が癒されたと信じている一方、一度も医師を訪問したことがなく、もう一人は、後で癌を摘出する手術を受けたと報告しました」(ハレル、オーラル・ロバーツ:アメリカの生活、ブルーミントン、インディアナ:インディアナ大学出版局、1985年、ページ164)

あるトロントの医師は、ロバーツによって癒やされたとする30人を診察し、結果として彼は、癒されたケースを全く見つけられませんでした。「それは心理学的なショックまたは衝撃による興奮状態について学術的説明がされませんでした。」30人の中で、少なくとも1人はすでに死んでいました。

災害がロバーツの癒やし大集会に繰り返し襲いかかりました。
1950年9月8日に、アマリロ、テキサスで、嵐によって打たれていたテントから64歳の人が走り出した時に死にました。2日後、別の嵐は大集会のテントを破壊し、50人の人々を病院に送りました。ロバーツは、次の2ヶ月間の集会の計画において場所を設定するために、ウィリアム・ブランハムを行かせました。1951年に、アトランタでロバーツ大集会に出席する間に、アラバマの実業家は死にました。1955年に、ジョナス・ライダーはカルガリー、アルバータ、カナダ集会の間に死にました。1956年、マリヤ・ボンダーシャは、彼女の癒しを検証するためのロバートのテレビ番組に出演した12時間後死亡しました。1959年1月に、64歳の男性はオークランド、カリフォルニアでのキャンペーンの間に死にました。1959年5月に、3歳の女の子はノースカロライナのフェイエットビルにおける癒やし大集会の間に死にました。年配のインド女性はその大会へ行く途上で死にました。1959年7月に、ある女性は自分がロバーツの大集会において癒されると信じた後に死にました。どうぞ、私達がこれらの悲劇にほくそ笑んでいるなどと思わないでください。これらは非常に悲しい出来事であり、それらを関連させることで、喜びなど全然ありません。私達がそうする理由は、オーラル・ロバーツと、彼とともにいる「後の雨」ペンテコステの友人たちが、物質的な癒しがイエス・キリストの贖いで保証されている、という主張、に問題があるのです。彼らは、使徒的なしるしの賜物が今日働いていると主張します。これらの主張は真剣に吟味しなければなりません。

人の一生の中で、肉体的癒しが贖いにおいて保証されているならば、そしてもし、特別な癒やしの賜物が今日キリスト教徒のものならば、さらにもし神が、キリスト教徒が健康で、繁栄していることを望んでいるならば、それは明らかになるでしょう。「後の雨」の指導者たちの主張が真実でないという様々な事実があります。ペンテコステ主義を信じていないキリスト教徒たちも、彼らと同じ問題、同じ病気、同じ苦悩、同じ金融難を持っています。
 

モーリス・セルロ


今日のもう一人別の有名なペンテコステ「信仰神癒師」は、ジム・ベイカーが有罪宣告されて、禁固刑を宣告された後に、ベイカーに代わって米国遺産を引き継いだモーリス・セルロです。セルロは、癒やしが贖いであることを教えて、彼の集会で起こっている癒しとしての「知識の言葉」の働きを実践しました。1976年のメールにおいて、セルロは、「啓示的癒やし研究所」と呼ばれた彼の働きの中で「異常な奇跡--心の深い貫通力を必要としている奇跡」(F.E.A. ニュース&眺め−1976年の11月-12月の根本主義福音伝道者協会)を予測する新しい何かを言及しました。彼の癒やし大集会で、セルロは、「それは、すべての人を癒す神の意志です」(カルガリーヘラルド、カルガリー、アルバータ、1987年6月6日)と宣言するけれども、明らかな病気の人々(それらの人々に車イスのためのコーナーが用意されている)は失望の中で、家路につきます。

「福音タイムズ」の1992年9月号はセルロの癒し大会について、以下の情報を載せました:
「オードリー・レイノルズさんはロンドンでのモリス・セルロ癒し大会に付き添い、彼女が脳異常を癒されたと信じました」。彼女は、薬を飲むのをやめて、結果として、致命的な脳発作を起こしました。サザークの検死官、モンタギュー・レバイン卿は、「彼女がこの大会に行き、彼女がすべてについて癒されたと思ったことは悲劇でした」と陪審員に話しました。悲しいことに、それは彼女に死をもたらしてしまいました。
「アンドリュー・ファーガソン(10年の間開業医、現在キリスト教医学団体の書記長)は伯爵の法廷ミーティングに出席していました」。彼は最近、「新約聖書の癒しの奇跡は、有機的な病気の即時で完全な好転であり、明らかで、誰も議論することができなかったものでした。そしてそれはまた癒しの集会の前に、セルロが広告によって設定した癒しの絶対基準でした」と書きました。「しかしながら、彼の集会において私達は、この新約聖書の癒しの基準に近い証明可能な癒し何も見いだせませんでした」(「福音タイムズ」1992年9月号、1992年10月「オーストラリアの指針」で増刷)

Los Osos、カリフォルニアの根本主義福音伝道者協会によって出版された財団雑誌は賢明に警告します:「大衆はセルロなどのいわゆる信仰神癒師によって落胆させられ道に迷っています」。彼らの道には、悲嘆と混乱がまき散らされています。私は、キリスト教伝道師に対して公然と話すことが悪いことだと多くの人々が感じていることに気づいていますが、このタイプの事柄は大きな邪悪です。
「神が、すべての病気を癒したいのだと主張することは重大な問題です」(財団、5月-1980年の6月)。
 

ジョン・ウインバー


ジョン・ウインバーの働きの末期(1934年-1997年)は混乱した別の事例研究課題です。彼は古典的ペンテコステではなかったけれども、しかし現代カリスマ的運動において明確なキーパーソンでした。1990年8月「聖霊&世界福音伝道」における北アメリカ議会が、インディアナポリスで持たれた時、私は彼が話すのを聞きました。ウィンバーは言いました:
「神があなたに彼の息子を与えた後に、なぜ神はあなたに癒しを拒まれるでしょうか?地上の神の僕たちが神の子の業をなし、王国の力で奉仕するのを見る時、天国において天使たちは大いに喜ぶのです。私は、神が私達の間に、癒しの天使を解放し、彼に代わって奉仕するようにと、彼らがここにいると信じます…」
そのような主張にもかかわらず、ウィンバーの癒しの成功は、その教会の人々のために祈る、聖書を信じる普通の牧師たち以上のものではありませんでした。5人のクリスチャンの医者はイギリス、リーズでのウィンバーによる癒し大会に出席し、結論をくだしました:
「私達は、有機的、物質的な病気のどのような癒しを示唆する変化をも全然見ませんでした」。催眠とヒステリーを生じるテクニックを促進すること、またどのように王国のルールを悪霊や病や自然界に実践するかを学ぶことは、間違いです;
「それはゆがめた説明(誤伝)です」(ヴェルナ・ライト博士、「奇跡的癒しの医学的見識」、ペテロ・マスターズ11章、「流行の癒し」、ロンドン:ウエイクマン・トラスト1988年、213ページ、ライト博士はリーズ大学のリウマチ学のチーフです)。

リーズでのウィンバーによる大会の期間に、絶叫して、倒れて、癒されたと、宣言された深い精神医学上の問題を持つ女の子は、それにもかかわらず3ヶ月後、精神病院に入れられる必要がありました。彼が1990年3月にオーストラリアで癒す働きについて質問された時に、ウィンバーは、すべての病気が彼の癒しの働きに等しく応じるわけではないと証言しました。彼は、頭痛と背中の痛みに対して、高い癒しの成功率があるが、200人のダウン症候群子供のために、(祈っても)だれ一人癒されなかったと認めました。
(フィリップD.ジェンセン著「ジョン・ウィンバーは考えを変えた!」プロテスタントレビュー1990年7月)
すなわち、言い換えれば、彼は、催眠術とシャーマンによって、癒されるのと同程度首尾よく「癒されることができる病気」を「癒す」ことができたが、有機的病気を治すことができなかったのです。「聖書から続いている現代の啓示」という異端を受け入れてしっまっているので、ウィンバーには、固定した土台が全くありませんでした。彼は聖書に反する別のものに急に傾斜しました。彼は、その多数の異端にもかかわらずカンザス・シティ預言運動を促進しました。カンザス・シティの預言者は、今日の預言者は、100%正確である必要がないという狂った主張をしました。ウィンバーは、「神の子証明」という異端にもかかわらずポール・ケインを高めました。彼は、いくつかの現象に疑問を持ちながらも、神の動きとして「笑いのリバイバル」を認めました。
トロントエアポートビンヤードを立ち去った後も、彼は笑いのリバイバルが、ビンヤード運動の大きい地区に広がることを許し、彼は退去の後にさえトロントとの緊密な関係を保持していました。ウィンバーは彼の本と「しるしと奇跡」会議を通して世界中に「力による伝道」の異端を教えました。

チャールス&フランシス・ハンター

チャールズ(1920−)、フランシス(1916−)で、ハッピー・ハンターズとしても、良く知られた今日のカリスマ癒し伝道者です。カリスマ雑誌の1986年5月号は、ハンターがとてもポピュラーなトップ20人と有力なカリスマ的なリーダーたちの中に数えられていると述べました。ハンターは、癒しが贖いの中にあるという教義を促進し、キリスト教徒にどのように病人を癒すかを教えるために、「癒し爆発」会議を指揮管理しています。彼らはまたオーディオとビデオカセットでそれらの癒しセミナーを配布します。十万人が世界の各地でそれらの大会に出席しました。ほぼ20万人の人々が1985年に米国での「ファースト21癒し爆発集会」に出席し、一回の大会に5万人もの人々が出席しました。それらの年間予算は1987年に200万ドル以上でした。
ハンターは、「すべて霊に満たされたクリスチャンは毎日病人を癒すことができ、また癒すべきです」(癒し爆発運動ための広告)と主張します。どのように病人を癒すかにおいて、ハンターは言います:
「はい、あなたが癒されることは神の意志です。行って、病人の周りを歩き回ることによって栄光を神にもたらすのではなく、私は神の栄光のために病気です。病気は栄光を神にもたらしません--癒しと健康は栄光を神にもたらします!」(18ページ)

癒しのための彼らのハンドブックの中で、ハンターは、「奇跡を証しすることよりも速にイエスの現実を罪人に納得させるものは何もありません」(28ページ)

主イエス・キリストは、そのような哲学は間違いであり、人々が聖書を信じないならば、彼らが誰かが生き返るのを見ても、彼らが信じないであろうということを教えました。(ルカ16:29-31)

癒しのためのハンドブックの中で、キリスト教徒が癒す時、圧倒的な力があなたから出ます。そして「あなたにより近くにいる人ほど、より多くの力を感じて、受け取るでしょう」(91ページ)。ハンターは、「奇跡の福音伝道」が神の終わりの時のプログラムの一部であり、これを通って、大きい集会がキリストの再臨に先行するであろうと教えます。彼らは、1980年6月神が世界的な奇跡福音伝道について彼らにビジョンを与えて、いかに病人を癒すか(5ページ)が救済のメッセージの一部であることを彼らに知らせたと主張します。伝えられているところによると、ハンターはまた、彼らの働きが1961年にトミー・ヒックスによって受け取られたビジョンの実現であると信じています。トミーは、イエスが世界中の人々に彼の手が差し伸ばされ、彼の手から出る「液状の光」の流れが人々にもたらされた。これは、終わりの時代のクリスチャンに対する油注ぎの働き(奇跡を意味する)であると主張します。ハンターは「病人を癒すための本」の中に、ヒックスの疑わしいビジョンを載せて出版しました。

私は、個人的に、二度ハンターの癒し集会に立ち会いました。それぞれの機会で癒されることなく、極めて絶望させられたままに残された車イスの人々のことを知っています。私はこれらの集会で、重要な癒しを何も見ませんでした。
1988年1月のフィリピンの癒し大会の期間に、フランシス・ハンターは感染症眼病を患い、彼女を癒すための「癒しチーム」による試みにもかかわらず、彼女は、医師に行き、医薬品を得ざるを得ませんでした。彼女は、医師のオフィスの待合室で、(彼女の著書)「病人を癒すための本」の一冊を見て当惑しました。

カリフォルニアのロングビーチでハンターの癒し大会をしている中に、癒しチームのメンバーの全員は、その地域に流行っているウイルスに感染してしまいました。フランシス・ハンターは、このウイルスによって帰宅させられ、ベッドの中で10日を過ごす必要がありました。(「今日の働き」(1991年の11月-12月号28ページ)1991年のホンジュラス大会において、フランシス・ハンターは彼女の膝を傷つけて、集会の一つにも出席することができませんでした。

1989年に、ハンターは、集会の一つで「霊において倒される」際に傷ついた67歳のカリフォルニアの女性イーブリン・クイケンダールに対し、300,000ドルを支払うように連邦判事によって命令されました。彼女は背中を負傷し、損傷のため病院で2ヶ月を費やしました。彼女はハンターの「癒し集会」の一つに出席していました。
(フランシス・マクナッツ、「霊で打ち勝つ」117ページ)
 
 

1995年イギリスでの癒し大会を導いている間に、フランシス・ハンターは彼女の右のかかとを悪くし、車イスでアメリカに戻されるはめになりました。
「癒すための彼らのハンドブック」の中で、はげを癒すために、ハンターは以下の様にいやしの手順を与えさえしています:
「はげを癒すために、毛の小胞に癒しを命じ、毛に、正常な成長に回復されるように命じる」(ページ106).
彼ら自身の命令にもかかわらず、ハンター氏は部分的にはげています!

ハッピー・ハンター両氏は、この報告の中ですでに言及したように、聖書に反する笑いのリバイバルを促進しています。そして、それらの働きは「霊により倒される」危険と聖書に反する現象とによって特徴付けられているものです。

ハンターは人々に、彼らが、神の奇跡パワーを持つために異言で話す必要があることを教えます。異言の賜物を受け取るために、人々は、ハンターによって、考えることをやめ、神が彼らの舌のコントロールを取るように音をぶつぶつ言い始めることを勧められます。これはチャールズ・ハンターによって与えられた手順です:
「単に、私があなたにそうするように命じる瞬間に、たくさんの違う音節音を話すことによって、神を愛情深く、賛美し始めてください;しかし、知っている言語でなく、音について考えようとしてはいけません。最初は、考えようとしないで急速に音を作ってください…続けて…長い流れ文…最初は大きな声で」(チャールズ・ハンター、カリスマ、1989年7月)。
これは愚かで、聖書に反する指導です。

1979年に、ハンターは、ローランド・バックと名付けられたアセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師によって経験された疑わしい天使の訪問を記録する文書に「天使」という表題を付けて出版しました。他の事柄の間で、バックは、天使が彼の前に現れたと主張し、イエス・キリストが「私達のために肉体の死を味わっていなかった」と彼に言ったと、主張しました。ウォルター・マーティンによって、本のこの部分の言及について問題にされて後、その部分は書き直されました。(編集された)マーチンは、このことに関連して単に天使の訪問の確実性を疑うだけでなく、簡明に批評して、「一体どのようにして人が天使の言葉を編集することができるのですか?」と問いただしています。
(財団雑誌、1980年の1月-2月)、(21ページ)
 

ジェミー・バッキンガム


ジェミー・バッキンガム(1933-1992)は評判の良いカリスマ的な説教家であり、作家でした。彼は、40冊の本を書き、合わせて2000万冊を売りました。彼は「今日のミニストリーズ」雑誌の編集長であり、大手カリスマ雑誌の編集員でした。彼はフロリダ・メルボルンで2,000人のメンバーの超教派のタバナクル教会を牧会し、ウィクリフ聖書翻訳のためのコンサルタントであり、全国的なリーダーシップ会議の会長でした。バッキンガムは南部バプテスト牧師として彼の働きを開始したが、純福音実業家の団体集会で「聖霊によるバプテスマ」を受けて後、ペンテコステになりました。
バッキンガムは、カトリック教徒、プロテスタント、バプテスト、およびペンテコステ派の間における統一を要求していた過激なエキュメニストでした。
「橋の建設者」(「カリスマ」という表題を付けられた記事1992年3月90ページ)の中で、彼は、エキュメニカルの橋を建設することに勝る高い召命などはない、と言いました。彼はペンテコステ派とローマ・カトリック教徒間の橋をかけることについてデイビッド・デュプレシを賞賛し、彼はユダヤ人とキリスト教徒の間で橋建設についてユダヤ人のユダヤ教牧師イエケル・エクスタインを賞賛しました。1977年のカンザス・シティ・エキュメニカル−カリスマ的な会議で、大勢の会衆に彼は警告しました:
「私達は教義に基づいた統一を持つことができません。教義は、いつも、キリストの体を分断するでしょう。私達が統一性を持つことができる唯一の方法は、イエス・キリストのそのまわりにそれを持つことです。」

これは恐ろしく非聖書的な助言です。聖書は教義のために与えられています。(第Uテモテ3:16)教会においては、いかなる間違った教義も許されていないのです。(第Tテモテ1:3).

バッキンガムは、神が、キリストの贖いを通して癒しを約束したことを教えました。1990年6月に、彼はガンと診断されて、最初に、それが手術不可能であったと言われました。
彼の妻とオーラル・ロバーツを含む何人かのカリスマ的リーダーたちは、彼が癒されるであろうと予言しました。バッキンガムは、神がまたシャワーの中で彼と話し、彼に、「よい健康状態で、そして明晰な精神で少なくとも100歳まで生きるであろうと言った、と主張しました。1990年7月に、彼は手術を受けて、医師は彼に、病気が彼の腎臓に制限されており、彼がすべてのガンにかかっていても、健康になるであろうと言いました。

1990年10月に出版された「カリスマ」雑誌の中に掲載された、バッキンガムの証しは、「癒された!」との表題をつけていました。カリスマ雑誌は1991年4月に「私の奇跡の夏」という表題を付けたバッキンガムの別の証しを出版しました。
その記事からの以下の抜粋文に注目ください:

「ある日、私の妻…は突然声を出して話しました[そして]、‘癒しは十字架で獲得されました’と言いました。」
これは、私が発見したものです。あなたが語るものをあなたは持ちます。何かを変更したいならば、それを話すのに十分と信じなければなりません。貧しさを話せば、それを持つでしょう。もしあなたが病気である、と言えば、病気になる(そして、その病の中に残る)でしょう。
私のものではありませんでした。それは悪魔のものでした。
私はガンにかかっていませんでした。私はイエスを持っていました。
ガンは、私を持とうとしていたけれども、神の言葉は、私が、イエスがカルバリの上でしたことを通して癒されたと伝えていました。それは金曜日の午後でした。
テープはオーラルロバーツの説教でした…
‘私は癒されます!’を叫んで、私はソファから立ち上がりました。私の妻は彼女の椅子の外で飛躍し、‘ハレルヤ!’を叫びました。「次の30分の間、私達皆がしたことと言えば神への感謝を叫んで、私の癒しを宣言しながら家を歩き回ることでした」(ジェイミ・バッキンガム「私の奇跡の夏」、カリスマ、1991年4月)。

1992年2月17日、この記事の出版の10ヶ月後に、ジェイミ・バッキンガムはガンで死にました。ジェイミ・バッキンガムは単に彼の間違った教えで他を誤りに導いただけでなく、彼は自分自身をも欺いていたのです。

この様な事例はいくらでも増やすことができるでしょう。どうぞ、上で述べられている個人すべては、ペンテコステの動きの中で指導者と認められている人たちであることに再びご注意ください。彼ら全員は、ペンテコステとカリスマ的な運動という辞書の中で、取り上げられている人物たちであり、彼らの運動の重要な歴史の中に登場する人々なのです。

ぜひ知っておいていただきたいのは、私たちは決して、全能の神の奇跡的な力を信じる信仰を馬鹿にしているのではないことです。私たちは、自分たちが、何事でもその通りに必ず行なえる力強い神に仕えていることをよく承知しています。私たちは、彼の奇跡を働かせる力を信じています。それも、自分自身の生活の中で、1/4世紀ほど、継続してそれを体験しています。私たちは祈りの答えとしての癒しの証を持っています。私たちは失われた罪人が悔い改めるという栄光を見てきました。私たちは神が、私たちの必要を満たすために、奇跡的な方法でそれを備えられるのを見てきました。私は、完全な世界一周の旅を、一銭も持たずにしました。神はその旅の要所要所で奇跡を起こされました。その旅では、一人の老人が、旧型の車を私に下さいました。別の男が、見知らぬ人でしたが、かなり高額の金銭をくださいました。別の多くの方が私がその旅を続けることができるようにとプレゼントを下さいました。これは、私が神の手に自分自身を捧げて、そして必要に応じた天の供給という継続的奇跡を証しする多くの旅の一つに過ぎません。私は奇跡を行う神に仕えることがどういうことかを知っている者です。そして、その神は、ご自身のご計画(タイム・スケジュール)に従って、ご自身の方法で事を行う神であることをも知っています。その神は、過去にある方法であることを行った、しかし今日同じ方法でなさるとは言えないのです。過去に一度ペンテコステがありました。そして使徒時代が一度ありました。その時、その時代には、独特な目的があったのです。それは過ぎ去りました。私は神の癒しを信じています。しかし、癒し伝道者のことは信じられません。教会の中に超自然的賜物が働いているということは信じています。しかし、今日使徒的しるしの賜物が働いているとは信じていません。
 

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