この倫理感によって評価されるなら、日本からも世界からも政治家というものは無くなってしまうだろう。私だって金丸氏の蓄財には呆れ果てている。しかし、政治は汚いものだと思う。もともと人間が汚いものなのだ。その人間社会を統率する政治が清らかな愛の手で行われるなどということは絶対ありえない。あるとすればそれは神による直接統治であろう。民主主義はそれを構成している民衆以上の政治家を生み出すはずはない。
その意味において私は完全なペシミストである。それでもクリスチャンかと
いわれるだろうか。だから日本人は無知なのだ。キリスト教の根本は人間に対する徹底的な絶望から始まるのである。日本においてはなぜかキリスト教が、愛と善に満ちた人間の宗教という視点に置かれてしまった。確かにキリスト者はそれを目標としている。しかし、そのためには人問の中にその様な資質はまったく期待できないのだという確認から始まらなければならないのである。聖書は人間が全く罪に満ち、自分の努力では、いかようにも救われないと言っている。それが旧約聖書の中身である。それに対して、新約聖書はだから神が人となって救いに来たのだというのである。上記の議定書の言葉は好むと好まざるとにかかわらず真理である。私は読者が必ず憤り批判をされるだろうと思う。しかし、これは人間の本性であって、この文書は単にその本性を暴き出しているに過ぎない。
今のように政治家が何をするにも明るみに出され、一から十まで清潔な倫理感で動かなければならないとされるなら、日本は必ず破滅するだろう。そしてそれこそ彼等が目指している目標なのである。彼等は自由、平等、博愛という互いに矛盾する言葉をもたらした。ゲーテ
は「自由と平等が両立するなどと本気で考える人間がいるとしたら、それは狂人だ」と言っている。彼等は民主主義、自由、権利という言葉を人間社会に持ち込んだ。これはあたかも絶対的な真理のようにすべての人々に受け入れられた。しかし、これらは実際には有り得ない事だったのである。ちょっと考えてみただけでも、もしすべての人が互いの権利を主張したら、そこに平等な社会など成り立ち得ない事は分かるではないか。そのためには人間が、利己欲望、嫉妬、憎しみなどの感情から完全に解放されていなければならない。「大衆はあらゆる機会に自己の野蛮性を発揮するもので、大衆が自由を握れば、必ず無政府状態に変えてしまう」「我々が『自由、平等、四海同胞』という言葉を民間に放ったのはすでに古代の事である。それ以来、これらの標語は、無意識のおうむ返しによって、何度となく復習され、世界の幸福と、個人の自由とを破壊した」
「かつては信仰が人心を掌握し、世が治められていた時代もあったが、自由の思想は、何人もこれを適度に利用し得ないから、人民の自治を許しておけばたちまちに放縦になる。この瞬間から内乱が起こり、内乱は社会闘争を誘発して、ついに国家は動乱の巷と化す」
善例より悪例を教えるとはよく言うものだ。要するにこういう事である。人間は理想の政治を求めている。無私で清潔で倫理感に溢れ、理想に燃えた政治家を求めている。だからJ.F.ケネディのような人が出ると熱狂して歓迦するのである。しかし、ケネディが本当に無私清潔で倫理感に溢れた人だったかどうかは多分に疑間である。また、実際ドイツ国民はあのヒットラーを理想の指導者として熱狂して迎えた事もあったのである。歴史上本当に理想の政治家など果たして存在しただろうか。恐らく一人として居ないだろう。
それは本来、人間には無理な注文なのだ。しかし、彼らは自分たちが権力を握るまではこの理想論をかざし、民衆を焚き付けて、無理難題とも言うべき基準を自分たちの指導者に要求させる。こうして秩序を破壊し、自分たちが絶対権力を握った後は、彼等は絶対的な圧政をもってそのような要求をふみにじって行く。彼らははっきりと、自由と言う言葉も抹殺すると言っている。「自由なる標語は、人間社会をしてあらゆる権力と抗争
せしめ、神および自然の威力に対してすらも闘争を仕掛ける。それゆえに、我々ユダヤ人が王位についたならば、我々はこの標語を人類の語彙から抹殺しければならない。なぜならこの標語は大衆をして、血を好む猛獣の如く化さしめるからである」