さて、こんな話は大方の読者にとって、面白くもなんともない事かもしれない。また、わざわざ自分た
ち身内の恥をさらすような事をなぜしているのだと言われるかもしれない。しかし、私は彼らが身内だ
とは思っていない。彼らは教会破壊のためにイルミナティが派遣した優秀なエイジェントである。それ
なのに教会は、彼らの催眠術とオカルトとカイロプラクティックに挑惚と酔い痴れている。彼らの癒し
などプラシーポ(*注参照)と変わらないのだ。全く教会を騙すのは赤子の手をねじるより簡単であ
る。そして情けないことに私の事をむしろ怪しみ、うとんじ、馬鹿にし、退けるのである。ああ、いつ
になったら 目覚めるのか。それともそのまま怪しい霊の国へ旅立つつもりなのか。(注*プラシーボ:何の効果も ない薬を効果があると言って飲ませると本当に直る事がある。それをプラシーボ効果と呼ぶ)

さらに、最近、非常に分かりにくい状況が現れてきた。カナダのトロントで前述のように泣き叫び、倒
れる〃リバイバル〃が起きた。ここでは確かにキリストの御名があがめられ、病の癒しが起こった。そ
して、この流れの指導者は、自分たちがジョナサン・エドワーズに習うもの、そのリパイバルを継承す
るものだと言っている。ところがこのジョナサン・エドワーズはれっきとしたフリーメーンンである。
キリストは終りの時に「にせキリストたちや、にせ預言著たちが起こって、大いなるしるしと奇跡を行
い、できれば選民をも惑わそうとするであろう」(マタイニ四:二〜四)と言われたが私は〃できれば
〃と言う言業から実際には騙されないのかと考えてきた。しかし、これは本当に多くの者が騙されるの
だと思うようになった。ああ、教会よクリスチャンよ今、必要なのは「はとのように素直」なことだけ
ではない。「へびのように聡く」なければいけないのだ。

それは昨年の事だった。ある筋から『ポンテオ・ピラトの報告書』なるものを手に入れた。これはキリ
スト教系の出版社から出ているものだった。それはイェス・キリストを処刑することに同意した時のロ
ーマのパレスチナ総督ポンテオ・ピラトが書いたと称するイエス・キリストに関する非常にリアリティ
ーに満ちた文書であった。私はすっかりはまってしまって、皆に紹介した。しかし、読み返すうちに、
おかしな事に気付いた。それはイエスは金髪で白人だったというのである。また、あまりにもピラトが
イエスに好意的で公文書にはありそうもない感情移入が激しいことだった。イエスが金髪白人だという
説はイエスがマリヤの不義の子でローマ兵士の子であったという俗説を基としている。さらに、聖書は
イザヤ書五三章で「見るべき姿もなく威厳もなく慕うべき美しさもない」と予言しているようにメシヤ
が来たとき、決して目立つ人ではないと書いている。

しかし、その文書ではイエスはどこにいても人目 を引き全く普通のユダヤ人とは違っていたと書いている。もし、イエスがそんなに目立つ人だったら、 ユダはどうしてイエスを捕らえに来たものたちにあらかじめ合図して「わたしが接吻する者が、その人 だ」と言わなければならなかったのか。この文書は実に良く出来ていて、キリストを敬う者の様に書い ているが、実は 偽書だということが分かったのである。実に恥ずかしい思いをした。
 

ここでついでに〃キリストはュダ
ヤ人か〃どうかと言う論争に関する、私の見解を述ベておこう。「イエスはユダヤ人か否か」という問
題は、自らをキリスト者とする者にとってはナンセンスと言う他はない。聖書ははっきりと「イエスは
乙女マリヤより生まれた」としている。いわゆる処女降誕を信じなければイエスはマリヤの不義密通の
子以外ではない。処女降誕を科学以前と考える人間こそ科学以前である。なぜなら今や人間ですら雄雌
の関係なしで子を設けることができるのだから。昔の人間に聞かせたらクローン技術は処女降誕以上に
非科学的であろう。聖書は神が世界を創造したと書いている。その神が人間以下の能力しかないという
のか。聖書にあるイエスの伝記はマタイによるものが父親ヨセフの家系であり、ルカのものが母親マリ
ヤの家系である。しかし、このいずれもイェスの法的血統を表しているのであって生物学的な血統とは
してはいない。

ルカによる福音書でルカがわざわざ「人々の考えによればヨセフの子であって」(二:
二三)と書いているようにルカ自身イエスを本当にユダヤの血統とは考えていない。
  イエスが生物学的にユダヤ人だと主張するのは、彼の処女降誕と神であることを否定するのである。も
し、彼がヨセフであれ他の誰かであれ、人間の血を受け継いでいるなら、アダムの罪を受け継いでいる
から決してメシヤとはなれない。罪あるものは罪の身代わりとはなれないというのがローマ書五章、ヘ
ブル人への手紙七章などの主張である。罪あるものは自分の罪さえ贖えないのである。しかし、イエス
は第二のアダムとして新しい人類の祖先となられた。だから、決して血統的にユダヤ人ではない。しか
し、イエス自身は自分をユダヤ人としている。しばしば彼はユダヤ人に優先される神の選民意識を表現
している(マタイ九:五〜六、一五:二〜二八など)。
 

またピラトの質問に答えて自分を「ユダヤ人の
王」としている。これはメシヤすなわちキリストとしての当然の答えであった。メシヤは法的にはユダ
ヤ人から生まれてくるからである。しかし、申し訳ないが、私はこれらの論争を聞いていておかしくて
仕方がない。本質的にキリスト教とは全くこのような議論とは噛み合わない性質のものなのである。イ
エス自身の言葉でさえ、もしその全てを受け入れようと思ったら、誠実な研究者なら頭がおかしくなる
だろう。キリスト教というものはこの世で言うなら非常に不条理なものなのである。それは「つまずき
の石」なのである。キリスト教とは初めからつまずくように設計された
宗教なのである。これについて知りたければパスカルの「バンセ」を読まれることをお勧めする。彼は
そこで神はご自分を隠して居られる神であると言い、否定するには多くの証拠と、肯定するには不十分
な証拠とを置いておられると書いている。それは人間のさかしらな知恵を拒否し、徹底的にへりくだっ
た者にのみ現れる神について書いているのである。
 

要するに、キリストや神について知りたければ、今
までの概念、思想、先入観の全てを棚上げして、それこそ原子の組み替えを行うような気持ちで、虚心
担懐に聖書に向かわなければならない。ヨハネはこの事をユダヤ人の指導者で有能かつ明蜥な頭脳の持
ち主であったニコデモという人物とのイエスの会話の中で書き残している。曰く「よくよくあなたに言
っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」これに対してニコデモはあ
わて惑って、およそ、その道の専門家らしからぬ愚問を呈している。「人は年を取ってから生まれるこ
とがどうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」これに対して
イェスは肉と霊の違いを語っている。我々の生まれながらの知恵知識では超自然の神の事全般は理解で
きないのだと。キリストがユダヤ人かどうかという議論は、卵が生かゆでてあるかという議論に似てい
る。問題は何の卵かである。それが判らなければ煮ても焼いても食えない。さて、時はいよいよ迫って
いる。これからどうなるのか、という疑間はすべての人の問うところであろう。この質問に答えるのに
黙示録ほどふさわしい物もないであろう。