後の雨運動、第3の波系の人々が語る、
「霊として来るキリスト」、「肉体を持たないキリストの再臨」という異端教理:
聖書、第2ヨハネの手紙において書かれている、「肉体を持たないで来るキリスト」という教理は、かねてから、使徒ヨハネにより
来るべく反キリストの教理として、警戒すべく、警告されていた異端教理である。
以下の通り;
”2ヨハネ: 7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られた
(KJV訳:that Jesus Christ is come in the flesh:キリストが肉体をもって来る)ことを告白しない者
が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
”
注)新改訳では、「イエスキリストが人として来られた」とあたかも人間として来ること、初臨のキリストについて
語っている様であるが、名訳と定評のあるKJV訳では、「キリストが肉体を持ってくる」ことが明確に訳されている。また
この箇所と同じギリシャ語単語、時制はまた、黙示録の以下のキリストの再臨に関して書かれた単語と全く同じ単語、時制が使われている。すなわち、この箇所は、実は、キリストの再臨に関して語っていると訳すことは「妥当」である。
”黙示録1:4ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に<来られる>
方”
しかし、驚くなかれ、
後の雨運動、また聖霊の第3の波の教理の中で、この「肉体を持たないキリストの再臨」という教理が
提唱されている。
以下のいくつもの引用の様に、後の雨運動そして聖霊の第3の波において提唱されている、「霊として再臨し、受肉する
キリスト」という教理こそ、この「肉体を持たないキリストの再臨教理」である!!
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1. Ms. Hubbardのことば:
"National Catholic Reporter," Oct. 19,
1990.より。
「この後の雨の仮庵の祭における”二度目のペンテコステ”
は、バーバラ マルクスにより
メッセージされる平和的な”ハルマゲドンの代わり”としての”宇宙規模のペンテコステ”を示唆するものである。
この時には、彼女に対して”キリスト”が啓示した様に、
人類の”
進化における”量子的な跳躍”が起きる:「宇宙的な接触の時には、私(キリスト)は、内なる経験として、
またマスメデイアを通す外部のコミュニケーションとして現れる。」とMs.
Hubbardは語る。
「その時は宗教の分派が過ぎ去る時であり、我々は各自、我々の内に神がおられることを知る、
もし、それぞれが宇宙的なペンテコステにおいて、自然に、そして神に互いにつながっていると感じるなら、
我々は、この人生において変換されるだろう。私は平和な”再臨”を信じている。」
注)この箇所の「私(キリスト)は、内なる経験として、..現れる」とは要するにキリストの受肉に関して語る箇所。
2. Hubbardのことば:
「この男の子とは誰か?この男の子とは、<キリストー男の子>であり、彼の中に(キリスト)は勝利として現れ、
そして十分に生まれ、そして進化した人類の全てのメンバーに受肉するのである」
注)「キリストは...全てのメンバーに受肉するのである」とは、明らかに彼等の語る「霊として受肉する
キリスト」という教理に関することがら。
3. Earl Paulkのことば:
The Ultimate Kingdom (Atlanta: K Dimension Publishers,
1986, p.121.
「イエスは肉体にある神であった。
我々は、その量においてまたその影響力において勝り、彼がこの世にかつてあった様に存在しなければならない」
注)「イエスは肉体にある神であった。」とは要するに、「受肉した神」ということか。
そして、「我々は、...彼がこの世にかつてあった様に存在しなければならない」とは要するに、かつて、
我々も神の霊を受肉され、存在するべきであるということ。
4.. Earl Paulkのことば:
The Wounded Body of Christ(Atlanta:
K Dimension Publishers,
p. 43.
「神の世への受肉の完成は、その教会に対して行われなければならない...
イエスキリストは、初穂なので、収穫が進行しない限り、受肉も決して完成しない。」
注)「収穫が進行しない限り、受肉も決して完成しない。」とは、要するに、
イエスキリストにおいて行われた受肉は、大収穫された多くの人に霊として、
受肉しない限り、完成とはいえないということ。
この箇所も、多くの人に受肉する神の霊について語る。
5. Earl Paulkのことば:
Held In The Heavens (Atlanta:
K Dimension Publishers, 1985,
p.60
「生きた神のことば、イエスキリスト、は処女の胎に宿った。
ことばは、神の人であるイエスキリストにおいて肉体となった。
(ヨハネ1:1)
同じ様に、神のことばは、我々が神が我々に実施させるべく召された
王国のため証言するために、教会において肉体とならなければならない。」
注)この箇所も教会に対して、受肉する神の霊について語る。
6. Earl Paulkのことば:
同上, p. 125.
「我々は、神の延長として、彼が始めたわざを終了すべく、地上に存在する。
我々は、神のエッセンスであり、神の世において進行しつつある受肉である。」
注)この箇所も人々の上に受肉する神の霊について語る。
7. Earl Paulkのことば:
Thrust In The Sickle
And Reap (Atlanta: K Dimension
Publishers, 1986, p. 132.
「彼(イエス)は、内住の霊として、回復と愛との高い領域に入られた」
注)この箇所もイエスの霊が我々の内に受肉するということに関して語る。
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<結論>
聖書は終末の異端として、「キリストが肉体を持って再臨することを否定する人々」に
関して語り、それを反キリストの教理であると名指しで、警告を与えている。
その手の異端は最近まで、あまり現れたことがなかったのだが、今、
この時、後の雨、また聖霊の第3の波系の人々が、この教理を言い出したことは、
大変なことがらである。
彼らに対しては、要大注意ではないのか。