背教を出発と訳すこじつけ翻訳

 

エルサレムの背教と宮の崩壊

 

 

教会は終末の日に背教すると訳すのが正しいのか?それとも

出発する、携え挙げられると訳すのが正しいのか?

 

聖書の2テサロニケ2:3では以下の様に背教ということばが出てくる。

 

2テサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

この背教ということばに関して実はこの箇所は「出発」と訳すのが正しい、との意見がある。

それは正しいのか?この件を考えてみたい。

 

 

 

<ギリシャ語による旧約聖書である70人訳においてはこの、原語apostasiaは、全て「背教」、「反抗」をさす意味合いで訳されている:出発などとは訳されていない>

 

 

背教と訳されたことばは、英語では、apostasyということばが使われている。ギリシャ語原文では、

apostasia (#646 ποστασα)ということばが使われている。このギリシャ語は、人々が

忠実さや忠誠から変化することに言及することば、たて上げられた権威へ従わないことを

意味することばである。このようにこのことばは背教や、反抗、離反、反逆を意味することばである。

 

紀元前250年頃書かれた70人訳においては、このことばは、反抗や、背教をさす専門用語(technical term )となっている。

この背教(apostasy)ということばは、ギリシャ語による旧約聖書である

70人訳では以下の様に使われている;

 

 

ヨシュア 22:22 「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信(apostasyの罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。

 

2歴代 29:19 また、アハズ王が、その治世に、不信(apostasy)の罪を犯して取り除いたすべての器具を整えて、聖別しました。ご覧ください。それらは主の祭壇の前にあります。」

 

2歴33:19 彼の祈り、その願いが聞き入れられたこと、および、彼がへりくだる前に犯したその罪、その不信(apostasy)の罪、高き所を築き、アシェラ像と刻んだ像を立てた場所については、ホザイの言行録にまさしくしるされている。

 

エレミヤ2:19 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信(apostasy)が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ。――

 

上記、70人訳における(apostasy)ということばの意味合いは、慣用語として

どれも同じ意味合いで訳されており、不信、背信という同じ意味合いとなっている。

このapostasy)ということばがその70人訳が書かれた時代においては、

慣用語として、「不信、背信」という意味合いを持っており、

その結果、上記同じことばが使われている2テサロニケ2:3のapostasy)も

同じ意味合いの「背教」ということばが使われたことがわかる。ここには

なんらの問題もなく、また議論の余地もない。

 

<どの有力なギリシャ語辞書もapostasiaを慣用語として、「背教」、「反抗」の意味合いを伝える:「出発」などとは訳さない>

 

Theological Dictionary of the New Testament; cp. Fribergs Lexicon)を参照いただきたい。ギリシャ語apostasiaの意味合いは背教(apostasy)や反抗(rebellion)であることは

新約聖書の時代においては広範囲に証明されており、それゆえほとんどのギリシャ語j所はこのことばapostasiaの訳語として背教(apostasy)や反抗(rebellion)しか

載せていない。BDAG, Bullinger, EDNT, Friberg, Louw-Nida, Renn, Thayer, UBS, Vineなどの辞書はみなそうなっている。

 

<70人訳ではApostasiaのその同語形および関連語は40回ほど使用され、みな背教、反抗の意味合いで用いられている:出発などとは訳されていない>

 

ギリシャ語Apostasiaとその同語形および関連語は70人訳聖書の中で、40回以上使われている。そして、それらすべては政治的もしくは宗教的離反もしくは反抗をさすものとなっている。このことは、非常に大事な、我々が覚えておくべきポイントであるが、

テサロニケの人々のようにギリシャ語を話す信者にとり、

旧約聖書とは何かといえば、それはヘブル語の聖書ではなく(ギリシャ語)70人訳であるということを知るべきである。それで、彼らがapostasiaというギリシャ語に接するとき、明確に背教(apostasy)や反抗(rebellion)という意味合いを参照している、そしてそれがパウロがテサロニケへ書いた手紙の中で書かれたことばに

関して彼らがこのapostasiaという語に対して期待していた意味合いである、テキストが何か異なることを意味していない限り、そして

この場合はそのようなことはない。

 

<新約聖書の他のApostasiaの使用例も背教、反抗を意味するものとなっている:出発などと訳されていない>

 

そしてテサロニケの信者がパウロが彼らにあてた手紙に用いた

apostasia という語に関して70人訳に用いられていると同じ意味であると期待する他の理由がある、

パウロが彼の手紙の中で旧約聖書を引用するとき、大部分、彼は70人訳から引用しており、ヘブル語の聖書からのものではないということである。このことは神が旧約聖書の中で書かれたことと彼が新約聖書の中で書いこととその一貫性が確立されるということである。

さらにこのapostasiaというギリシャが新約聖書の中で他に使用されている例は以下であるが、ここでもやはり、

反抗や背教という意味合いで使われているということである。

 

使徒21:21 ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむく(apostasy)ように教えているということなのです。

 

さて、このようにこのことばは、背教と訳すのがもっとも妥当なのだが、

しかし、その明白なことばの意味合いに異議を唱える人々がいる。

そのいわんとしていることを聞くとこうである:

 

apostasiaというギリシャ語は、aphistēmi (#868),というギリシャ語名詞からできている。そしてこのことばの意味合いはto depart(出発)である。

であるがゆえにこのことばは、教会の出発すなわち携挙と関係することばではないか、という意見である。さらにapostasiaということばには、theに対応するギリシャ語定冠詞がついている、これはよく知られた出発すなわち、携挙をさすに違いないという意見である。

 

 

apostasiaは背教をさす「慣用語」である>

 

しかし、これは名詞(ここではapostasia )が基本的に動詞(ここではaphistēmi)と同じ意味合いであると主張する誤りである。このような主張をするコメンテーターがいる(Wuest, English)

しかし、考古学者や歴史家により、いくつも

いくつもの多くの一般的なギリシャ語の書類が発掘されるにつれ、ギリシャ語の名詞、動詞、形容詞、副詞はたとえそれが同じ語根から発生したものであってもそれぞれ大変異なる意味を持つことがよくあることがあきらかになってきた。

 

これは特別な件だが、あることばの上にある種の語形変化が起こり結果、特別な意味合いを持つことがある、それは通常、専門家により、「専門用語」と呼ばれるものである。そしてこの変化がまさに名詞apostasia におこり、背教という意味合いになったのである。この件はFriberg が彼の辞書の中で述べていることである。

 

<初期英語版聖書成立時には、まともなギリシャ語辞典が存在してなかった>

 

 

さらにもう一点。

初期の英語版聖書の中には、たとえばTyndale (1526)聖書, Coverdale 聖書(1535), Beza 聖書(1565),  Geneva Bible聖書(1599)

の中では、apostasiaというギリシャ語をdeparture(出発)と訳している。そしてこの事実がこの語は実は携挙をさすのだという意見の人々の根拠になっているということがある。

 

しかし、これらの初期英語翻訳版に関しては、我々が心に留めなければならないことがいくつかある。

一つにはdepartureと訳してあったからといって必ずそれが携挙を意味するとは限らないということである。出発とは、背教や反抗に関わるものであるといえるからである。

 

二つ目には、これらの初期英語版の翻訳はギリシャ語からなったものであるが、そのギリシャ語は考古学者がギリシャ語のパピルスが発見する以前のものであるということである。そのようなわけで、まだ多くのギリシャ単語の

しかるべき意味合いがよく知られていない時代に訳された聖書なのである。(このことが何故、古い英語版聖書が

近代版聖書と比べていくつもの節で異なるのかを説明する理由となる)

 

 

さらに、初期英語版聖書はまだギリシャ語辞書もまたギリシャ語単語研究もほとんど存在していない時代に作られたものであるということがある。

さらにギリシャ語旧約聖書である70人訳の研究は始めるには難しいとうこと、また英語圏でもギリシャ語圏においても一流の

コンコルダンスと呼べるものがその当時には存在しなかったということがある。(それができるまでまだ長い年月が必要だった)

 

コンコルダンスとは、聖書の各単語に関してそれがどの聖書箇所で使用されているか、まとめた語句の索引書。

 

であるがゆえに一部の人が主張している「初期英語版聖書の2テサロニケ2:3節の訳語、departure(出発)は、実は携挙をさすものであり、これは現代には失われた真理である」との主張は単純に真実を反映していない。

 

初期英語聖書翻訳時にはまだギリシャ語パピルスなどの文献も発見されず、まともなギリシャ語辞書もない時代だった(正確なギリシャ語に訳せない)

 

最後にこの箇所を「背教」と訳すのが正しいと語るその根拠はこの箇所のテキストの流れである。

 

2テサロニケは以下の様に背教とその後の反キリストによる、

宮への登場を語る。

 

2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

ここでは、終末の日における出来事がいくつか書かれている。

すなわち、

 

1.      まず、教会の背教が起きる。

2.      不法の人、滅びの子(反キリスト)が登場する

3.      反キリストは、宮、教会の中に座をもうけ、自分は神であると宣言する

 

このことを卑近な例でたとえるなら、このような流れになる:

1 誠実でよく稼ぐ旦那がいたが、奥さんが不実となり、旦那に背き、夫を嫌い、理由をつけて追い出した。

2 結果、よからぬやくざ男が奥さんの周りをうろつく

3 やくざ男が家の中まで入り込む

 

上記稼ぐ旦那はキリスト、不実な奥さんは背教の教会、

やくざ男は反キリストである。

 

このような未来のできごとをこの箇所は語っているのである。

教会のキリストへの離反、背教がまず第一原因として起こり、その

あと、追い出されたキリストの代わりに教会の神として反キリストが

入り込む、という究極の冒涜の日をこの箇所は預言しているのである。

 

そしてこれらの背教やら、反キリストの冒涜の後、

主の日が到来し、その日、再臨したキリストにより、最後まで忠実だったものへの

良い報いと、反キリストを拝んだものへのすさまじい報復が行われる、

と聖書は語るのである。

 

意味もなく原因もなく、終末の日に神の宮である教会の真ん中に

反キリストが王座や神の座をもうけられるわけではなく、その

大前提として教会の離反、背教を語っていることを理解すべきである。

 

あってはならないことだが、神の民の離反や、背教、

背信のゆえに宮が敵の手に渡され、火で焼かれたり、冒涜される

ということは聖書の歴史の中で何度か起きていることである。

 

たとえば、歴代史の終わりに神の民ユダは、その背教のゆえに、

王がバビロンに捕囚され、宮は火で焼かれてしまった。

宮は理由なく焼かれたのでなく、その原因として

神の民の冒涜、背教があったことを聖書はかたる。

 

さらに時代が過ぎ、イエスキリストの初降臨の日も同じである。

ユダヤの民は神のただ一人の子キリストを捕らえ、有罪判決を下し、

十字架の上で死刑にして殺してしまった。この恐るべき、背教、冒涜のゆえ、

神の怒りは炸裂し、西暦70年にエルサレムアはローマに攻撃され、

その都もそして宮も崩壊し火で焼かれてしまった。この

時も神の宮の崩壊は理由なく起きたのでなく、神のたった一人の子を

死刑にするという冒涜のゆえで起きたものである。

 

同じくテサロニケの手紙が預言する終末の日の宮の崩壊、

反キリスト登場も意味なく、理由なく神がそのような破滅の

日を許したのではなくその裏には、教会の背教があるとみことばは

明確に語っているのである。その聖書の箇所を勝手に書きかえ、

出発だの携挙だの勝手な理屈を語るべきではない。

 

参照:この記事は以下のサイトからの情報を引用している。

 

https://www.revisedenglishversion.com/2-Thessalonians/chapter2/3

 

―以上―