龍を抹殺せよ:

反対者の削除、抹殺を声高に語る

悪霊リバイバル運動の異常!


王国は今、顕現された息子、統治主義、再建主義だのの
偽ユダヤ主導のトンデモ教理の特質は、非情、冷酷、独善、狭量なものであり、
忠実なクリスチャンを憎むタルムード民族の悪意が透けて見えます。
この運動、教理の異常を彼ら自身のことばから、見ていきましょう。
読者により翻訳いただきました。
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導入;警告の言葉                   

この研究を、何か無味乾燥でごみ程度である、今日のあなた方には関係のない、一つの神学的学問として考えて欲しくない。それはおよそ、あなたとまったく無縁ではなく、事実からそう遠くはない。これらの人々は、霊銃とも言うべきものを、あなたや私に照準を定めているのだ。なぜなら我々は彼らの目には、反逆者と見なされており、我々は反キリストであると映るようである。我々は彼らの手にかかって死ぬ程度のものであり、彼らには、我々を削除するという神々しい使命があるのだと考えているようで、我々は邪魔な存在に過ぎないようである。(以下、私は、彼ら自身の資料からの引用を用い、あなたにこの事を証明したいと思う。)

 リバイバリスト連中は、神は今現在リバイバル運動に反対している者すべてを裁き、彼らの前から駆逐するであろうと信じている。
 

ボブ=ジョーンズは、オンタリオ州ハミルトンでの1998年のメッセージの中で、“イザヤ書4章4節から6節にあるように、新しい天蓋としての準備をせよと言わねばならない。と言うのは、私は教会を火できよめ、恐ろしい道中にあるシオンの不潔を破壊する準備をしている最中だから”と述べている。

 

ボブ ジョーンズ

 

多くのほかの人々も、同じ事を言っている;

裁きは神の家から始まると言わなかっただろうか?・・・そしてその裁きとは何なのか?それは神の国の実現という目的を持った高潔な命令とも言える予言的声明であり、地上に造り上げるべき王国をもたらす、高潔な裁判官の下す判決であるといえよう。このことは、神の家から始まる裁きであり・・・神は人手によって造られた宮に住まれるのか?・・・いいや違う、というのは、あなた方は神の宮なのであり、神の家なのだ!この裁きは、神の家を造り上げる為にもたらされるのであり、神の王国の権威は、あなたの中で働き、そのとき、神の王国がこの世の王国としてもたらされるのだ。神は、しみ一つない聖なる人々を、この世の王国を支配する宮とし、この世の王国は、主と主であるキリストの王国となる。
 この審判が神の宮にもたらされる時、まさに、麦と毒麦が混ざっており、キリストの予言はまだ成就しておらず、キリストが現われる事により、罪の子が暴かれる事であろう。罪の子(要するに、さまざまな信義を持ち、王国の住人にはふさわしくなく、信仰に満ちたふりをするが、心の中で不正を働き、権威を否定する者ということになる)は今現在においても、宮(あなたの体は宮だという事を知らないのか)に鎮座していないだろうか?そして自分は至高の者であると宣言しているのではあるまいか?聖別の時は迫っており、キリストは自分の宮(キリストの選びの民は別として、キリストは宮にある罪の子を滅ぼすであろう)を口の息でもって聖別するであろう。そして、すべてはキリストの元に一つに集められ、万物はキリストに返還される事を知るべきである。
[DOUG FORTUNE: Trumpet call. Apostolic/Prophetic Bulletin KINGDOM AUTHORITY!Aug 15, 1999]

 この上部のコメントは、sonship(顕現された息子主義とでも訳すか)/LR/信仰復興主義の教理を語る上で、非常によいサンプルとなる。裁きは、彼らの地上王国の進展に反対する者、そして罪の子(彼らの言うところの反キリスト)を彼らの教理に従わない者、さまざまな信義をもち、新しい啓示とリバイバル運動の霊を受けていない者として同一視することにより、彼らを粛清すべく(選びの宮である)選抜された残りのもの(レムナント)によってもたらされるとする。(彼らの言うところの)キリストー現実は、組織されたキリスト教団体―は、これら罪の子を粛清するという。そうはっきり宣言している。
 古い秩序は敵であるという。

私は新しい事をまさにしようとしている。古い事ではなく、ましてや再建的なことでもなく、まさに新しい事なのだ。古い事に加えることはしない、ましてや新しく見えるような造り替えることもしない。大いなる悲しみが神にある。なぜならば、この事を聞き、受け入れる者はほんの僅かしかいないからだ。

 律法学者の時代は終わりを迎えようとしている
 神をあざける者の時代は終わろうとしている
 神を軽蔑するあらゆる人々の時代はいまや終わろうとしているのだ!
 信仰の時代というのは、確実に区別を伴うようになるのだ(この点を強調している)
 私の栄光が地に降りてくる時、信心深い人(聖書にかたくつく人)は私を受け入れないであろう。彼らは私が彼らの歩みの過ちを暴く時、私のする事を認めないであろう。腐敗した教会は死を迎えるであろう。死に体の教会は朽ちるであろう。DueSeasonの言葉;(Sponsored by : Faith Tabernacle of Kremmmling CO.)ByWilliam Hawkins:whawkins@ncats.net August 27th,1999.

 別の、更に明確なる反逆者に対する来るべき裁きとは、使徒側でのラッパが響きわたり、“栄光かそれとも恐怖か”ということを見ることだろう。彼は、現実にはイエス=キリストの身体的な(目に見える形での)再臨はないという内容を持つ予言の先頭に立っている。更に“汚れなき血の報復をし、彼に逆らう者は、大いなる逆鱗に触れることになるであろう、熱き復讐心に満ちた聖なる戦士”について、まもなく来るであろう事を予言している。このことは目に見える形での再臨を語っているのではないと言う事を覚えていただきたい!今まさに起ころうとしている事を恐れる信心深い人、また疑い深い人に対し警告する。神が言っているのはこうである:“暴力に対しては暴力でもって打ち勝たねばならないし、私の霊の求めるところは、まさに止まろうとしている。私を悲しませる者はもはや誰もいない。私の霊を癒すものは誰もいない。私を嘆かせるものはもはや誰もいない。彼らの時代は終わったのだ。穏やかな恵と憐れみの季節は、まもなく凍えるような裁きと怒りの冬の季節へと変えられる事を知るべきである。;私の求める穏やかな時代は燃えさかる復讐へと変えられるであろう・・・”

 答えは二つに一つである。
通常のペンテコステ的体験から、リバイバルの“新しいこと”へと移行していない教会に集う人々は、栄光が降るときにレフトビハインド(置きざりにされる)される事だけはないであろうと教えられているが、その時、今まであった牧師職を自分自身から奪われ、宮の外庭に追放されることに気づくであろう。

 “
幕を通ることのない者はすべて、外庭へと出て行かなければならない。今日、多くは、神の恵みを受け喜んでいる、そして程度の差はあれ、超自然的な霊の領域の恩恵を受けている。しかし、我々は起こりつつある変化とも言うべきものを見ている。そこでさらなる霊的な高みへとたどり着き、幕の後ろに位置する、至聖所へと向かっていくのか、もしくは今まで持っていたものを失うか、どちらかなのだ。
 ペンテコステ派の教会は、型にはまった儀式や伝統的教派の儀式にもどっている。それはあらゆるところに見ることができる。私は例外があるのは知っており、それゆえに神に感謝している。しかし、あなた方は選ばなくてはならない。至聖所の中か、それとも外庭であるかを。この一部領域は過ぎ去りつつある。至聖所にたどり着いて霊的きわみに至るか、それとも今まであったような、自分自身が持っている賜物と超自然的な聖霊の働きを失うのを見るか・・・外庭へと退却するものは、主の至聖所において寄与すべく、エゼキエル書44章で述べられている“ツアドク”の一族のようになることはないであろう。“[Bill Britton ミ Light Out of Shadows,Chap2]

 そしてジャック=ディアによるヨエルの軍隊に関するテープからであるが:
この軍隊が来たらんとする時・・・すべての者は、神の子(この場合、顕現された息子を指すのであろう)と神の子の声明に服従するか、もしくは心をかたくなにし抵抗するか・・・抵抗するなら、ヨエルの軍隊が通り過ぎる時、文字通り、畑の上で焼かれる事であろう。いまや皆の者に対して明らかにされているが、服従か反逆かでもって、神の裁きの領域において真の意味で焼き尽くされるであろう。誰も逃れることはできないであろう・・・この軍隊が祈る時、地は揺らめき、地は開き、反逆者を飲み込むであろう・・・人々は落ちていくであろう。人々は来るべきこの軍隊の圧倒的な力ゆえに震え、わななき、揺れる事だろう。―その人々とは、サウルのような肉にあるクリスチャンであり、敵意を持っており、その軍隊とはヨハネ伝18章での主イエスを捕まえにきた軍隊のごとくである。兵士の影を避けようとする時、それら600からの兵士は顔を向けて言う“私が主である”と。
伝統的な預言の言葉に立つならばこうである。すなわち:教会を立ち上げ、ごみを振り払え。あなた方を伝統とか、
儀式、決めごと、法規につないでいる鎖から解放されなさい。[Words in Due Season(Sponsored by :Faith Tabernacle of Kremmling CO.)]

 繰り返すが、神の国の到来の遅れに対する非難とあらゆる領域における教会の考えられるユ失敗ユは伝統的な価値観や教理にしがみつく人たちを産出する信仰にあるといえる。
初期のリバイバル運動からのある有名な指導者にマーク=デュポンなる人物がいる。彼の記事によると、“TheNext Wave(次なる波)”―新しい啓示を受け入れる事を拒否するすべての者に隠された裁きという恐怖をもちいる。まず彼は、リバイバルの力を妨げるものを確認する。彼は言う−私は主が語ったのだと確信する:“これが今ある私の教会の状態である。非常に多くの批判、形式主義、偽善が教会の中に存在する。教会は愛とか憐れみに十分浸る必要がある”と。

この主題に関して、私が別の記事で説明してきたように、第三世代の教会への変化、いわゆる“新しい事”なのだが、サンシップ、後の雨の教師である、ある一人の先駆者は、伝説のJoachinof Fiore であり、歴史とはいくつかの寓意的時代からなると教えている。
:まず旧約聖書の律法に象徴される父なる神の時代―これは肉の領域であった
;次に、子なるキリストの時代は新約聖書の救いに象徴される恵の時代―これは霊の領域である。
;そして三番目、“第三の時代”とは、教会(もしくは、いくらかの啓発された人々と言い換えることもできる)自体が霊の領域に突入するのである。
このときには、神によって書かれた言葉(聖書をさすのでしょう)を離れ、神により与えられた選びの人による直接的、霊的啓示が強調される。救いは、霊的推論とか理知的な理解と言う事ではなく、神との直接的個人的パワーの遭遇となるであろう。さらに、それぞれの時代において、旧秩序が存在してはいるが、やがて過ぎ去り、旧いやり方に執着し、変化に逆らう旧秩序に従う人が重なり合う事になろう。しかし、いつでも新しい時代の夜は空け、残りの者は動き続ける。旧い時代から新しい時代への過渡期は訪れつつあるのだ。
 
 

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