終末の背教教理


読者により翻訳いただきました。

<HP責任者によるこの文章に関する紹介文>
終末の背教教理を紹介します。原文は英語です。
この文章の主旨はざっと以下の様な内容です。
 

第3の波を始めとした、終末教理の特徴は、聖書の教えに難くせをつけ、へ理屈をつけ、
その結果、聖書の語る、終末の教理と全く正反対の教理を打ち出し、押し付け、
強制することにあります。

*彼らは、「携挙」、すなわち、聖徒が携えあげられることに関しては、「文字どおり携えあげられることなどない」としてそれを否定します。「文字どおり携えあげられるというなら、それは逃避主義、悲観主義である」また、「聖書でいう携挙とは、実は
心が携えあげられること、心が高揚すること」などと愚にもつかない、へ理屈をつけ、
これを否定します。聖書と全く逆の事を堂々と主張しているのです。

まことにあのエデンの園の蛇、間違えることのない神のことば「この実をとって食べれば
必ず死ぬ」といわれた実に対して、「決して死ぬことは無い」などと大嘘を断言した
サタン由来の嘘を平気で語ります。

*さらに終末の日の艱難時代に関しては、聖書のいう「正しい人々が苦難に会う日」との
教えを変え、「艱難時代とは、(怪し気な)使徒や、預言者に
聞き従わない、不従順な人々、すなわち、反キリスト的な人々が裁かれ、罰せられる日」などと
語ります。聖書と全く逆の事、
自分達こそ、艱難時代においての悪役すなわち、迫害者になることを見越したような
発言をしているわけです。

*さらにまた、再建主義、統治主義、王国を今の教理を掲げる人々は、「天の御国」と書かれた聖書のことばと対抗するかのように、
「地上を神の国にする」、「地を支配する」ことに異常にこだわります。
これも全く聖書のことばと反対の主張です。彼らは聖書の民でも
真理を見つけた人でもなく、黙示録でいう「地に住む人々」いずれ滅ぼされる人々です。
 

*これらの聖書の全く正反対の教理をクリスチャンに受け入れさせるため、
彼らはエデンの園の時の様な嘘を用意しています。
すなわち、「今はルターの時以来の大きな変革の時である。この変革に加わらず、
反対する者は主イエスの時、反対したパリサイ人の様に神に反逆する者である。」
こんな嘘を真に受ける人々は、「エデンの園で悪魔にだまされたエバ」の様に
嘘教理を受け入れていきます。結果、命を永遠の命を失うでしょう。

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終末の背教教理

 

 
 
 

21世紀における指導力というものは、我々が主権を握り、すべての社会的領域で奉仕者を通し、世界的なクリスチャンの理想郷をもたらすべく、世界的なリバイバル(信仰復興運動)とその唱道者について、夢を追い求めるものである。
このメンタリティーの危険性を以下述べようと思う。

世界の教会統一


単一世界という世界的理想郷を創造するためにクリスチャンが主導権を執ろうとする幻想は、(たとえ仮に、それが“真正のクリスチャン”であると考えられていても)惑わしに入ることを意味する。世界的な統一という型を捜し求めているクリスチャンは(特に、もしそのことが健全な教理を犠牲にすることになっても)、その他の世界的統一運動と合同すべく誘われるのだ。その運動とは、反キリストの世界的制度を作るべく利用されており、世界統一政府、世界統一経済のメカニズムにその目的を置き、それにかかわる人は、思いもしない世界統一運動に合同され、反キリストの世界制度の片棒を担ぐべく利用されるのだ。そのベースは、繰り返しになるが世界統一政府、世界統一経済システム、そして世界統一宗教となるだろう。そして、この合同の例を挙げるならば、ロン=ボームの書籍のみにその内容を求めようとする。

 教会は変質し、変化する


後の雨の教えを心棒する多くのペンテコステ、カリスマ派は、結果としてそうなっている、マーチン=ルターの時に始まり今まで続いている回復を見つめている。ルターは、信仰によって正当化されるとする教理を回復させ、ウェスレーはホーリネス運動を始めた。異言がアズサストリート=リバイバルで与えられ、聖霊が、新しい政府となるべく教会に対して、使徒、預言者を今や回復しつつあるとする。このことはおそらく、教会が地上における主権を握るという最高の勝利へと導くというものであろう。ジョージ=ワーノックは、自著において、祝宴の預言的計画を説明している。それはどういうことかというと、キリストは我々の犠牲の子羊として、過ぎ越しを成就し、ペンテコステで聖霊の傾注が成就した、そしてついには、終わりの日に教会の礼拝堂において完成するとしている。この教会は、マタイ伝28章18節にあるように、主イエスがあらゆる力を天の父から授けられたように、この教会があらゆる力を授けられた時、その時こそ敵を支配するであろうとしている。

新しいこと、第3の波がやってくる、その真の名前は「背教」

“新しいこと”が波としてやってくると言う者がいる。ポール=ケインはこれを“第三の波”(ピーター=ワーグナーとその他何人か同様)と呼んでいる。この波に関してはさまざまな定義が存在する。第一の波は、ペンテコステ運動として知られており、(P16)第二の波はカリスマ運動(P17)、そして今、“私は第三の波を異なったものとして見ており、しかし同時に、これらと似ているものと捕らえている。”(P18)。ピーター=ワーグナーは、この新しい運動の人たちは、どちらのグループとも異なるのだと言っているが、結果としてはおなじである。(C.ピーター=ワーグナー、“聖霊の第三の波”)

 この運動の参加者はほとんど、その運動(聖霊の第三の波運動)が以前の(神の)運動のすべての良い点やその他多くのものを含んでいるということに異論はないとしている。このことは、すべてを取り込むだろうし、あらゆる障壁を越えるであろうとしている。神がその全能なる波を解放する時、バプテスト派から聖公会へ、聖公会からカトリックと地上のすべての宗派へと、すべての者を取り込むことだろうとしている。(Paul Cain、”God speaking the second time” ,Leadership Conference, Grace Ministry,1990)
 

新しい啓示に聞き従わないことは罪である

 

 
 
 

 神の新しい運動の概念は、現代のトロント、ペンサコーラ=リバイバルより前にさかのぼる。人々は、この後の雨の教え以来の“新しいこと”は1948年に示されたと捜し求めるよう教えられてきた。数年間にわたる許容範囲の中で、1980年代後半から1990年代前半にかけて、すごい勢いで再びよみがえったのだ。この新しい波の中で、今日の宗派は、新しい使徒及び預言者の指導の下、教会はこの主権に統治されるようそそのかされている。もし拒否するならば、その人たちは、エフェソ書4章で言われている”五職の働き”を拒否したということで非難されるのである。初期において、教会は神が指名した使徒がその面倒を見て、主イエス=キリストからの教えを授けるようにとされていた。今日それらの教理を唱える多くの者は、主イエスが個人的に選び、教会が生き延びるのに必要としたのと同じように、同等の地位を欲している。

 今日において、罪はこの新しい動きの一部に連なることを拒否する者の上に積み重なっているとする。伝統的な古い死につつある状態に分類されたがる者は、誰もいないことだろう。ステファン=ヒルという人物は、ブラウンズビルでの新しい波におけるキープレーヤーなのだが、“神をあざける者の第二のしるしは、対立とか変化を恐れる者である。彼らは宗教的伝統において非常にかたくななので、新しい啓示に対して、拒否反応を示す。”と述べている。(The God Mockers, chapter 1,1997 Stephen Hill)

 我々は、神の啓示に対しては、預言者に聞かなければならないと教えられており、そうでなければ、教会は刷新されることはなく、教会の中にキリストの命は存在しない。グレン=フォスターは次のように述べている。“私はあらゆる世代に預言者をあなた方のために送り込もう。私は教会において、今まさにあなた方が見たこともないような予言を解放しようとしている・・・私には秘密のプランがある、そしてそのプランは、ここに少し開かれ、そこに少しというもので、預言者に聞き従うべきなのだ。小さき預言者、大いなる預言者、ワンフレーズ語る者に聞き、多くを語るものに聞け。”( Prophecy published by the Sweetwater Church of the Valley, Glenn Foster, Life for the Nations, Oct 7, 1994)
 

使徒は主権を強める


 教会の生ぬるさとか堕落の時代は、キリストの再臨が近いというしるしであろうと信じるようになったクリスチャンは、間違っている。それは使徒の時代なのであって、背教の時代が間近に迫っていることを意味しない。(Doing A New Thing? 1995 Brian Hewitt, introduction)世の終わりは、“今動き出した大いなる使徒の主権”を強め、妥当性を与えるようになるという、まさにこの変化なのだ。信仰から離れる代わりに、歴史的にも、今までなかったような水準まで教会は権限を与えられ、原始教会以上に強められると信じている。
しかし残念ながら、私はこのようなことを聖書の中に見出すことはできない。

 フラー神学校はポスト=デノミネイショナル チャーチ(教派を超えた教会)において国家的ともいえる座談会を催し、それはピーター=ワーグナーによって招集された(1996年5月21〜23日)。ビル=ハモンは次のように言っている“このことは、教会史の神の研究報告書において、歴史的偉業である。予言的に言っても、聖霊の業によって成就されたものである。”

 小さきキリストとしての不朽のルール
アール=ポールクの言 “世界において神の受肉の完成とは、“神の教会において”でなければならない・・・イエス=キリストは初穂であるが、今進行中の収穫がなければ、受肉は完成しないだろう。我々は地上において、神のなし得なかった事として、神が始められた仕事を完成しなければならない。我々は神の真髄であり、世界で可視的なものとしての、神の進行しつつある受肉した姿なのである”(Earl Paulk, Held in the Heavens 1985, p,p. 125)教会は神の意思を成就するための神の体なのであるとする主張どころか、ポールクは、聖書がキリストに関しては何か特異なものであるかのようなことを言っている。

 携挙とはおおよそ、カトリック教会では、今日知られていない教えであって、多くのプロテスタントも同じ路線をとっている。そのことは地上における行動主義において、福音主義者を不安定にし、重要なことを失わせる結果となる。新しい焦点は、地上においての教会の相続であり、さらに言うなら、御国への道という希望を卑しめることになる。約束の地は天の御国であって、我々の市民権もそこにある。

勝利者は不老不死を手に入れ。霊的な完成を手に入れる

(要するに神の様になるということか.....。エデンの園で聞いたような。)

 幾人かの統治主義者によると、地上の清めを成し遂げるために、勝利者は不老不死を手に入れなければならず、彼らの計画に対し身体的な障害はなくなる。不老不死、さらに痛みとか死を感じないということは、使徒、預言者に従順なることを通して、霊的な完成を成し遂げる結果となろう。(Al Dager vengeance is ours p.96-97)

 “キリストは、あなた方が教会内にキリストを見ない限り、教会がキリストのように見えるようになるまで、教会にやってくることはないだろう。父なる神はキリストを植え、ここ、この地上にご自身の種をまいた、それはキリストに似るような、兄弟姉妹によるまったき国にするためであり、そのことが目的でもある。神の子は、ALPHA SON(初め)であり、子であるあなた方は、OMEGA(最後)の息子、娘となるのだ”( Bob Jones)

 “我々は神の民であり、今日の世界で神の意思を行うために召されており、神の栄光の回帰が地において、神の王国を立ち上げるのを見るよう召されている。イエス=キリストは、地上の死に対して、“No”と言う権威を持っており、キリストは我々がキリストが持つのと同じ権威を持つようになるのを待っている。そういうわけで、我々は“最後の敵である死を征服した”と言うようになる。“としている・・・・(Earl Paulk ,The Proper Function of the Church)

携挙を期待してはならない(???)などとトンデモナイことを

言い出す使徒達、この様な冒涜を耳にしてもこれらのトンデモ使徒を非難する声は日本の背教キリスト教新聞、背教キリスト教雑誌には、皆無(!!!)である。


 統治主義者たちは、再臨や千年紀に関して聖書を持ち出し、それらを今の世代に当てはめようとする。“伝統的なるものを捨てよ、そして神の霊が、教会に対して言わんとすることを聞け・・・あなたを救うはずの携挙を期待してはならない。キリストに地上に戻ってきて欲しいと願うなら、そうできるはずだ・・・我々にはそうすることが可能なのだ・・・我々と接触を取り、近づきなさい。神はご自身の軍隊を動員している最中です。”(Harvest time June 1984 p.2)

 “今までに、人類に与えられた偉大なる仕事とは、地上における神の王国の設立なのである“(Earl Paulk , Thrust in the Sickle)p.141

 マタイ伝24:14節で、主イエスは、神の国の福音が地上のすべての国にのべ伝えられるまでは、婚礼のための再臨はないとはっきりと言っている。教会が代わるべき御国を証するまで、主イエスは来ることができない。神はもはやキリストを地上に送り出す権威を持っていない、というのは神はご自身の永遠なる計画を欺くことはないだろうから。人はその日その時を誰も知らないので、私が神の権威において言おう、我々が御国の福音を地上のすべての国に証するまで、キリストは地上に戻ってくることができないのだと。その働きは成熟した教会を要求し、その教会が世界の王国に代わるものとなるであろう。それが教会のすべてであり、キリストの来臨はまさに我々にかかっているのである。(Earl Paulk  The Great Escape theory p.14)

 もし願うのであれば、あなた方は、いわゆる“携挙”と呼ばれている天国へ行く事に関しての本を学ぶことができる。我々は生活し、愛し、天国を地上にもたらすことを学ぶため、聖書を学びたいと願う。(David Ebaugh in Monarch Oct./Nov. 1986 p.3)御国の王である受肉したキリストをさしおいて、未だかつて世界が天国のように変えられたことがあっただろうか?彼らが提案したのは、王のいない王国であり、その代わりに多くの預言者や使徒がいるのだ。

携挙はあざけりの対象になる(???)

驚くべき冒涜の教理


携挙に関する教理は、教会に植えこんだ敵の偉大な、そして効果的な策略である。逃避的心理・・・もうすでにこのくびきは、昇華しつつある教会の大多数によって捨てられている。そしてすぐにでも、すべてにおいて捨てられるであろう。(THE HARVEST , Rick Joiner)前向きになりたいなら、あなたの体を不死へと変えるであろう携挙を忘れなさい(携挙は復活と同じことであるのだから)。その代わり、提供されることは、復活なくしては不死に変えられることはないということである。携挙はあざけりの対象になる。我々は、神はご自身の宮である教会を満たし、我々は以前とは違った権限を与えるであろうことを繰り返し聞いている。

幾人かは、携挙というのは、我々をより高い次元へと連れて行くのもであると教えている。それは霊的な領域であり;それは天国に連れて行ってくれるということを意味するのとは全然違う。アル=ダガーの“Vengeance is Ours”という本の147ページには、時間差を有する個人の携挙と変化について書いてある、リンダ=ボンバイルの記事からの引用がある。それは明らかに、聖書とは関係の無い“顕現された息子”の教えである。それによると“今まさにその時である。天の父だけが、いつ人の子を個々人に送り返してくださるかを知っており、そしてそれは、人それぞれ違うのである。私は1983年にそのことを経験している。84年に経験したものもいれば、85年、86年に経験したものもいるし、何人かは今まさにその中にある。すべてのみ言葉は、すでに発生している。それは自分自身に対する信仰の受け取り方の問題で、聖霊が我々に啓示しているものとして、すでに成されていることである。・・・神のすべてのみ言葉は、人々を通し、また人々の中に2000年前、キリストが初めてこられた時以来、成就しているのだ。それは今でも有効である。我々は、父なる神が今度はあなたの番であり、わが子をあなた方に送りだそうという時に入っており、もしくは、あなたがたは、メッセージを聞き、主の再臨は今私たちにとって必要なのだと言うであろう”(Linda Bonville video tape of small group meeting in hotel room Mar.10,1990,quoted in Vengeance is Ours by Al Dager)(わけのわからないことを言う御仁である。こんなたわ言、本気で信じるクリスチャンがいるのであろうか?いるとしたら会ってみたいものだ;訳者感想)

反対するものは削除せよ(???)

本音丸出しの聖霊の第3の波教理。彼らこそ、終末の日における
神の民への迫害者である。こんなよた教理の第3の波を推賞する阿呆たれ、新聞、雑誌、
牧師はその日めでたくもキリストにつく人々への迫害者になるのか。

ケリー=ジョーンズは次のように書いている。“我々は教会が、今まで見たより以上の偉大なる方法を持って、栄光で満たされるのを見ることだろう。それはどのようにしてか?マラキは“みよ、私は私の前に道を備える私の使者を送り出そう。その時突然、あなた方の捜し求めている主が、宮に来るであろう。あなた方が望んでいる誓約の使者がまさに来るのだ。”言葉を生かすものとしての教会は、教会に反対する勢力すべてを支配すべく立ち上がる。:その世界とは、肉と悪魔である“(Covenant News newsletter)。彼は、主イエスが来るべく宮として、教会を解釈しているように思える。しかしながら、このことは最初に来た時に成就している。問題は、教会が何をする力でもって満たされるかと言うことだ。反対するものは削除せよ(ヨエルの軍隊など)。このことは、同様なる影響を受けるすべてのものを含むであろう。地上を支配する王(キリスト)のいない聖書的モデルはほとんどないと言っていい。

ヒン(ベニー=ヒンのことか?)は、ハバクク書2:14節を引用し次のように述べている、“というのは、水が海を覆うように、地は主の栄光の知識でみたされるであろうから”。このことは今日において、世界中で起こっているのだ。(2000年7月17日) この約束は、バビロンの王と彼らの町を血を持って作り上げたバビロンの住人に向けたものといえよう(バビロンは、神ではなく自己に仕える世界の型である)。ある日、このことは、主が誰にでも知られるであろうご自身の王国を完成させる時、すべて変えられてしまう。しかし残念ながら、多くの者は、このことは現実に福音と教会の影響を通して今起きていると言っている。

幾人かは、千年紀の支配はもうすでに始まっていると考えているようだ。“神は文字通りご自身の玉座を天から移動される。このことが起こる時、教会は御座、神が来られるための場所を作り上げる必要がある。いつ教会は立ち上がり、天の型に基づいて憐れみの座を作るのか?そして神は文字通り、ご自身の玉座を用意し、あなた方は、教会の真ん中にその玉座の場所を設け、また、いくつかのグループは、神の栄光のための座をどこかに作るであろうし、その場所から流れ出る水は、最後には地を覆うようになるであろう。リバイバルの次なる波は、あなた方が今まで見たことのないものとなるであろう。そこには人間はまったく関わらず、神が座るというものでもない。神は我々が作り上げたいすを壊すのに飽き飽きしておられる。神は今や、まさに我々が憐れみの御座を作ることを求めておられるのだ”(River mail Archives;Mar.April.1999-The Glory of God-Tommy tenny)

我々が憐れみの座を作るなどと、聖書のどこにそのような教えがあるのか?神の憐れみの座は十字架のはずだ。これは、あまりにも未熟ともいえるとんでもない教えであって、終末と再臨に関して、人々を誤解へと導くものだ。Tennyや他の人たちが言っている事柄を成就するのは、キリストの物質的な再臨であるはずだ。ゼカリヤ書6:12−13“彼に言いなさい、「万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、一人の祭司がいて、この二人の間に平和の一致がある」。”主イエスは、このことが起こるときを明確にしている。・・・“世が改まって、人の子がその栄光の座につくときには、私に従ってきたあなた方もまた、12の位に座してイスラエルの12の部族を裁くであろう。”マタイ 19:28

彼ら(第三の波系)の教え


王国神学の基本的前提は、人間は、アダムとイブがエデンの園でサタンの誘惑に負けた時、地上の主権を失ったとする。その時のサタンに対する地上における神の“lost control”、そして神は、その時以来、神の延長、もしくは地上における“表現”となる、さらにサタンから主権を取り戻す“誓約の民”を探し続けておられる。このことはある勝利者を通して成就されるとする。その勝利者とは、王国時代の間、彼ら自身に神の使徒、預言者としての権威をもたらしこの世の王国の支配をするとしている。これらの王国は、あらゆる社会制度として制定される。たとえば、教育の王国、科学の王国、芸術の王国といった具合である。もっとも顕著なのは、政治もしくは政府という“王国”があることだ。
 王国神学を主張する輩は、後の日の使徒、預言者の下にある教会(幾人かは、教会内の勝利者と呼ばれる少人数グループだけがそうであると信じている)は人の子であり、あらゆる反逆者を押さえつけ、正義を司る責任があるとしている。これは、超自然的な力を用いることを余儀なくされ、聖霊の賜物が必要不可欠であるとする。

 携挙はない


 王国神学の批評の核心部分は“携挙”は無いとする。その教えとはー“教会はある日、捉えられ空中で主と会うであろう、そういうわけで、神の怒りが地に注がれる時、我々は天国でキリストとともにいるであろう。”というものである。
この出来事は、携挙という感覚、主が我々の手から王国を受け取るため戻ってこられた時の心の高ぶりとして説明されている。言い換えるならば、主が戻られる時に、すべての者は“感情的に”捉えられるだとする。この説明は“捕らえられる”という言葉の適用は、厳格にいうならば、ギリシャ語にはなく英語独特の慣用的表現であるという事実を無視している。
“私はその映画にまったくもって“caught up”された(その他の興奮)“というのは、第一テサロニケ4:17、第二コリント12:2−4、黙示録12:5、内の“harpazo”と同じ意味ではなく、身体的に天国へ捉えられたと表現したものであり、使徒行伝8:39にあるとおり、ピリポが身体的に聖霊により別の場所へ“連れ去られた caught away ”のと同じである。
 その結果、物質的に連れ去られるー教会の携挙(幾人かは教会が逆境に置いて主権を取り戻すまで無いと言う)はないのだから、イスラエルという国家の再生もないだろうとする。
・ ・・王国神学の別の終末論的観点は、大艱難は反キリストが支配し、神の民に敵対するまでは無いというものよりむしろ、世界的艱難期は神の民を通しての神の裁きによってもたらされる時でるとする。
事実反キリストは、何人かの人々によると、人ではなく、ましてや政府のシステムでもなく、神の制定した権威に反逆する反逆者の霊であると考えられている。どういう事かというと、第一ヨハネ4:2、第二ヨハネ7章の彼らの解釈によると、どうもキリストは、使徒、預言者の肉体に再臨するらしいのだ。
 携挙など無い、そして主イエスの再臨は、王国が使徒、預言者の直接統治の教会によって完成するまでないとするので、ほとんどの王国神学の支持者は、千年紀主義者であるといえよう。ようするに、主イエスは、千年紀が始まったあとか、完成されたあと来るのであるとしている。

 私が(これらの教理を)おかしいとする理由


理由T その教理は、地上において、世界的な神の国を要求する
理由V(なぜか二番が抜けている) その教理は、主の再臨という意識を取り去る
理由W その教理は、終末における聖書的予言を否定する
理由X その教理は、神の主権を否定する。回復という教理によると、主イエスは、すべての敵を教会の足元に置くまで再臨することがないと主張する。(おそらく死をも含む)
理由Y その教理は、宗教的一致を要求する。この教理によると、世界が福音化され、清められない限り、そしてこのことは個々の教会によってなされるわけではないので、すべての宗派はその仕事をなすため一緒になるのは避けられないことであるとする。
理由Z その教理は、人間の能力と知恵に基づく。聖霊の知恵と力の代わりに、世界の回復の計画は、人間の社会的技術と知識、組織力、指導力の質、レタリックと反対者の支配力の発展を要求する。
理由[ その教理は、人間の指導力に基づいた、組織的な教会制度を要求する。世界的主権を樹立するため、回復の教えは普遍的で世界的でなければならず、このことは、すべての人がそれに従わなければ、なしえないとする。よって、指導力という制度は、すべての教会が権威の下にあることを保証することが、取り入れられなければならず、その教えから誤ることは許されない。
理由\ その教理は、主イエスを教会に置き換える。王国そして従うべく権威としての地上の教会という主張を強める努力をして、回復の教理は、主イエスに主の体である教会という接近を用いて置き換えようとする。
理由] その教えの芽は腐敗から来ている。我々が今日回復の教理として知っていることは、ローマ=カトリックの統治主義、リベラル的な千年紀主義、ポスト千年紀的終末論と後の雨の教理のハイブリットであると言っていい。20世紀初頭の後の雨リバイバル運動はキリスト教会にとって、申し分ないほど新しいものであった。要するに、宗教的統一と教会の黄金期を成し遂げるに当たり、啓示的知識と霊的力という意味においてそうだと言うことである。

<コメント>

これは、後の雨、第3の波運動の裏にある隠れた偽りの教理、非聖書的な
教理に関する警告の一文です。原文は英語ですが、読者の好意により、
翻訳いただきました。

日本のキリスト教会においては、ピーターワグナー、ベニーヒン
を始めとする第3の波系の器が大いにもてはやされ、しるしと
不思議を追い求めるクリスチャンでどの会場も一杯です。
そして、新聞、雑誌などどのキリスト教メデイアにもこの
ムーブメントに関する警告は皆無です。

しかし、しるしや不思議をうのみにする前に
このムーブメントがどこをめざしているのか、
立ち止まって吟味することは大事ではないでしょうか。

この一文を読んでもわかるように、これらの運動は
明らかに聖書と異なる教理、教え、キリスト教をめざして
おり、しるしと不思議に惑わされる人々は、
エデンの園で蛇に惑わされ(永遠の)命の木から
遠ざけられ命を失ったエバの運命を辿る可能性が
大いにあるからです。
 

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