さて、最初のメシアは注意深い観察者でないと分からなかった。そのために神は詳細な予言を与えられた。それに反して、再臨はほとんど細かい予言はない。特にその時などキリストは「知らなくていい」とさえ言っている。それは今度来る時はどんな不注意な人間でも分からないはずがないからである。何しろ今度来られるキリストはあの柔和な羊飼いの姿ではない。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように自い羊毛に似て真自であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り埠くしんちゆうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、ロからは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り滓く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、
『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」黙示録1:12〜18
これはほとんど仁王像である。一二弟子の内キリストに最も愛されたョハネでさえ、恐ろしさに震え上がり、気絶してしまった。その日、歴史は止まり、天は地につながり、霊界が物質世界に介入する。三次元はさらに高次元に侵入される。これはまったく想像を絶する世界である。そんな馬鹿な事があるものか、と言われるなら、あえて問う、あなたは他にこのような事態に代わる希望を持っているかと。もし何もないなら、そのままでいいのかと。
先入観これこそ最も悲しむべき人間の欠点である。私は日本で伝道していて、どれほどこの先入観に悩まされて来た事だろう。どうしてまだ知らないものを、知っているようにいうのか。なぜ、知らないものを白紙になって知って見ようとはしないのか。そんな思いからかなり思い切った文章を書いてみた。私としては日本人の前から、キリスト教に対する先入観を吹っ飛ばしたいのである。そして、聖書にはこれからの近未来がまるで手にとるようにあざやかに予言
されていることを示したかった。読者がこれからの人生航路に聖書を羅針盤として下さったらそれに勝る喜びはない。