後の雨の教えによる「終わりの時のシナリオ」

(訳注)以下は、「後の雨」運動による、終わりの時のシナリオを記したものです。
これらの異端的な教理は、現在第3の波系の人々にそのまま受け継がれています。
 

教会はイエス・キリストの‘型’に従わなければなりません - イエスが‘典型的な、型としての息子’であるからです。
 イエスは3年の間に、奉仕、死、復活、および栄化を持ちました - それゆえ、教会は彼に続かなければなりません。従って、終わりの7年間は、このスタイルを示し、それはまた黙示録のスタイルでもあります。
 私達は、その信者が、期待していることについて、学ぶことができます:増大する宗教的「パリサイ人」からの迫害の中で、聖霊のバプテスマは、油注がれた3年の奇跡の働きへと導きますが、迫害は「キリスト」信者が殺されるか、投獄されるという範囲まで激しくなります。
 しかし、イエスがそうであったように、教会は公然と変貌し、「からだ」は神によって上げられ、 地球を審判する霊的支配権と権限を持つ「天的な」統治者の位置に置かれることになります。

最後の3年半

 あなたは、最後の3年半に起こることを知らなければなりません。それは、怒り!です。勝利する者が上に上げられた後、勝利者は、敵をその権力の座から放り出し、この悪の力の主権と戦うことになると信じられています。

 反キリストが、完全に社会を破壊するために解放されるであろうその時、この勝利者は地球および教会のために恐ろしい苦難、恐るべき清めをもたらします;そして、その間中、人の子たちは、神の敵の屠殺を統轄し、霊的支配者として彼らのその高みの立場から私達を見下ろし、微笑むことになるでしょう。
これは、彼らが、自分達と意見の食い違う人々をいかに扱い、教会から除去するかの手段、方法です。
-これらのことは、基本的には、彼ら、勝利者を自認する人々が悪魔と結託することによって、唯一の真の神に留まろうとするすべての人を拷問し、抹殺する時に起こるのでしょう。

 過去は明白です;現代はこの教えによる愚行の例で満ちています-しかし、未来においては?彼等のいう大きい計画とは何でしょうか?

 ニューエイジャーたちは、計画を持っています。霊的進化の道、人類の変容すること、およびすべて古い秩序をもつ地球をの浄化することです。警告するなら、クリスチャンの間(で話されている)計画もこれに非常に類似しています - しかも教会のみがイエスの名前においてその(計画)を(実行)します!
私は、今日あちこちで使用されている聖書の聖句を用いることにより最もうまく計画を例示することができます。人々がトロント現象について話す時はいつでも、彼らはこの同じ聖句を使います。
私は、これらのリーダーがすべて自発的に聖書の同じ聖句に導かれるとは信じがたいのです、万一そうであり、誰も彼も偶然同じ聖句を用いているのだとしても、たとえそうだったとしても、更に偶然にも彼等が異口同音に同じ霊的寓話的な意味を考え出すといことはありえません。
 絶対にそんなことはあり得ず、これはリーダーシップによって植え付けられたもの、人為的なものであり、彼らは強制的に追い込まれており、自分自身でほとんど想像することができない力と意図によって動かされているのです。
 黙示録のヨハネと第3の天に取り上げられたパウロのような聖書的な型(様式)を使って、ビル・ブリトンは「携挙」を説明します。彼は、からだは地球の上に残っており、しかし、彼らが霊的経験をしたということから論を始めます。彼は、従って、天国は人が行く特定の所ではなく、地球の上にある霊的領域の中へと変容されていくことであると言います。

リチャードリス(後の雨と熱心なトロントサポーターの本の作者)はブドウ園の新しいワイン掲示板に関する質問に答えることで、同じ信仰を繰り返します:

イエスが来る準備をする人々のために、それは純然たる喜びの時になるでしょう。彼は「リバイバル」または霊的覚醒の間、彼の臨在によって私達を訪れたその瞬間、私達にこの神聖な至福の前味を与えられました。これまでに神の臨在または彼の聖霊の満たしを経験したことがあるならば、熱心に彼の出現を待つ人々を待っている恍惚のヒントまたは暗示を与えられています。
 教会の歴史を通して、携挙に関する事柄は、終わりの時代の出来事に関係している限り、眺めの広い視野の範囲があります。ジョン・ネルソン・ダービーがこの種類の見解を公表し始めた1830年以前には、私が知る限りにおいて、聖徒の身体的な移転を教えた人は、いたとしてもほんの少数で、ほとんどいなかったのでした。
 霊的な権威の空中の主と会うために栄光の雲に巻き込まれることは、必ずしも地球から文字どおりの身体的な移転を伴っう必要はありません。実際、それが実際に地球から私達の体の移転を伴うものだというなら、それは永久的な移転となってしまうでしょう:
(訳注:実際に体が携挙され、地上から挙げられたりしたら、二度と戻ってこれない:という意味あい)
「それから、私達はいつも主と共にいます」(第一テサロニケ4:17)
 しかし、聖書の全体の流れとしては、私達が地球の上に復活したからだを持ち、天と地が両方とも一新されるか、更新されるのです。(使徒3:21、マタイ19:28)
聖徒の身体的な移転がもしあるとしても、それはほんの一時的であるだけです。
 記述されている「いつも主と共にいます」とは、少なくとも私には、私達は上げられた状態に永久に存在するのだし、その時から先、永久に彼と共に天の場所に存在し続ける、と理解します。
私の考え方では、私達がまだ地上にいながら、しかも、私達は天の場所に存在するということがあり得るでしょう。

(訳注:第3の波系のキリストの再臨、また携挙に関する考え方の基本は、聖書に書かれたことが文字通り、
起きるなどとはとても信じられない、というより全く進じていない人々によるものです:天に人体が挙げられることなど信じられない、その様な人間的な考え、理解が基本にあることを知るべきです。

だからこそ、彼等はキリストの肉体を持った再臨を書きかえ、確認のしようのない、「霊として来るキリスト」(しかし、誰がそんな霊を見、再臨した事を確認できるのか?)と語り、また携挙、すなわち、天に実際の体が携え挙げられることを書きかえ、
「携挙とは心が携え挙げられること」などと言い換えを行っているのである。
これらの教理の特徴は、そもそもキリストなんか信じていない、その奇跡も信じていない、キリストの再臨が起きるなど全く信じていない人々から発していること、そして再臨などを信じる非科学的なクリスチャンをたぶらかし、逆にこの終末教理を逆手にとって、自分達が教会をのっとる手段に変えてしまおうという人々、ある種の民族の影があることである。)
 
 
 
 

栄光の帰還

 ニュージーランド、オークランドのロブ・ホイーラーによる「神性なる教会の開示」及びビル・ブリトンによる「旧約聖書の約束」という二つの異なるメッセージを要約するとき、明らかに彼らは、「終わりの日の教会」という生きた神殿にある霊的契約の箱に神のシェキナー、栄光が戻ることを期待していることがわかります。
 エゼキエル44章においては、最も神聖な場所で奉仕したザドクの子について、私達は読みます。
これこそ、約束を引き継ぐ人々であるに違いありません。彼らは顔と顔とをあわせて神に会い、生ける神のすみかとなるのです。
 第Uコリント6:16には、「私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と書かれています。

カリスマ・ムーブメント−後の雨運動の拡大
 第一に、どのように後の雨リバイバルは今日の、ペンテコステ派に影響を及ぼし、カリスマ主義になったのでしょうか?ほとんどのキリスト教徒は、この後の雨運動がペンテコステ教団から追放された1950年代に、その働きは死に絶えたと考えています。
 しかし、後の雨教義は死にませんでした - ビル・ハモンの本「永遠の教会」からのこの引用文が説明するように、彼らはただ地下に行ったのです。ビル・ハモンは、その暗い時代から次第に教会を復元したと信じる霊的ムーブメントについて語ります。彼等は癒やしのためでなく、油そそぎと賜物の移動のために、「手を置く」こと、それを回復しました。これは第四番目の教義です。

「手を置くことは別の主要な運動を生み出しました。この運動は1940年代後半に始められ、1950年代にすべてのペンテコステのグループに浸透しました。」

「この期間に、それは後の雨とリバイバル運動として知られていました。1960年代初期においては、この教義によって既に影響されていたペンテコステの教会を除いて、ほとんどのキリスト教徒はこの運動に関して知識はありませんでした。ところが、1960年代の半ばにおいて、聖霊は回復教義の真理と霊的経験をすべての教会の中へ広め、これは全キリスト教徒の中のあらゆるグループに拡がりました。ヘブル書6:1-2の4つの復元教義を取り出し、それらをすべての教会教団と独立グループに知らせた聖霊の動きは、カリスマ運動として知られるようになりました。」

 ビル・ハモンが、後の雨改革を、聖霊と賜物を伝授することや、回復の教理の一部として名付けていることにご注意ください。彼は、現時点に至るまでカリスマ運動の中でこれらが作用し続けて来た、と語っています。カリスマ的な運動の擁護者自身によると、それは、後の雨の教えのためにちょうど良くあつらえた家(居場所)を提供したのでした。

(コメント:
この文書も現在、第3の波系のビルハモン等が提唱する”聖霊運動”やカリスマ的な
運動がかつての「後の雨運動」と類似、否、同じ源泉であることを
語ります。この後の雨運動は、かつて、1950年代、当時のアッセンブリーズオブゴッド教団を
始めとするペンテコステ諸派により、「異端」として、退けられました。
第3の波系の霊、教理は怪しく、それは、かつての異端的な教え、霊に源泉があるのです。)
 
 

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