ユダヤ人は神の選民では断じてない

危険が無いときに、警報を鳴らすのは馬鹿げている。しかし、今や切迫した危険が世界のキリスト教の
働きと世界それ自身に迫っている。それはイスラェル(とその姻戚関係者と主張する者)の役割への途
方もない誤解が、恵みの時代(または教会時代、新約聖書の時代)と呼ばれる現在、存在しているから
である。旧約聖書の選民と、現在のイスラエルとは同一のものではない。そんな事は分かり切ったこと
なのだ。ところが我々はあらゆる方角から鳴り物入りの宣伝を聞いている。しかし、それは真実ではな
いのである。現在のイスラエルはどんな意味においても神の選民ではないし、これからも決してそうな
ることはないだろう。この考え方の方法として、五つの人々のグループを特定し定義してみよう。
1 旧約聖書のユダヤ人。
2 旧約聖書のイスラエル人。
3 旧約聖書の選民、信仰者、忠実な者、レムナント(残りの者)。
4 現在のイスラエル国民とその親
戚関係者と主張するもの。
5 主イエス・キリストの新約聖書の教会。

間題はこの「特別侍遇」が現在のユダヤ人とイスラエルに関してであり、特にクリスチャンのエプァン
ジェリストあるいはファンダメンタリストがこのような特別侍遇を行っていることは正しくないのだ。
聖書の解釈の特別侍遇、実際の生活での特別侍遇において。この特別侍遇はシオニストの指導者がイス
ラエルからテレビジョンで「アメリカのファンダメンタリストは我々の最高の友人である」と言わしめ
るところにまで到達している。間題を最初のポイントにまで戻してみよう。

救われていないユダヤ人、
あるいは不信仰のイスラエル国民は神から、キリストの救い以外の、特別な恵みを受けているのか。こ
れは使徒パウロの主張とは一致しない。パウロがローマ書九章三節で「実際、私の兄弟、肉による同族
のためなら、私のこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と言ったのは、単純かつ
明白にまだ救われていない同砲は神の目からは「アナテマ」失われ希望のない異邦人と同じだと言って
いるのである。(訳者注*これはキリスト者から見て非常に重要なポイントである。クリスチャンから

て至極当たり前の事、信仰の基本なのだが、この当たり前の事が現在なぜかぽやかされて居るのであ
る)世界中の何千人という聖書の教師と説教者は、我々がまだ救われていないユダヤ人とイスラエルは
神の特別な好意と我々の特別な注目を受けるに値すると教えている。

彼らの内の幾人かはその会衆を連
れて聖地への巡礼の旅に出てイスラエルの政治的指導者に会わせる、そしていかに神がイスラエルを祝
福しておられるか話す。そしてその指導者たちは幾分かはクリスチャン……あるいは、少なくともキリ
ストの信仰にごく近いと言うのである。そして彼らの内の幾人かは国会議事堂かホワイトハウスに行
き、アメリカはイスラエルに良くしてやり彼女が求めるものはなんでも与えよと言うのである。私は神
がご自身の聖職者たちに、インディアンや囚人や兵士や女性兵士や都市の黒人や子供や中国人や……ユ
ダヤ人などの特別な失われた人々に重荷を与えることは理解できる。しかし、正直に言って、最も重要
な宣教活動はユダヤ人に対するものであり、今日のユダヤ人とイスラエルは神の選民なのだから、ユダ
ヤ人に向けて福音を説教するのは福音の働き人の中でエリートであるというという考えにあなたは同意
できないのではないだろうか。

選民: この言葉が今日用いられるとき、聖書の第一級の曲解を構成して
いる。アブラハ
ムからキリストまで旧約聖書の選民は断じて神に対抗し反逆する人々の事ではなかった。神は神に反抗
する民にその特別な好意(恵み)を表すために〃えこひいき〃しなかった。しかし、神の霊はペテロに
教え、ペテロは声高に宜言した。「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行うものはどの国民
でも受け入れて下さることが、ほんとうによくわかってきました」(使徒行伝一○:三四)ペテロはこ
こで救われていないユダヤ人たちは救われていない異邦人よりは良いと考えたのである。しかし、今日
なぜか救われていない一人のユダヤ人は救われていない一人の異邦人よりも優れており、救われた(ま
たは完成された)一人のユダヤ人は救われた一人の異邦人よりも優れていると我々に信じさせようとす
る説教者や教師たちが居るのである。完成された?何から何に?この恵みの時代、そして全ての時代
に、神の目には紋われたユダヤ人が救われた異邦人よりも完成されることなど有り得ない。私は今日教
えられている選民という観念をこの中から見つけ出すことばできない。

(訳注*多くの読者には何のこ
とか分からないだろうが、聖書に立つクリスチャンなら、この人のこの意見は全く正しいということに
同意するだろう。しかしまた、奇妙なことにこの人の指摘している間違いも確かに存在している)
 
 

一体全体どうして、我々がアブラハムの子孫を祝福しなければならないと、騒ぎ続けるのだろうか。
我々クリスチャンはだれかを呪うものだと思われているのではないだろうか。私の全生涯で本当のクリ
スチャンがユダヤ人を呪ったことなど思い出すこともできない。我々は親切で、愛し、全ての失われた
ものに哀れみ深い者ではないのだろうか。どうして神が「そこには区別がない」と言っておられるの
に、我々がクリスチャンの愛を、一つのグループにだけ他のグループよりも示すことができるだろう
か。もし我々が、議会に対してイスラエルにアメリカ人の税金を与え、武装させるように圧力を掛けな
ければ、我々はユダヤ人とイスラエルを呪っているという罪を負っていると言うことになるのだろう
か。

もし我々が反キリスト教、反宣教活動の法律施行を強行しようとする今日のイスラエルヘアメリカ
の援助を与えないでおくぺきだと言う意見を言えば、我々はユダヤ人とイスラエルを呪っている罪を負
っていると言うことになるのだろうか。我々は個人であれ民族であれ国家であれ意識的に活発に全能の
神に反逆し、その御子であられる我らの主でイエス・キリストの花嫁を世界から呼び集めると言うご計
画を妨害する事を求め続ける者に神の祝福を宣言すべきなのだろうか。もちろん我々は神を呪うような
輩を決して祝福すぺきではない。

アブラハムはユダヤ人でもなくイスラェル人でもなかった。彼は〃信仰の人〃であった。彼は神のパー
トナーであった。アブラハムの子孫……(真実の)ユダヤ人やイスラエル人のように……彼の信仰と従
順の模範に従う者は、この呪われた世界の祝福と恵みの水路となるだろう。しかし、神に刃向かい反逆
する者は神の祝福をこの呪われた世界から切り推そうとする者である。前者は確かに神の〃選民〃であ
る。しかし、後者は到底神の選民とはなり得ない(ヘブル人への手紙二章の神の選民の項を読まれた
い)。アブラハムの子孫への祝福の疑問への完全な解答は、ガラテヤ書三章六〜九節に見いだされる。
このように、「アブラハムは神を信じた。
 

それによって彼は義と認められた」のである。だから信仰に
よる者こそアブラハムの子であることを知るぺきである。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされ
ることを、あらかじめ知って、アブラハムに「あなたによって、すぺての国民は祝福されるであろう」
との良い知らせを、予告したのである。このように信仰によるものは、信仰の人アプラハムと共に祝福
を受けるのである」(強調原著者)この御言葉が意味するところは、旧約聖書のイスラエルであれユダ
であれ、その全体でも部分でも、単独にまた何の条件も付けずに神の恵み(特別な愛顧)の対象と導入
部とし て、神の選民であると考えられたことはたえてなかったと言う事である。ただ、信仰によるアブラハム
の子孫だけがすべての時代の神の選民であった。
 

聖霊が聖書の著者、パウロを通して世界に語りたい事
があったとすれば、それは次の事である。ローマ書三章一三節「そこにはなんらの差別もない」そして
再び同一○章一二節には「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」とある。さらにガラテヤ書三章二八
節には「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく……あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだか
らである」とある。バウロが最も力強く語りたかった主題は、信仰による恵みの救いはユダヤ人がこの
世に現れる遥か昔からあったと言う事なのである。ペテロでさえ、多くのエブァンジェリストやファン
ダメンタリストが今日抱えている問題を、告白せざるを得なかった。「そして、人の心をご存じである
神は、聖霊をわれわれに賜ったと同様に彼らにも賜って、彼らに対してあかしをなし、またその信仰に
よって、彼らの心をきよめ、われわれと彼らの間に、何の分けへだてもなさらなかった」(使徒行伝
五:八、九)イザヤは神の祝福の受取人として〃全ての人々〃に対して預言した(イザヤ五六一七、
八)。
 
 

アモスは神の恵みを経験するであろう〃レムナント〃を預言した(アモス五:二五)。彼はこのレムナ
ントにあらゆる民族の異邦人、神を杏定するエドム人さえ含んだ(アモス九:二〜一二)。アモスは不
信仰で反抗的なユダヤ人、イスラエル人、そして〃ヨセフの家〃には希望を与えなかった。イザヤでも
アモスでも(もし注意深く学ぶなら、他の予言者たちも)神に対して霊的に忠実な人々を選民、すなわ
ちすべての国民から購い出されたレムナントと定義している。我らの主イエス・キリストはまずイスラ
エルの家の失われた羊に行くと言われた、しかし、他の羊たちも居るとも言われたのである(マルコ
七:二〜七、ヨハネー○:二六)。イエスは彼を信じたすぺての民族のすべての人々はアブラハムと共
に彼の王国に座るだろうと言われた。
 

しかし、本来ならその様な特権を持っていたユダヤ人やイスラエ
ル人は外に投げ捨てられるだろうと言われたのである(マタイ八章)。それからイエスは旧約聖書の預
言者の伝統に従って、全ての民族の信仰によるレムナントで彼の教会を構成するとはっきりと教え、述
ぺ伝えた。あの大いなるペンテコステの日に使徒たちはあらゆる国々から来た人々(彼らは実は〃ユダ
ヤの人々〃であり〃イスラエルの人々〃であったが)に向かって(彼らの故郷の言
葉で)語った。
 

そして、ペテロはヨエルの預言が成就したのだと彼らに語った。主は預言者ヨエルを通
して、彼が〃わたしの霊を全ての肉なるものに注ぐ〃そして解放(救い)がエルサレムとシオンの丘の
残りのもの(レムナント)に来ると語っている。
ヨエルの預言のこの適用であるペンテコストの出来事によって、聖霊は一度そして全ての者に「世界中
の民族の中から忠実なレムナントを呼び出してイェス・キリストの教会を建て上げることは、われわれ
の最後のステップである」と言っているように見える。そうだ、現代のイスラェルを含む地上のあらゆ
る民族のレムナントはキリストの体なる教会を形作るだろう。もっとも、確かに預言的な聖書の書では
ユダヤ民族とイスラエル民族のレムナントは顕著に現われている。イザヤー○:二三、ローマ九:二〜
七、残りのものは救われるだろう。ローマニ:五、救いの選びに強調を置いたレムナント、そして全て
のイスラユルが救われる。神の世界の民族の救済の天的な計画の中に(使徒行伝一七:二〜六)神が、
レムナントを呼び出すための方法として、不信仰のユダも現代の不信仰なイスラエル国家を設立する事
を許されていた。
 
 

そのレムナントが救い出された時、地上の全ての民族からレムナントが一緒に神の選びの民を構成する
だろう。それと同じく、地上の不信仰の民が裁かれるとき、イスラエルの不信仰者も一緒に裁かれるだ
ろう。私はこの点を何度も繰り返して言いたいのだが、現代のイスラエルを神の選民と全く同一とする
ことは出来ないのである。ほとんどの聖書を信じる者たちは一九四八年のイスラエル建国を、我々が時
代の終末に近付いているしるしであり、神がユダヤ人とイスラエルを祝福しているだろうと認める(し
かし、患難期前携挙説を矛盾なく適用する人は教会の携挙に先立つどんなしるしも杏定する)。確かに
この出来事は時のしるしではあるけれども、それが神の祝福の証拠とはならない。民族は神の摂理と計
画の中に起こりまた没落する。旧約聖書の中で、神はしばしば不信仰の民族と指導者を用いて、神の民
をして彼らが学ぶぺき教育を受けさせる。
 

この恵みの時代に神はアメリカ合衆国のように不完全な国家
を用いて世界に彼の目的を完遂させる。この終末の時代に、イスラエル国家の設立は、神の祝福のしる
しと言うよりも、むしろ
闇と不吉のしるしと解釈されるべきであろう。他にもこれらの観点からの霊的な出来事が、さらにもっ
と多くあるのである。神の選民と現代のイスラエルを論じるのには、黙示録七章の一四万四○○○人を
考慮しなくては完成しない。あるおかしな間違いが造られ一般化された。それは、大患難時代(訳注*
キリストの再臨の前に七年間の大きな患難時代というものがあると言うもの)の前半に一四万四○○○
人のユダヤ人が救われ、世界を回ってすべての創造された者に福音を伝えるというものである。これは
恐らくマタイニ四:二四のキリストの預言の成就と考えられたのであろう。そしてそれは一九○○年間
に渡る教会の福音伝道が失敗したと申し立てているのである。
 

この聖書の解釈を抱きしめる信者はだれ
でも、彼が出会ったユダヤ人がもしかすると自分たちが携挙(訳注*キリストの再臨によって生きなが
らに天に移されるというもの)された後、ただちに救われてこの偉大な事業を果たす一四万四○○○人
の一人となるかもしれないという畏怖の念を持つことになるのではあるまいか。このような特別な神の
恵みの対象となった未来を持つ人々には、たとえ彼等が今は、聖からざる事を追及していたとしても、
特別な取扱をしなければならないとか確信する事に
なるのは簡単な事であろう。
 

この神学には二つの主要な難点がある(強調著者)。第一は聖書にはこれ
らの一四万四○○○人が福音を伝えるだろうという言葉は一つもない。ただ〃印される〃または救われ
るとある、それだけである。彼らは確かに彼らの能うかぎりキリストの証人となるであろう。しかし、
反キリストが厳しい支配をしている世界を回ってキリストを伝えるなどということが有り得ようか。断
じて有り得ない。第二に一四万四○○○人に印を付けるのは大患難時代の最後のことであって、始めで
はない。ということは彼らの一人だって一○○年間もキリストの証人として放をすることなど不可能と
言うものだ。この出来事は黙示録の第六の封印が開かれ、地の大いなる人々が「さあ、われわれをおお
って御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日がすでにきた
のだ。だれが、その前に立つことができようか」黙示録六章 と叫ぶ直後に起こることである。次いで
ヨハネに示されたものは御座の周りの長老たちであった。彼らの一人がヨハネに聞いた、「この白い衣
を身にまとっている人々は、だれか。またどこからきたのか。」黙示録七:二三。
 

答えは、彼らは大き
な難難を通ってきた人々であるということである。すなわち印されたユダヤ人である一四万四○○○人
は速やかに殺害されるということが強く指
し示されている。そして、神への反抗とキリストの聖徒たちへの迫害の恐ろしい時代の間に巨大なクリ
スチャン殉教者の大軍がキリストの臨在の前にやってくる。これらの一四万四○○○人はローマ書九:
二〜七のレムナントに非常に似ている。二:二六に「全てのイスラエルは救われるだろう」とある所で
ある。親愛なる読者の皆さん、あなたは地上の全ての民族から呼び出された神の選民の一人だろうか、
レムナントの一人だろうか。

あなたは救われているだろうか。神の子、主イェス・キリストを信じる信
仰によってあなたも神の子とされているだろうか。イエスは今日あなたを招いておられる。「よくよく
あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて私をつかわされたかたを信じるものは、永遠の命を受
け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」ヨハネ五:二〜四この恵みの時代
に、レムナントを呼び出し、キリストの花嫁を選ぶのは王である神の仕事なのである』

この文章の中に出てくるレムナントと言う言葉は日本人には余り馴染みのない言葉である。それで少し
説明を加えよう。レムナントと言う単語は日本語の聖書には出て来ない。というのはレムナントと言う

  別な固有名詞があるわけではなく、単に「残りの者」とか「後の者」、「余った」「残余」「逃れた」
という意味の言葉だからである。しかし、欧米では、このレムナントは特別なあこがれを持って使われ
ている。それは、いつの頃からか「神から特別に愛されたグループ」という意味に用いられるようにな
ったからである。中でもユダヤ人の仲にそういう特別なグループがいると考えられるようになった。そ
の典型的な例が黙示録7章の14万4000人である。しかし、この14万4000人とレムナントと
いう言葉は同一ではない。

さらに聖書はこのレムナントと言う言葉を特別な祝福のクループと言う意味
には使っていない。だから、これは言わばキリスト教の迷信のようなものなのだが、ただ神に特別に愛
される物になりたいという思いは悪いものではなく、教会の会衆を励ますために使われるように思う。
尚、英語のレムナントにあたるヘブル語の一つはアチャレである、アーチャリーは恐らくこの言葉の派
生語であろう。さらに我々は現代のイスラエルとアメリカの関係を憂慮する正真のキリスト者の警告を
見ることにしよう。