目    次

1章 カトリックとプロテスタント
   カトリックとは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
      プロテスタントとは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  2
2章 聖書観
   聖書の著者問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9
   霊感の範囲・程度・内容についての問題・・・・・・・・・・・・・・・・10
       プロテスタント諸教会の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
    ロ−マ・カトリック教会の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
   外典問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
   プロテスタントの正典と外典に対する理解・・・・・・・・・・・・・・・15
   外典が正典から除外された理由・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
        旧約聖書の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
    新約聖書の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
   ロ−マ・カトリック教会における正典と外典に対する理解・・・・・・・・18
   聖書(正典)と伝承問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
   聖書解釈の問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
3章 人間の堕落と神の救いの計画
   人間の堕落と罪について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
   救いと神の救いの計画問題について・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
4章 聖徒の交わり
   聖人について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
   最高聖人としてのマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
   マリヤの歴史的起源・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
   マリヤの神学的起源・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
    救済史の線上でみるマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
    エバとしてのマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
    無罪性としてのマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
    マリヤの昇天問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
    昇天後のマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
    教会の型としてのマリヤ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
   福音主義教会にとっての聖徒の交わり・・・・・・・・・・・・・・・・・54
5章 死後の世界について
   審判について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
    私審判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
    練 獄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
    公審判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
   終末の語義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
    人間の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
    死の中間状態と練獄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
     旧約聖書における死後の世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
     新約聖書における死後の世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
   再臨とさばき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
    キリストの再臨の約束・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
    再臨のしるし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・65
    再臨のありさま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66
6章 教会と礼典
   教会の土台・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
   礼典について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
   7つの礼典(秘跡)−ロ−マ・カトリック教会−・・・・・・・・・・・・75
     洗礼について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75
    堅信について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
    聖体について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
    告解について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
    病者の塗油について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87
    叙階について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91
    婚姻について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93
7章 他宗教との関係
   キリスト教以外の諸宗教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97
   イスラム教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
   ユダヤ教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
   
  

1章 カトリックとプロテスタント

 私たちが伝道活動している時、少なくとも一回は質問されすることがあります。それは、「カトリックとプロテスタントはどこがどのように違うのか」ということです。一般社会の認識は、カトリックもプロテスタントも同じであり、喧嘩でもして分裂している程度の理解です。また、プロテスタント教会といっても多数の団体があり、よくわからないという声です。プロテスタント諸教会において、この多数の教団教派についてどう理解し受け止めるかは一様ではありません。
 しかし、一般的にはカトリック教会についての認識が以外と稀薄なのです。カトリックといえば、「ローマ法皇」「マリヤ問題」等の認識しかないのが現実です。神学校において、カトリック神学についてカリキュラム化しているということを聞いたことがありません。従って、牧師、伝道者自身もその明確な違いを把握しているとは言えないのが現状です。この違いについて牧師、伝道者が的確な説明ができないのですから、一信徒ができるはずがありません。この問題を明確にすることによって、一つの混乱から解放されることになります。このカトリック教会とプロテスタント教会を比較しながら簡単に説明していきたいと考えています。
 この問題を説明していくにあたって、誤解をさけるために私自身の神学的・信仰的立場を表明する必要があります。私の立場は、ウエスレアン・アルミニウス主義であり基本的にはホーリネス信仰です。

1.カトリックとは何か。

 私たちのカトリックに対するイメージは、ローマ法皇、マリヤ崇拝そして、きらびやかな会堂です。カトリックとは、ギリシャ語の「カタ・ホロス」の語源からきています。そして、その意味は、「一般的」「全体的」「普遍的」ということです。また、一般的にはカトリックを「公同性」とも理解しています。この辺の理解はプロテスタントも同じなのです。しかし、カトリック側は、「真に歴史的あるはい伝統的なキリスト教はカトリック教会以外にはない」と主張します。
 その理由として、宗教改革者マルチン・ルタ−は、カトリック教会の司祭であり修道士であった。従って、プロテスタント教会はカトリック教会の線上の上に成り立っているから、というのです。確かに、カトリックは母なる教会(マザ−・チャ−チ)です。その意味では、この指摘は正統性があります。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみると、カトリック教会とローマ・カトリック教会は同じなのかという問いが生まれてきます。一体同じなのでしょうか。違うのでしょうか。この問題を整理しなければなりません。問題整理のために教会史に少々、しかも大ざっぱにふれてみます。
 ロ−マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会の共通点は、教会の誕生である、使徒行伝2章におけるペンテコステ(聖霊降臨)の出来事にその根拠をおきます。スタ−ト・ラインは同じということです。ペンテコステの出来事は、単に教会の誕生というだけではなく、教会形成(会堂の建設ではない)の初まりということもいえます。
 主イエスの弟子たちは、十字架上のイエスを見て逃げ出しました。そして、弟子たちは人々を恐れて隠れてしまったのです。そこに、復活の主イエスがそのお姿を現しました。その時、復活の主イエスは「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と言われました。その後、主イエスは40日間地上に留まり、自分が生きていることを数々の確かな証拠によって示しました。そして、弟子たちの見ている前で栄光のお姿に変貌され昇天したのです。この出来事があってから、「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)のです。こうして、10日後、三位一体の神の第3位格である聖霊が降臨し教会が誕生したわけです。こうして、聖霊が著しい地位を得、神の主権によって教会形成が開始された、という意味において共通の理解にたっています。このようにして、誕生した教会を、母なる教会と呼んだり原始教会と理解します。また、初代教会とも呼びます。
 この母なる教会、原始教会の母体は主イエスを裏切り逃げてしまった弟子たちです。このようにだらしない弟子たちが、聖霊の充満を経験することによって力強く外に出て行って福音宣教を開始しました。この福音宣教を使徒的福音ともいいます。弟子たちの福音宣教によって、教会は急成長していったのです。使徒の働き2:41には「そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが3千人ほどであった」あるいは、4:4には「その男の数が5千人ほどであった」と記述されています。ユダヤ人たちは、女、子どもは数にいれませんでしたので、実質は二倍、三倍の数が救われ仲間に加わったことはいうまでもないことでしょう。こうして、教会が成長していきました。
 そして、彼らは使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをし、共にパンをさき、祈りをするようになったのです。また、互いにいっさいの物を共有し、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなに分け与えて支え合っていたのです。このように、互いに仕え合い神を賛美したのです。このようにして、教会形成が始まっていきました。
 これが、原始キリスト教会であり初代教会の姿です。この事については、両者とも、一致する理解なのです。ですから、同一なる線上の上に教会を理解しているということができます。
 このように成長を続けて行くプロセスの中で、当然ながらユダヤ人側からの多くの反対者が生じてきました。それは、教会が律法の権威者、解釈者であり祭司である彼らの立場を脅かしてしまう存在となるまでに成長してしまったからです。つまり、宗教的指導者たちが自分の立場、権威の失墜を恐れるようになったのです。これらについては、政治的な課題として取り上げられるほどの問題になっていきました。それほど、社会的影響が大きかったのです。そして、キリスト教会に対する迫害が起こりました。
 少なくとも、ペテロやヨハネは政治的組織であるサンヒドリン(衆議所)の前に二回、呼び出され福音を語ることを禁止されました。しかし、ペテロとヨハネはこの要求を拒否しました。こうして、迫害は政治的レベルで進行して行くようになります。そして、キリスト教会史上、最初の殉教者はステパノとなってしまったのです(使徒6章−7章を参照)。反面、使徒たちは迫害をはねつけるかのように、諸外国に出ていって福音宣教を開始しました。その結果、諸教会が誕生することになったのです。特に、パウロは小アジア、ギリシャ諸国からロ−マに渡りスペインまでも伝道旅行し諸教会を生み出していったのです。福音宣教の進展によっては、ますます迫害が激しくなっていきました。有名な出来事としては、64年のネロ皇帝の時に起こったロ−マの大火災事件です。ネロ皇帝は、この責任をクリスチャンが放火したということにしたのです。このことによって、一般の人々はクリスチャンへの怒りを燃えたたせました。そして、迫害が起こりました。しかし、不思議なことに迫害下にあって、教会はますます成長していったのです。
 こうして、ロ−マ帝国による教会への迫害は約250年間続きます。このような中で、当時のロ−マ皇帝コンスタンティヌス帝が313年にミラノの寛容令を発令し迫害は終焉を迎えました。こうして、キリスト教会が国教となったのです。そして、ロ−マ帝国が敵対視していたキリスト教会が帝国の保護の中に入ったのです。このようにカトリック教会は、ロ−マ・カトリック教会への道を進んでいったのです。その道の行きついた所がロ−マ・カトリック教会なのです。
 現在のロ−マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会における共通の母なる教会は「カトリック教会」ということがいえます。私は、カトリック教会を「古カトリック教会」と理解し国教となったカトリック教会をロ−マ・カトリック教会と呼びます。ですから、この二つについては、明確な区別をしています。
 この古カトリック教会は、実に使徒的教会です。この使徒的教会で語られた使徒的福音は、どのような内容をもっていたのでしょうか。ストット師は、ロ−ザンヌ会議の講演において使徒たちの宣教にふれ、その中心的なメッセ−ジを五つの項目に分類しています。この内容を宇田進師が紹介していますので要約します。
 第一は、福音の事実です。まず、エルサレムにおいて否定することのできない救いのための出来事が起こったということです(ルカ1:1、24:14、18)。具体的には、ナザレのイエスが十字架で死に、三日目によみがえったという歴史的事実です。パウロは、Tコリント15:3−5において、この歴史的事実を私も受けまた、復活のイエスが現れたとはっきりと証言しています。使徒たちが伝えた福音は歴史的事実を伝えたということです。
 第二は、福音に対する証言です。パウロは、福音の中心的な事実を述べる時、「聖書の示すとおりに」(Tコリント15:3)、「聖書に従って」(同4節)と繰り返すことによって、彼の宣教は一貫して旧約聖書に基づいていることを強調しています。また、初代の使徒たちはメシヤ予言の成就とみていました(使徒2:25以下)。もう一つの証言は、出来事を実際に目撃した者たちのあかしです(ルカ24:48、使徒5:32)。使徒たちは、旧約予言の成就者イエスの歴史的事実の目撃の証言者として語ったということです。
 第三は、福音に関する確信に満ちた主張です。使徒たちは、聖霊によってイエスが主であり(Tコリント13:3、使徒10:36、ピリピ2:9−11)、救い主である(ロ−マ10:9)ことを大胆に天下に告白しました。使徒たちは、イエスは過去の存在ではなく今も生き、主権者としておられる現実であることを信じていたのです。
 第四は、福音の約束です。ペテロは、イエスのもとに来る者はたとえ誰であっても罪の赦しと聖霊による新しい生命が与えられると宣言したのです(使徒2:38)。まさに、福音の中心的恵みは罪の赦しであることを語ったのです。また、内住する聖霊は、常に新しい生命を現在の恵みとして与えられるのです。
 第五は、使徒たちは、悔改め(使徒3:19、17:30)と、イエスを救い主と信じる信仰(使徒10:43)と、バプテスマ(使徒2:38)を強調したのです。
 パウロは、この福音こそ「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力である」(ロ−マ1:16)と宣言しています。
 この使徒的福音こそ真に正統的な福音であることを明らかにしたのです。1)この使徒的福音を継承する線上こそが、正統的教会であり正統的信仰であるということなのです。しかし、ロ−マ・カトリック教会は、この使徒的福音を継承していると主張します。
 本当に、ロ−マ・カトリック教会が使徒的福音を継承しているということが出来るのでしょうか。ロ−マ皇帝コンスタンティヌス帝が313年にミラノの寛容令によって、カトリック教会を国教と承認したところから、ロ−マ・カトリック教会と変貌していくのです。この時から、宗教改革が起こる間に腐敗の歴史をたどっていきます。例えば、カトリック教会は普遍的な教会である根拠を次のように主張します。それは、教会は国家の主権に対して管轄権があると主張したのです。その結果、当然ながら問題も起こりました。しかし、こうして国家と教会が融合し教会が政治の世界に介入していくのです。そして、ロ−マ・カトリック教会となるのです。オランダのカトリックの神学者J・ヴァン・ブラッセルは、「教会は、世界的国家と結合したのである」2)と指摘しています。この世界的国家というのは、ロ−マ帝国のことです。つまり、カトリック教会と国家が結合しロ−マ・カトリック教会となったと認めている神学者が内部に存在するということです。
 ですから、カトリック教会とロ−マ・カトリック教会は違うということです。そこで私は、カトリック教会とロ−マ・カトリック教会を使い分けます。母なる教会は(古)カトリック教会ですが、ロ−マ・カトリック教会は母なる教会ではありません。ロ−マ・カトリック教会は、ほとんど使徒的福音を継承していないのです(この問題はあとで述べることにします)。つまり、現在のロ−マ・カトリック教会は、カトリック教会の線上にあるもなのです。 

2.プロテスタントとは何か

 プロテスタントといえば、宗教改革者マルチン・ルタ−という公式が浮かんできます。この宗教改革について、一般的にはやはり「宗教改革者」という称号で理解されています。実際はどうなのでしょうか。
 ルタ−は、1483年、ドイツのアイスレーベンで生まれ、厳しい父親のもとで高い教育を受け成長していったのです。ルターは、エルフルト大学で文学士、文学修士の学位を取得しました。特に1505年、文学士修得後、文学修士課程入学までの期間、この年の6月の末、ルターは休日をマンスフェルトにいる家族と一緒にすごしました。そして、7月2日にエルフルト大学文学修士課程入学のため帰途することになりその途中、シュトッテルンハイム付近で雷雨におそわれ稲妻に衝撃を受けたのです。この恐怖の中で、「聖アンナよ。助けてくれ、私は修道僧になります」と死の恐怖から叫びました。この経験から、ルタ−は1505年7月17日エルフルトの町のアウグスティヌス派修道院に入会します。
 ルターの修道生活が評価されたのでしょう。修道院生活が始まり、二年後の1507年にはそこで、司祭として叙階され地位が与えられ安定した生活が始まったのです。そして、彼はミサを司るようになりました。彼は、カトリック教会内ではエリートであったということができます。
 彼は、1510年から1511年の冬の間、アウグスティヌス派修道院の公務でローマに派遣されました。そこで彼が見たものは、ローマ教会の腐敗と贅沢の実体でした。この体験が、宗教改革ではなくローマ・カトリック教会の改革の必要性を考えるようになったのです。
 なにせルターは、カトリック教会に忠実でしかもまじめな修道僧でした。彼は、その中で「どうしたら神様に喜ばれ、義と聖を自分のものにできるか」ということを真剣に悩んでいたのです。自分が義と聖を経験するために、禁欲生活をし修行も怠りませんでした。また、思索をし読書にも熱心に取り組みました。この修道院における彼の生活は、きわめて厳しいものでルターの告白によれば「祈祷、断食、徹夜、耐寒」などによって、拷問の苦しみを受けたというのです。このような生活を耐えたルターは、自分自身について次のように評価しています。彼は、「私は真に敬虔な修道僧であったし、厳格に僧団の規律を守った。だから、もし、修道僧が修道によって天国にはいれることができるものなら、私は入れたと思う。そのことは、私の知っている修道僧たちすべてが証言してくれるだろう」と・・・。実にまじめでしかも、模範的な修道僧として生活していたことがわかります。しかし、彼はついに根を上げてしまいました。救いを勝ち取ることができなかったのです。
 その後、ルターがはあの有名な「塔の経験」というキリスト経験に至ります。それは、律法を守り修行をすることによって救われるのではなく、「信仰によって義とされる」という回心と確信にいたるのです。ルタ−は、この時の経験について、「わたしは全く新しく生まれ、開かれた扉からパラダイスにはいったことを感じた」と証しています。
 この塔の経験の時期については、1512年以降であろうといわれ学者によって見解がわかれます。なぜなら、ルターが神学博士の学位を授与されたのは1512年10月19日です。ルターはこのとき、「われわれは光を再び獲得した。しかし、私が博士になったとき、私はそれをしらなかった」と語っているからです。これは、塔の経験以前のことを指していっています。その後、ルタ−は1517年10月31日、ヴェッテンベルグ城会の扉に「九十五箇条宣言文」を張りロ−マ・カトリック教会に抗議をしたのです。この宗教改革の後、ルタ−は宗教改革三大論文と呼ばれる文章を1520年に発表します。その論文とは以下のものです。

@ドイツ貴族にあてる書・・・真の権威は聖書であることを述べています。
A教会のバビロン補囚について・・・万人祭司の原則を述べています。
Bキリスト者の自由・・・信仰によってのみ義とされることを述べています。

 この三つの論文は、宗教改革、厳密にいうならばロ−マ・カトリック教会改革の骨子なのです。また、ルタ−にとって改革の根拠となるべき内容でもあったのです。しかし、この論文によってロ−マ・カトリック教会から追放される結果となりました。決して、ルタ−はロ−マ・カトリック教会に対してプロテスト(反抗)したのではなく、本来のカトリック教会に戻そうとしただけだったのです。実際、彼は追放されるまで、ロ−マ・カトリック教会に留まり続けました。
 しかし、この宗教改革に賛同した人文主義学者のメランヒトンたちが、この運動を拡大していきました。また、ロ−マ・カトリック教会に不満をもっていた人々が極端な方向へ改革運動を進めていきました。特に、カ−ルシュタットという人物を中心とする急進主義者による宗教改革運動。宗教改革の名を借りた騎士戦争(1522−1523年)といわれる南ドイツの貧乏騎士たちの反乱。一種の政治運動であった騎士戦争が鎮圧されると、農民たちが武器を持って立ち上がる農民戦争(1523−1525年)が起こったのです。しかし、この戦争もやがて鎮圧されました。
 こうして、時代が進むにつれてロ−マ・カトリック教会に対する不満から起こったグル−プとそうでないグル−プが明確にされていきました。不満から起こったグル−プは、急進主義者たち、騎士たち、農民たち、ヒュ−マニストたち、アナ・バプテストの敬虔主義者たちです。この人々は、この運動から去っていきました。彼らは、動機が不純で不平不満からそれぞれの運動を起こしたのですから、当然の結果です。
 もう一つのグル−プがあります。宗教改革から第一回シュパイエル国会(1526年)までは、この混乱の中にも順調な部分がありました。この国会の中で、信仰の自由を容認した決議を採択したのです。こうして特に、ドイツの北部においてはルタ−主義を受け入れる諸侯の人々がほとんどでした。しかし、第二回シュパイエル国会(1529年)において、信仰の自由は取り消されることになってしまいました。この決議に対して、ルタ−主義を受け入れた諸侯の人々によって抗議文を発表しました。この抗議する姿に感動したドイツの民衆が、ルタ−主義を受け入れた人々のことをプロテスタントと呼ぶようになったのです。
 このように、宗教改革の火種はロ−マ・カトリック教会にありました。この火種に火をつけたのは、マルチン・ルタ−です。本来、この火を大きくしたのは、ルタ−の周辺の人々であったということができます。しかし、ルタ−の宗教改革を一言で表現するならば、「罪をどのように取り扱うか、という救いのあり方の問題」ということになります。
 さて、カトリック教会とロ−マ・カトリック教会とプロテスタント教会を線で現して見ると次のようになります。見て、わかるように、ロ−マ・カトリック教会とプロテスタント教会の歴史観が基本的に違うということになります。
 
         1図(今まで説明してきた内容)
 
                          ロ-マ・カトリック教会     宗教改革  
                              ↓        1517年            プロテスタント
                           313年
         (古)カトリック教会(初代教会・原始教会・使徒的教会)    
 
 
         2図(ロ−マ・カトリック教会の内容)
 
                                      プロテスタント
                           1517年
         (古)カトリック教会=ロ-マ・カトリック教会
 

マルチン・ルタ−に対する評価

 宗教改革について、プロテスタントの立場にたって述べてきました。しかし、この宗教改革について特に、マルチン・ルタ−に対してロ−マ・カトリック教会はどのような評価をしているかを理解するかは対話に大きな助けとなります。というのは、この宗教改革が正統なものであるか、ないかという一つの基準となるからです。本当は、別の章で述べるべき内容ですが、専門的になりすぎてもいけないので簡単に紹介します。

 一般的には、ルタ−の宗教改革は当時のロ−マ・カトリック教会が堕落、腐敗していたことから始まったと理解されています。しかし、これらの一連の事件と歴史的事実はルタ−の宗教改革の決起の時を与えたにすぎないといいます。そして、ルタ−の性格についてはロ−マ・カトリック教会側は次のように説明をしていますので要約します。
 ルタ−は、現実的であるとともに詩的な反面があり、強く、たくましく、衝動的で決断力に富んでいると同時に、憂鬱であり、感情的であり、病的に鋭敏であった。激しい狂暴性があるかと思うと、親切な優しさ、犠牲の精神もあった。また、ルタ−には子供らしい虚栄心、強い高慢心の持ち主であった。彼には、静かな落ち着きがなかった。彼の知恵は哲学的な純粋な理性の光ではなく、艱難を切り抜けたり、相手の短所を指摘することに優れていた。このように分析してます。まるで、ルタ−は精神病であったかのごとく扱っています。
 ルタ−の修道院生活特に、心霊生活には生来の性格的な問題が二つあったとしています。その一つは、ルタ−が信仰に求めたものは感情的な慰籍であった。その二は、神の恩寵よりもむしろ、自力にたよりすぎたことであった。このように指摘します。そして、ルタ−自身が経験した「塔の経験」については「感覚の夜」といわれる時期に起こったことであると説明します。この「感覚の夜」というのは、「浄めの道」ともいわれます。被造物および慰籍への執着が強ければ強いほど、夜は暗く、苦悩は激しいとし、ルタ−はこの時期に入ったものであるとします。この時期に入った者は、ルタ−でなくても自力を過信するようになると理解しています。そして、ルタ−の場合は、狂気のような大活動を始め、精神的に倒れ、神の恩寵に対して絶望し、誤ったあきらめをした。
 また、もう一つのルタ−に対する評価があります。ルタ−が宗教改革後、結婚に関する説教の中で「禁欲生活に必要なものを私はもっていない」、「私は男子であることをやめない限り、妻なしには生きるということは、私にはできないことである」と語ったというのです。ですから、ルタ−は「肉欲にために宗教改革と称して修道院を出たのである」と主張するのです。あくまで、自分たちの非をみとめません。
 そして、ルタ−が教訓を想起し、おびただしい聖者らの模範に添って、祈祷と生得の道をいそしんでくれたならば、プロテスタント宗教改革の不祥事は起こらなかったとしています。
 ロ−マ・カトリック教会は、マルチン・ルタ−について精神病か、性格異常者あるいは信仰の逸脱した者であり失格者として理解しているということです。また、ルタ−の改革は、ルタ−派の設立のためであったかのごとく理解しいることです。
 ですから、ロ−マ・カトリック教会から観れば、プロテスタント諸教会は正統性がないと理解することになります。そして、ロ−マ・カトリック教会は私たちがカトリック教会であると主張し正統性をいいます。逆に、私のような立場のプロテスタント教会から観れば、ロ−マ・カトリック教会の正統性を承認するのはきわめて難しくなります。
 このように、教会史の中でその違いを理解しようと試みても理解しえない点が多々あります。歴史は解釈です。教会史をどう解釈するかによって違いが生まれます。では、どうしたらよいのか。一人ひとりが、しっかりした歴史観を持つことです。
 
 
 
 
 

引用文献

1.福音主義キリスト教とは何か 宇田進 p55−57 いのちのことば社
2.新カトリック教理 J・ヴァン・ブラッセル   山崎寿賀訳
                                      P258    エンデレル書店 

2章 聖書観

 聖書と一言でいっても、いろいろな理解があります。プロテスタント諸教会においても、さまざまな聖書観があります。私は、ファンダメンタル(根本主義)な聖書観ですから、「一言一句間違いのない神の言葉である」(逐語霊感)という立場です。私にとって、この聖書観は決して譲ることはできません。
 私のような立場でない人々にとっては、決して100パ−セント神の言葉と認めていません。現代のロ−マ・カトリック教会の指導者たちの聖書に関する文書を読むと次のようにいっています。彼らは、「プロテスタントでもカトリックでも、最も大切にされる本は聖書ですが、それはこの本の中に神の言葉があるとキリスト信者が信じているからです」1)といっています。また、プロテスタントのある多くの教会の牧師たちは「聖書の中に神の言葉があることを感謝します」というのです。
 この二つの言葉を基準に考えると、ロ−マ・カトリック教会もプロテスタント諸教会も聖書に対する態度が同じであると誤解されてしまいます。このような聖書に対する態度と理解は、批評的な人々と言わざるをえません。聖書に対する態度と理解については、ロ−マ・カトリック教会的なプロテスタント諸教会が存在するということです。また、私のように、「一言一句間違いのない神の言葉」と信じる教会も多く存在するのです。このように、聖書観の問題は、非常に繊細な問題なのです。この点を踏まえて進めていきましょう。

1.聖書の著者問題

 聖書は、「神の霊感による」といわれます。この霊感とは、どのような意味でしょうか。霊感は、啓示論の問題です。元々、聖書が霊感という場合、第一に、文書そのものを意味するのではなく著者の性質を指しています。第二に、聖書そのものを指しています。よく、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(第二テモテ3章16節)を根拠に置きます。
 この「神の霊感」というのは、ギリシャ語で「セオプネウストス」です。この言葉は、「セオス」(神)と「プネオ−」(息吹く、呼吸する、吹き込む)の合成語です。そして、「プネオ−」の名詞が「プニュ−マ」(霊、風、息)です。英語では、これを「インスプレ−ション」といっています。ですから、RSV(アメリカ改訂標準訳)は、「すべての聖書は神により霊感されている」と訳します。
 以上のことから三つのことが言えます。
@ギリシャ語形容詞である「セオプネウストス」(直訳は「神の息吹による」)は複合語であり、神御自身が著者であるこを認めている所から始まっています。従って、霊感は神的なことなのです。
A聖書が記述された時に働いた(用いられた)人々については言及されていません。
Bあくまで、聖書の記述は「神のによって霊感されたもの」であるという主張です。
 このように、聖書は神の霊感によって記述されたものです。そして、聖書は神の内から息吹のように溢れ出たもので一切の誤謬から守られたものなのです。そして、一言一句間違いのない神の言葉として聖書の著者たちは記述することが出来たのです。キュンクという神学者は、聖書の著者たちは編集段階から、一切の誤謬から守られたのが霊感の働きであるといっています。
 ところが、批評的な聖書観に立つ人々は次のようにいいます。
@聖書は、人の手によって編集されたものですべて写本です。ちょうど、私たちが人の文章を写すと必ず間違いがあるように、聖書も間違いがあります。
A聖書の中には、霊感を受けたところと受けていないところがあります。
B聖書には、教訓、教え、道徳等が書いています。これらを除くとほとんど聖書は意味がないか、何ものこらない。   
このような人々は、理性を神としているのであって、全知全能の神を信じているということができません。まして、霊感を受けているところと受けていないところがあるというのもおかしな話です。誰が、霊感を受けている受けていないを決定するのでしょうか。基準がバラバラで信用できません。「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)という神を信じているのでしょうか。このように、プロテスタント諸教会にも大きな二つの立場が現在存在します。
 ロ−マ・カトリック教会においては、どうでしょうか。カトリック要理の第十課:「聖書と聖伝」の項において次のようになっています。
  問い 聖書とは、どのようなものですか。
  答え  聖書とは聖霊の霊感によって神のことばを書き記した書物です。
また、啓示憲章の11項には「霊感は聖書の著作者における聖霊の特別な働きであって、それによって彼らは、おのおのの固有の能力と素質を使用しながら、神が望むことをすべて、そしてそれだけを書くようになりました」と説明しています。この説明は、特に問題がないように感じます。ところが、「間違いのない」という一文がないのです。しかし、この章の最初で述べたように、ロ−マ・カトリック教会は「聖書は一言一句間違いのない神の言葉である」という立場をとらない人々が少なくありません。また、ロ−マ・カトリック教会の中には「一言一句間違いのない神のことば」と信じる人も現に存在します。つまり、ロ−マ・カトリック教会内部のおいても実際のところ統一された聖書観がないことを示しています。
そこで、霊感の程度の問題にふれなければなりません。

2.霊感の範囲・程度・内容についての問題

(1)プロテスタント諸教会の場合
 この問題も非常に繊細な問題です。聖書がどの程度、霊感されているかということは何を意味するのでしょうか。このように考えてください。私が小学生の頃、学校の理科(現在は何という科目になっているかわかりませんが)の実験の一つにこのようなものがありました。花瓶に一輪の白い花を入れます。そして、この花瓶の中に赤い色のインクを入れるのです。次の日、この白い花がどれぐらい赤く染まっているかを見るためです。実験結果は、ピンク色でした。二日あるいは三日経過すると赤くなりました。このように、聖書はどの範囲、程度、内容で霊感されているかが大切な問題になります。歴史的には、いくつかの理解があります。
 まず、範囲から説明していきます。霊感の範囲として、十全霊感説があります。この理解は、聖書の著者たちは神の霊感を受け、一切の誤謬から守られ一言一句間違いのない神の言葉を記述した、ということです。これに対して、聖書は霊感された場所とされていない場所があるとします。そして、聖書は「神の言葉を含む」とします。この理解と立場を「部分霊感説」といいます。この理解は、問題があります。聖書のことばに対して霊感をされたことばか否かを判断する基準が人によってバラバラということです。この状態では、聖書の権威は軽んじられ、人間の理性に権威があることになります。おもしろい事に、英語の聖書の中には霊感を受けた場所とされるところが赤で印刷されています。そうでない場所は、黒で印刷されているものがあります。
 次に霊感の程度の問題です。まず、逐語霊感説があります。これは、聖書は一言一句に至るまで正確に聖書著者たちを用いて記述させたものという理解です。この理解に対して、思想霊感説を主著する人々がおります。これは、霊感が及んだ程度は、聖書著者の思想だけであって、聖書の言葉については聖書の著者が選んだのであって間違いを含んでいる可能性があると主張します。確かに、聖書は思想も教えています。しかし、言語が正しく霊感されていなければ、正しい思想は生まれてきません。ですから、この部分霊感説は問題があります。
 もう一つ大切なことは、霊感の内容の問題です。聖書の内容については、「動力霊感説」あるいは「有機霊感説」といわれる立場があります。これは、聖霊は聖書の著者たちに働いてパ−ソナル・コンピュ−タ−かワ−プロのように機械的にまるで、ロボットのように書かせたものではない。むしろ、著者の個性を用いて自由に間違いのない神の言葉として個性豊かにダイナミックに書かせたという事です。この立場に対して、「機械霊感説」があります。これは、聖書著者たちの人格、個性に関係なくパ−ソナル・コンピュ−タ−かワ−プロのように機械的に記録したというのです。この主張にも問題があります。聖書の各書簡には、それぞれの個性的な神学と主張があります。この問題をどのように説明するのでしょうか。
 但し、ここで理解しておかなければならないことがあります。霊感は原著者によって記された「原典」に関することであって、写本や訳本に関することではないのかどうかということです。
 霊感問題について、「聖書の無誤に関するシカゴ声明」(1979年3月1日 聖書の無誤に関する国際協議会承認済)は次のように説明されています。
「霊感は聖書の著者たちが語り、また書くように動かされたすべての事柄について、真の、信頼できることばを用いることを保証したことを、ただし全知がゆるされたものではないことを、私たちは主張する。これらの筆者が有限であり、罪の性質をもつことにより、必然的にせよ、そうでないにせよ、神のことばに歪曲あるいは虚偽が持ち込まれる事を私たちは否定する。霊感は、厳密に言えば、聖書の原本にのみ適応される事、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できる事を私たちは確認する。私たちはさらに、聖書の写しや翻訳が、最初の本文を忠実に実現する範囲において、神のことばであることを主張する」と述べられています。
 また、「その全体が、またそのことばが、神より与えられたものである聖書はその教えるすべてにおいて、誤りや間違いがない。その事は、創造の出来事や、世界の歴史に働かれる神のみわざについても、神の指導下で聖書が文書として成立した起源についても、個々人の生活の中で、神が救いの恵みを与えられる事についてのあかしについてと同等に言える事である」とも述べています。
 この声明文から、原典、写本、訳本の関係について理解していただけたでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 

               ┌───┬─────┬─────┐
               │     │   正   │    誤   │
               ├───┼─────┼─────┤
               │範 囲│十全霊感 │部分霊感 │
               ├───┼─────┼─────┤
               │程 度│逐語霊感 │思想霊感 │
               ├───┼─────┼─────┤
               │内 容│動力霊感 │機械霊感 │
               └───┴─────┴─────┘

 このように、一言でプロテスタント教会といっても、教会においても聖書観が違ます。私の聖書観は、霊感の範囲は「十全霊感」であり、程度においては「逐語霊感」であり、内容においては「動力霊感」の立場です。誰が、どの聖書観に立つかは、自分自身で決定するしかありません。

(2)ロ−マ・カトリック教会の場合
 前文において、カトリック要理の第十課:「聖書と聖伝」の項の問いと答えについて紹介しました。また、一緒に啓示憲章11項を紹介しました。私たちと同じように、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Uテモテ3:16)を引用し根拠とします。また、ロ−マ・カトリック教会の公文書の中では、いつも繰り返して、神ご自身が旧約聖書と新約聖書の本来の著者であるといっています。このような内容を知る限りにおいては、何ら問題がないように思われます。
 しかし、さまざまな彼らの解説書や文書を読んでみると、その意味する内容が違うのです。どのように違うのか。医師であり司祭であった今は亡き戸塚神父によれば霊感とは、聖書記者たちは神より超自然的霊感を受け記述し始めた。そして、神の支持によって記述し続けた。記述している間、彼らの知識は神に照らされて、神の命じるままに、神の命じる事柄だけを、ことごとく、また一つももらすことなく書き記した事実をさす、と説明しています。また、聖書の真の著者は聖霊であって、聖書記者は見えざる神の手のペンにすぎないとしています。この理解は、機械霊感説にあたります。
 かと思えば、ロ−マ・カトリック教会の神学者であるカ−ル・ラ−ナ−は次のようにいいます。彼は、「カトリック教会において、神が新約および旧約聖書の著者であることを否定することはできないであろう」1)といいます。しかし、彼は続けていいます。だからといって、神が聖書の文字通りの著者である考える必要はない、と。また、聖書は真に恵みと信仰の光との統一のうちに、神の言葉と呼ばれうるものである、というのです。驚くことに、決定的なことをもいいます。それは、「神についての言葉は、たとえそれが神から原因されたものであろうと、すぐそのまま神が御自身を表明される神の言葉であるはずがない。神の言葉が神の自己表明の客体化として、神から働きかけられ、生起するものでなければならない。そして恵みによって担われ、われわれがこれを聞くにあたっては、神の霊によって担われて力強くわれわれに出会うものでなければならない」2)といいます。
 上記の内容をまとめて見ると以下のようになります。
@聖書の著者は神御自身であると認めていながら否定しています。自己矛盾が起きているということです。
A聖書そのものを神の言葉として認めていません。なぜなら、聖書の統一性が認められる限りにおいて神の言葉と呼ばれうるとするからです。本来、聖書そのものが神の言葉です。
B個々人が聖書の言葉との出会いを経験する時に、本人にとって神の言葉となる、というのです。この理解は、カ−ル・バルトの理解に近いものがあります。聖書の言葉と出会うか否かによって決定するような主観的なもの、経験的なものであるはずがありません。私たちがする、み言葉経験(キリスト経験)は、聖書の追体験です。
 少なくても、この三つのことはいえるのではないでしょうか。また、個人的にロ−マ・カトリック教会のミサに出席した時のことです。司祭が、創世記の天地創造やアダムの創造そして、エデンの園について短く説教が始まりました。その内容は、神話として語り、思想だけを伝えているということでした(このようなことは、プロテスタント諸教会においても同じような内容で語り教えているところが少なくないが・・・)。つまり、思想霊感説ということです。現在のロ−マ法皇は、驚くことに進化論を承認しました。現代社会において、進化論は終焉を迎え、進化論信奉者は進化論信者といわれる時代であるにも関わらずです。
 私は、ロ−マ・カトリック教会の霊感の範囲について、明確な文書を読んだことがありません。しかし、教会の教えを通してのみ知りうることであるとしています。このように、ロ−マ・カトリック教会は、聖書の霊感を認めているように見えて、その理解は十人十色ということなのです。

3.外典問題

 ロ−マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会の明確な違いは、外典問題です。この外典を「アポクリファ」と呼んでいます。この言葉は、ギリシャ語のアポクリフォス」から来ているもので、そのれは、「かくされた」という意味なのです。しかも、この言葉の歴史的用法としては、ロ−マ・カトリック教会にもプロテスタント教会にも関係ないものです。どのように使用されていたかと言えば、哲学や諸宗教団体がもっている特有の教えや禁句が書いてある文書のことを指していたのです。なぜ、それをロ−マ・カトリック教会がこの言葉を採用したのか。それは、このような文書はたいてい偽物であるが、著者に昔の聖人や賢者や予言者たちの名が冠せられていたからなのです。歴史的に最初に使用したのが、教父時代のオリゲネス(185−254)であるといわれています。彼は、これを採用する時、ユダヤ人の用法から借用して使用しました。ロ−マ・カトリック教会は、この外典を認めます。しかし、プロテスタント諸教会は認めません。
 この問題は、「聖書の正典をどのように位置づけるか」ということに関することです。そもそも、正典というのは一般的に「古典」に相対して用いられる用語です。さらに、聖書を正典と呼ぶ場合には、正典以外の「外典」や「偽典」と区別して用いている言葉です。そして、この正典を「カノン」(canon)といいます。この言葉は、へブル語の「カ−ネ−」からきています。この言葉が名詞形で「葦」という意味で理解されるようになったのです。この意味がやがて、「規定」または「はかりざお」となり時代と共に「規範」「基準」となったのです(新約聖書においては、カノンという言葉は、Uコリント10:13、15、15一16において三回、ガラテヤ6:16に一回)。こうして、聖書を「正典」といい信仰生活の基準となったのです。時々、正典と表現せずに教典とする人々がおりますが大きな間違いです。
 また、この正典という言葉は文献という言葉に相対して用いられています。なぜなら、旧約聖書はイスラエル宗教の文献であり、新約聖書は原始キリスト教会の文献と理解するからです。ある人々は、聖書を文献として受けとりました。従って、誰が聖書をいかなる理由によって正典としたのかが大切な問題となります。
 そもそも外典というのは、正典に対して用いられた言葉です。それは、正典は権威ある神の言葉である聖書を指すのに対して、外典は聖書以外の宗教文書としているものです。外典は、聖書と同じある背景の時代の内容をもっており聖書と類似ところから外典をいうようになったのです。しかし、外典は何ら権威のない文書です。価値があるとすれば一、二の書であり、他は全く価値はありません。さて、外典には、どのくらいのものがあるのでしょうか。紹介しましょう。

a.旧約外典(大体50冊)

@知恵文学(二冊)
 ソロモンの知恵 
 ベン・シラーの知恵書
A歴史文学(三冊)
 エスドラ第一書
 マカビ一第一書
  マカビ一第二書
B宗教小説(二冊)
 トビト書
 ユデト書
C黙視文学(三冊)
 バルク書
 エレミヤ書
 エスドラ第二書
D伝説的文書(五冊)
 マナセの祈り
 エステル記の追加
 三童子の歌
 スザンナ物語
  ベン神と竜神

b.新約外典(学者によって内容区分が違う)

@福音書に似せたもの(九冊)
  ヘブル人による福音書
 エピオン派の福音書
 エジプト人への福音書
 ペテロによる福音書
 ヤコブの原福音書
 トマスによる福音書
 ニコデモの福音書
 ピラトの行伝
 イエスの黄泉行の記
A使徒行伝に似せたもの(五冊)
 パウロの行伝
 ペテロの行伝
 ヨハネの行伝
 トマスの行伝
 アンデレの行伝
B手紙及びそれに関するもの(五冊)
 使徒の教え
 クレメンスの教え
 バルナバの教え
 アブガルスの手紙
 パウロのラオデキヤの手紙
C黙示録に似せたもの(二冊)
 ペテロの黙示録
 ヘルマスの牧者

4.プロテスタントの正典と外典に対する理解

 プロテスタント教会にとって正典の問題は、歴史的に決着がついています。この解答には、二つの側面があります。岡村民子師によれば「下からの答え」と「上からの答え」があるとします。前者は「歴史的解明」であり、後者は「神学的解明」です。この二つの側面を要約し説明します。

a.下からの答え(歴史的解明)
 この内容は、歴史的に聖書がどのように結集し正典となったかということです。だいたい4世紀のキリスト教会(この時は、まだプロテスタントは誕生していない)が多くのキリスト教古典の中から、特定の数書のみを選び出して正典としていました。具体的には、旧約聖書39巻はAD90年「ヤムニヤ会議」において決定しました。また、新約聖書27巻はAD397年「第三次カルタゴ会議」において決定しました。いずれも、カトリック教会の教会会議において正典として承認したのです。ですから歴史的には、聖書正典の結集者は教会ということです。まさに、教会なくして聖書正典がなかったわけです。ここで大切なことは、私たちが「聖書を信じる」ということは「聖書を正典とした歴史的教会の信仰にあずかる」ということなのです。
 よく、私たちは聖書信仰という言葉を聞きます。また、言います。この場合、イエス・キリストと私の関係ということが強調されます。その為でしょうか、「私とイエス・キリストの関係がしっかりしていれば聖書的である」と主張する人々がおります。これは、本来の個人主義ではなく、利己主義ということです。このような人々は、教会を無視したり軽視したりします。本来、個人主義というのは、マルチン・ルタ−が宗教改革において「信仰義認」を強調したところからきました。それは、イエス・キリストと私の関係にのみにおいて個人主義であるということなのです。そして、キリスト者の生き方は、教会的でなければならないのです。その理由の一つとして、聖書の正典結集は教会が信仰によって決定したことだからです。聖書信仰とは、聖書正典の歴史的な側面から定義しますと「聖書を正典とした歴史的教会の信仰にあずかる」ということなのです。

b.上からの答え(神学的解明)
 教会は、キリストの体です。そして、キリストは教会の頭です。ですから、一般的に理解されるような共同体とは、本質的に違います。だからこそ、聖書正典の結集の問題について、歴史的側面だけではなく神学的にも知らなければなりません。岡村民子師は、教会は歴史の上で聖書正典の結集という問題を偶然の出来事としてはならないと指摘します。それは、歴史に介入し歴史を導く神が教会会議の中にも介入し聖書正典を結集させたものであるというのです。聖書を見ると、「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」(詩編119:89)とあります。ですから、天においてすでに決定していた神の言葉である聖書が、地上の教会会議において追決定したのであるというのです。まさに、神はの会議をも導いて聖書正典を結集させた張本人ということなのです。ここで、忘れてはならないことは、聖書は私(たち)に与えらたもであるという理解は二次的なものであるということです。第一次的なものは、教会に与えられということなのです。そして、教会をとおして神のことばは私たちに与えられるのです。教会をとおしてというのは、説教のことばをとおしてということです。神学的な理解においても、教会を無視したり軽視したりするところには聖書的な信仰が成立しないことがわかると思います。

5.外典が正典から除外された理由
 外典について積極的な評価を与えるとしたら次のようになります。歴史的には旧約聖書と新約聖書の間のことを中間時代といいます。この中間時代における、それぞれの様子(宗教・政治・歴史)を知る手がかりとしての資料となります。但し、外典は霊感を受けていませんので正典から除外します。

(1)旧約聖書の場合
 旧約聖書外典が正典から除外される理由には、歴史的側面と内容的側面の二面性があります。それぞれ簡単に述べてみましょう。
【歴史的側面】
 旧約聖書の正典には、二種類の正典が存在していたのではないか、とする人々がおります。その二種類というのは、第一にヘブル語のパレスチナ正典で小正典とも呼ばれるものです。第二は、ギリシャ語のアレキサンドリヤ正典で大正典と呼ばれるものです。実際、この二つは存在していたのでしょうか。この二つのうち、ギリシャ語のアレキサンドリヤ正典(大正典)は存在していません。その理由は以下のとおりです。
a.ギリシャ語のアレキサンドリヤ正典(大正典)写本が全然ない。
 アレキサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)は、紀元前270年一170年あるいは250一150年頃のものといわれます。この写本については、尾山令仁師は「全然ないということである」3)と指摘しています。現在、私たちが用いている70人訳(LXX)の最も古い聖書の写本は、紀元四世紀ものです。従って、アレキサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)といわれる写本と私たちが用いている70人訳(LXX)の写本の間には、600年という隔たりがあります。この600年の間に、外典が旧約聖書の中に入ってきてしまったのです。ローマ・カトリック教会は、自分たちの教義等を正統化するためアレキサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)を作ったということなのです。
b.ユダヤ教の特徴は二つの正典を支持しないということです。
 アレキサンドリヤにいたユダヤ人たちが、正典に修正を加えるということは考えられないことです。彼らは、自分たちの正統性を固守する民族からです。ですから、非常に頑固なのです。
c.ユダヤ人たちは、二つの正典の存在に対して反対しています(最古の外典目録より) 最古の外典の写本は現在の外典の写本と同一ではありません。しかも、現在のロ−マ・カトリック教会が承認している外典を含む聖書(正典)とまったく同じものは存在しません。
@ヴァチカン写本(紀元350年)
 この写本には、マカビ−書は含んでいません。にも関わらずロ−マ・カトリック教会では正典として承認しています。この写本に含まれているエスドラ第一書をロ−マ・カトリック教会は正典とは認めません。
Aシナイ写本(紀元350年)
 この写本にはバルク書は含んでいません。しかし、ロ−マ・カトリック教会は正典と承認しています。また、正典と認めていないマカビ−第四書(偽典)がこの写本の中に含んでいます。
Bアレクサンドリヤ写本(紀元450年)
 この中には、現在のロ−マ・カトリック教会が正典と承認されていないエスドラ第一書とマカビ−第三書を含んでいます。
 このように、それぞれの写本に書いているものと書いていないものがあります。また、書いているものいないものをロ−マ・カトリック教会は正典として外典の一部であるかのように承認しているわけです。実に、行き当たりばったりでありいいかげんな根拠のないものであるといわざるをえません。ましてや、新約聖書の著者たちは、外典が霊感されたものであるなどと一言も述べていません。そして、歴史的に、東方教会、西方教会、およびプロテスタント諸教会は、この二つの正典説を支持していないばかりか、退けています。
 尾山令仁師は、「ロ−マ・カトリック教会が、外典の一部をヘブル語の聖書正典につけ加えたのはいつかというと、1546年のトリエント公会議の時であった。それは当時すでに聖書より大分逸脱していたロ−マ・カトリック教会の教義の裏付けの必要に迫られたからであった。そのためロ−マ・カトリック教会は、この会議で、真理を否定し、歴史を無視して、いわゆるアレクサンドリヤ正典、つまり大正典なるものを、独断的に正典と宣言しました。彼らはさらに1869−70年のヴァチカン公会議で、あたかも罪の上塗りをするかのように、トリエント公会議の決定を確認し、今日に至っている。彼らにはもうそれを取り消す方法が全然ないのである。」4)とこの問題についてまとめています。

【内的側面】
 内的理由は以下のとおりです。
a.歴史的・地理的に不正確な内容
  最たる外典は、トビト書とユデト書です。
b.教理的に間違いが多い。
  マカビ−第二書
        14章41節−46節    自殺の容認及び是認
                12章41節−45節    死人に対する祈りと献物の容認     ベン・シラの知恵の書
                3章30節        施しが罪を贖う
        33章26,28節     奴隷に対する残虐行為の是認
  ソロモンの知恵の書
         8章19節−20節    人間の霊魂の先前を教えている
         9章 5節                人間の肉体は神に至るべき障害
  ユデト書
         9章10,13節     迷信を奨励し虚偽を承認する
  トビト書                悪霊アスモデオスについて述べている                      迷信的小説 
c.外典は真理からかけ離れたもの
  ベル神話と竜神、スサンナ物語、エステル記の追加などに見られるように宗教小説です。
 このように、外典はその内容においても正典として承認できるようなものなどありません。むしろ、異教的でさえあります。

(2)新約聖書の場合
 旧約外典の場合のように、歴史的側面と内的側面の二つから述べることにします。
【歴史的側面】
 使徒の権威というしるしをもっていない、ということがいえます。聖書の正典性の歴史的な理由の一つは、聖書の著者が使徒かあるいはその関係者であることがあげられます。しかし、外典については、この基準を満たしていません。あえて、使徒たちと同時代に生きた人をあげるとクレメンスです。この人の書いたクレメンスの手紙があげられるだけです。特に、クレメンスが生きていた時代には、ヨハネだけが生きていました。では、この二人に交わりがあったのかといえばありませんでした。クレメンスはロ−マで、ヨハネは小アジアです。二人にとって、それぞれの存在は知っていたかもしれません。しかし、交わりはありせんでした。従って、このクレメンスの手紙は使徒の権威はありません。あくまでも、手紙であって正典ではありません。  
【内的側面】
 新約外典についても読んで見ると明らかですが、空想的、意図的です。しかも、異端的な思想までもが混入されています。執筆年代としては、使徒たちが死亡した後に書かれたもので偽作です。当然ながら、霊的性質を備えていないのです。
 外典の問題は、写本の問題があり複雑なのです。しかし、外典はすでに歴史的にも内容的にも決着がついているのです。誰が、決着させたか。それは、カトリック教会が教会会議において決着をつけ、ロ−マ・カトリック教会がそれをひっくり返してしまったのです。

 
6.ロ−マ・カトリック教会における正典と外典に対する理解

 ロ−マ・カトリック教会における正典(聖書)に対する理解については、上記で述べましたのでここでは、外典にを中心に述べます。しかし、ロ−マ・カトリック教会の権威の問題となると、「ロ−マ法皇」との関係をさけてとおるわけにはいきません。しかし、この問題は後で述べることにします。
 ロ−マ・カトリック教会において、聖書つまり正典という場合、何を意味するのか。それは、プロテスタント諸教会が用いている66巻の聖書と外典を含めたものを聖書と称しています。つまり、外典を霊感を受けたものと承認しているわけです。啓示憲章の15に次のように説明されています。

「そして、旧約聖書は、キリストによって実現される救いの前の時代の人類の状態に従って、神と人間とに関する知識と人間に対する正義と慈悲の神の態度とすべての人に示すものである。これらの書は、不完全かつ一時的なことを含んでいるが、それでも、神の真の教育法を実際に示している。従って、それらの書は、神に対するいきいきとした感情を表わし、神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、われわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から、敬虔をもって受け入れられなければならない」

カトリック要理には、外典(旧約)について次のように説明されています。

 「旧約の後期に書かれたある本(トビト、ユデイト、マカバイ、知恵、等の書)が、厳密な意味で正典に属するかいなかが問題になったことがありましたが、カトリック教会は、これらを正典に属するものとみなしています」

これらの中から、聖書正典と外典に関する重要な言葉を抜き書きしてみますと次のようになります。

 @聖書は神の霊感によって書かれた。
 Aこれらの書は、不完全かつ一時的なことを含んでいる。
  Bわれわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から、敬虔をもって受け入  れられなければならない。                                               C正典に属するものとみなしている。
  D聖書の真の著者は聖霊であって聖書記者は見えざる神の手のペンにすぎない。
  E神が聖書の文字通りの著者である考える必要はない。
 F聖書は真に恵みと信仰の光との統一のうちに、神の言葉と呼ばれうるものである。
 G神についての言葉は、たとえそれが神から原因されたものであろうと、すぐそのま  ま神が御自身を表明される神の言葉であるはずがない。
 Hわれわれの救いの秘義を秘めているからキリスト信者から敬虔をもって受け入れら  れなければならない。
 Iこれらを正典に属するものとみなしている。

ロ−マ・カトリック教会は、聖書は神の霊感によって記述された、と言いながらその内容については神の霊感を否定しています。なぜなら、「聖書の真の著者は聖霊である」と言いながら、「神が聖書の文字通りの著者である考える必要はない」「不完全である」と矛盾することをいいます。驚くことに、「神についての言葉は・・・神の言葉であるはずがない」ともいうのです。さらに、「われわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から、敬虔をもって受け入れられなければならない」ともいっています。
 聖書は神のことばである以上、人々が受け入れようが拒否しようが神のことばは神のことばです。この辺の理解は、プロテスタント諸教会にある思想霊感説、部分霊感説、機械霊感説に似た共通のものがあります。上智大学教授のホセ・ヨンパルト氏は、「プロテスタントでもカトリックでも、最も大切のされる本は聖書ですが、それはこの本の中に神の言葉があると信じているからです」5)と述べています。これは本来、逐語霊感説を否定しているロ−マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会を意味しているのです。誤解してはならないのは、プロテスタント諸教会には逐語霊感説に立っているキリスト教会があるということです。ですから、それらと一緒にされてはこまります。 
 外典についても、「これらを正典に属するものとみなしています」といっています。この「属しているものとみなす」という、何と微妙な表現ではないでしょうか。本来、外典は正典ではないが、みなさざるをえない何かかがあって不本意であるが正典とした、という意味です。
 これらの例は、ほんの一部です。このように、ロ−マ・カトリック教会内部の自己矛盾にお気づきになったでしょうか。聖書観は、大きい生命線であり信仰と教会の根幹に関わる問題です。それが、このような安易な扱いをしていいものなのか疑問です。

7.聖書(正典)と伝承問題

 この問題は特に、権威や聖書解釈の問題に関わってくる重要な問題です。ロ−マ・カトリック教会は、聖書と同等の位置に伝承を位置づけています。この伝承のことを、彼らは「聖伝」と呼んでいます。ロ−マ・カトリック教会の主張によれば、プロテスタントは「聖書のみ」であって「伝承(聖伝)」を認めない。しかし、私たちは聖書と伝承(聖伝)を認める、という点で違うといいます。これもまた、ロ−マ・カトリック教会の偏見であり誤解です。プロテスタントにおいても、聖書と伝承を認めます。しかし、どのような意味において伝承(聖伝)を取り扱うかが違うのです。この問について始めに、ロ−マ・カトリック教会の主張に目を止めながら比較してみましょう。

 カトリック要理の48「聖伝」という項には次のように説明されています。

聖伝とはどのようなものですか。
 聖伝とは聖霊の御助けのもとに、言い伝えと種々の制度によって、使徒たちから教会のうちに伝えられた神の啓示です。ここでいわれる聖伝(伝承)は、使徒たちがキリストから受けた、教会に伝えたものですから、後に、教会に起きたさまざまな伝統とは異なります。
 聖伝は古代教会の信仰宣言、公会議、教導職の証言、古代教会の記録、教父たちの著者、古代からの典礼、などによってしめされています。
  カトリック要理の49「聖伝と聖書との関係」という項には次のように説明されています。

聖伝は聖書とともに重んずるべきものですか。

 聖伝は、聖書とともに重んずべきものです。聖伝は聖書のできる前にあり、教会は聖伝に基づいて、聖霊の導きのもとに、どの本が聖書の正典に属するかを決定しました。また、教導職は聖伝に照らし合わせて聖書を解釈します。そして、ある啓示された事柄について、教会はおもに聖伝によって確信します。また、聖伝は聖書をキリスト者の生活のうちに豊かに実らせます。聖書の中にも聖伝を重んずるべきことが記されています。
「私たちがことばによって、あるいは手紙によって教えた伝えを守れ」(Uテサロニケ2:15)
「あなたがたが多くの証人の前で、私たちから聞いたことを、さらに他の人にも教えることのできる忠実な人びとにまかせよ」(Uテモテ2:2)

啓示憲章の9には次のように説明されています。

従って聖伝と聖書は互いに堅く結ばれ、互いに共通するものである。なぜならば、どちらも同一の神的起源をもち、ある程度一体をなし、同一の目的をさしている。実際、聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばある。そして、聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばをあますところなくその後継者に伝え、後継者たちが、真理の霊の導きの下に、宣教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようになったのである。
 従って、教会が啓示されたすべての事について自分の確信を得るのは、聖書によってだけではない。それゆえ、どちらも同じ敬虔と敬意をもって尊ぶべきものである。

以上のロ−マ・カトリック教会の公文書中から、重要と思われる言葉を検討してみましょう。
 聖伝(伝承)とは、「使徒たちから教会のうちに伝えられた神の啓示」「使徒たちがキリストから受け教会に伝えたもの」とします。また、聖書解釈について、「聖伝に照らし合わせて聖書を解釈し」「教会はおもに聖伝によって確信します」と規定しています。
 たしかに、聖伝(伝承)は使徒たちがキリストから受け教会に伝えたものです。その結集が、聖書です。ですから、プロテスタント諸教会は、伝承の結集としての聖書を重んじるのです。ですから、決して、聖書と伝承を区別してと取り扱ってはいないのです。彼らの指摘である、プロテスタントは聖伝(伝承)を重んじないというのは当たっていません。むしろ、 ロ−マ・カトリック教会は聖書と聖伝(伝承)を重んじるといいながら、この二つを区別し正典の二重構造を作り出しているわけです。しかも、信仰の確信が聖書によってもたらされるのではなく、聖伝(伝承)によってもたらされるというのですからおかしな話です。
 さて、「伝承の結集が聖書である」という場合、その内容が問われます。伝承であれば、何でもいいのかと言えばそうではありません。まず、伝承の意味について述べてみます。伝承(聖伝)とは、伝統という言葉と同義語です。問題は、この伝承と伝統の相違点を明らかにしなければなりません。「広辞苑」によれば、伝承は「つたえつけつぐこと」「古くからあったしきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を受け伝えていくこと。これに対して、伝統を「伝えられた事柄」を意味し「系統を受け伝えること。また、受け伝えた系統。(trad-ition)伝承に同じ。特に、そのうちの精神的核心または脈絡」を意味するものとしています。
 英語・フランス語では tradition  と表現します。ドイツ語においてはUberlief−erung という言葉で表します。しかし、その意味としてはどちらも「伝統」「伝承」を含むのです。
 熊野義孝は、この二つを区分して「伝承」を伝達する作用とし、「伝統」を伝達されるもの、と説明しています。聖書学の用法では、「伝承」を伝達する作用するもの、「伝統」を伝達されるもの、と簡単に規定することは困難なことです。むしろ、感覚的に伝承は「流動的」であり伝統は「固定的」です。
 ここで注意すべきことは、伝承はそのまま正確には伝わりません。それは、一つの文章を瞬間的に暗記し、次の人に伝え、伝えられた人はまた次の人に伝え、どれだけ正確に最後の人まで伝えたか、という伝言ゲ−ムがあります。初めに聞いたものを正確に伝えられた、という経験はないでしょう。むしろ、「どこでどのように変わってしまったのか」ということに驚きを感じるものです。
 では、伝承の結集といっても、どんな伝承が結集されたのかが問題です。それが、弟子たちがイエスから受け継いだものなのです。それは、何かということです。イエスの伝承である、イエスの伝道活動報告、言葉や譬え話、格言、勧め等を口伝によって保存していたのです。この口伝によって伝えていくという方法は、ユダヤの律法学者たちの仕方であったのです。教会も、これに習って口伝で伝えたのです。口伝伝承は、教会生活が複雑化するに従って、必要に応じて文字になっていきました。
 福音書が扱っているのは、イエスの生涯です。このイエスの生涯を記述したのは原始教会です。原始教会で、弟子たちが説教していた内容は、「旧約の成就者イエス」「イエスの十字架と復活」「悔い改め」の三つです。イエスご自身は、何を説教していたのでしょうか。それは、「時が満ちた」(旧約の成就)、「神の国が近づいた」(神の国のメッセ−ジ)、「悔い改めて福音を信ぜよ」(悔い改めと信仰)です。整理してみましょう。
┌────────────────────┬────────────┐
│イエスのメッセ−ジ                     │  弟子たちのメッセ−ジ │
├────────────────────┼────────────┤
│時が満ちた(旧約の成就)               │  旧約の成就者イエス   │
│神の国が近づいた(神の国のメッセ−ジ) │  イエスの十字架と復活 │
│悔い改めて福音を信ぜよ(悔い改めと信仰)│  悔い改め             │
└────────────────────┴────────────┘
イエスは、十字架と復活を語らなかったのです。しかし、弟子たちは十字架と復活を神の国の到来と受け取って説教をし人々に悔い改めを迫ったのです。ですから、イエス・キリストの十字架と復活が聖書の中心なのです。このメッセ−ジを弟子たちは、イエスから受け取り記述したということです。つまり、伝承の結集というのは、このメッセ−ジの結集が聖書ということなのです。
 ルカの福音書の著者であるルカは「私たちの間ですでに確信されている出来事で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることをよくわかっていだだきたいと存じます」(ルカ1:1−4)。また、ペテロは「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それはうまく考え出した作り話に従ったのではありあません。この私たちは、「キリストの威光の目撃者なのです」といいます。また、「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」(Uテサロニケ2:15)といっています。

8.聖書解釈の問題

 ここで、聖書解釈について少々触れてみましょう。聖書解釈は、様々な聖書解釈の方法があります。しかし、その基本は聖書は聖書をもって解釈することが基本です。なぜなら、新約聖書は旧約聖書の成就だからです。私たち、プロテスタント諸教会が聖書を解釈する時、自由に個々人が勝手に解釈しているように見えます。しかし、それは違います。聖書解釈は説教の中に現されますが、それぞれの教団や教派の伝統や使徒的伝承の上に解釈しています(意識的であろうが無意識的であろうが)。
 時々、「伝統が教会を駄目にした」と主張する人々がおります。この理解には、問題があります。彼らが主張するように、「伝統が教会を駄目にした」としますと、教会という名を借りた新興宗教を形成していることになり、初代教会との連続性を否定していることになるからです。そればかりか、教会の牧師やリ−ダ−は正真正銘の教祖となってしまいます。また、時代とともにその教会は、自分たちの伝統をつくりの線上で聖書を解釈するようになってしまいます。
 いずれにしても、私たちは、「聖書のみ」といいながら実際は使徒的福音の伝統を重んじているのです。ロ一マ・カトリック教会が、プロテスタント諸教会に対する批判は「聖書解釈が私的であり伝統や伝承を無視している」という点があります。しかし、この批判は該当しません。
 ロ一マ・カトリック教会は、伝統や伝承を聖書と同等の位置に置きます。それは、聖書正典のほかの伝承を正典として承認するからなのです。カトリック要理の49「聖伝と聖書との関係」という項に、「聖伝に照らし合わせて聖書を解釈し」「教会はおもに聖伝によって確信します」と説明しているところからもわかります。そして、聖書解釈の権威の所在をロ一マ法王に置くわけです。決して、聖書に置こうとしません。従って、ロ一マ法王がある聖書箇所について、「この聖書の意味は〜である」と言えばそうなってしまうのです。結局、聖書の権威よりもロ一マ法王の権威が上なのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

       ┌───┐                 ┌───┐
       │  伝 ├┬────────┤  聖 │
       │  承 ││               │  書 │
       └─┬─┘│               └───┴───────┐
           │   │                                       │
      ┌─┴─┐│ ┌───┐               ┌───┐ │
      ロ│  神 ││プ│  神 │              プ│  一 │ │
      |│  の ││ロ│  の │            ロ│ 言 │ │
      マ│  言 ││テ│  言 │       テ│  一 │  聖
      カ│  葉 ││ス│  葉 │              ス│  句 │
      ト│  が ││タ│  が │              タ│  間 │  書
      リ│  あ ││ン│  あ │              ン│  違 │
   ッ│  る ││ト│  る │              ト│  い │  観
      ク└─┬─┘│諸└─┬─┘              諸│  の │ │
      教   │   │教   │                  教│  な │ │
      会   │   │会   │                  会│  い │ │
           │   │     │                   │  神 │ │
           │   │     │                   │  の │ │
           │   │     │                   │  言 │ │
           │   │     │                   │  葉 │ │
           │   │     │                   └─┬─┘ │
           │   │     │                       ├───┘
       ┌─┴──┴───┴────────────┴─┐
       │   聖 書 は 神 の 霊 感 に よ る    ├─共通理解
      └─┬──┬───┬────────────┬─┘
       ┌─┴─┐│ ┌─┴─┐               ┌─┴─┐ │
      │  部 ││ │  部 │               │  十 │
      │ 分 ││ │ 分 │               │  全 │  範
       │  ・ ││ │  ・ │               │  ・ │  囲
      │ 思 ││ │ 思 │               │  逐 │  ・
      │ 想 ││ │ 想 │               │  語 │  程
       │  ・ ││ │  ・ │               │  ・ │  度
      │ 機 ││ │ 機 │               │  動 │  ・
       │ 械 ││ │ 械 │               │  力 │  内
       │  霊 ││ │  霊 │               │  霊 │  容
       │ 感 ││ │ 感 │               │  感 │
       └─┬─┘│ └─┬─┘               └─┬─┘ │
┌─────┴──┴┐┌─┴────────────┴─┐
│外 典 の 承 認││       外 典 の 否 定      ├─外典問題
└─────────┘└────────────────┘
 
 

引用文献
1.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論
  カ−ル・ラ−ナ−著 百瀬文晃訳   P494      エンデルレ出版
2.  同                 P494−495
3.旧約緒論 尾山令仁著        p77      聖書図書刊行会
4.同                 p79             同   上
5.カトリックとプロテスタント ホセ・ヨンパルト p55    中央出版社

3章  人間の堕落と神の救いの計画
 
 マルチン・ルタ−の宗教改革を、一言で表現するならば「罪と救い」の問題です。宗教改革についての評価は、そまざまですがその本質は、文字どおり「罪」とは何か、「救い」とは何か、という現実問題なのです。

1.人間の堕落と罪について

 罪について、ロ−マ・カトリック教会はどのように理解しているでしょうか。カトリック要理 第四課 人間の堕罪と神の救いの計画の項の中に、人間の堕罪(原罪)とその結果 という項目があります。ここでは、次のように説明しています。

15 人間の堕罪について聖書は何を教えていますか。

聖書が教えているように、愛によって神につくられた人間は、神から受けた自由を乱用し、自己の完成を神のほかに求め、神にそむいて罪を犯しました。人間が自分のうちにも自分のまわりにも経験している悪は、人間をつくった善なる神から来るものではなく、根本的には罪の所産なのです。しかし、神は罪に陥った人類を、見捨てることなく、救いの道を常に人びとに開き、悪に打ち勝つために御子イエズス・キリストをつかわされました。(創世記3章、ロ−マ5:12−21参照)
 
 この説明文によると、この意見が正統的であるように聞こえます。しかし、注意深く読むと不思議なことに気がつきます。それは、「神から受けた自由を乱用し、自己の完成を神のほかに求め、神にそむいて罪を犯しました」という理解です。確かに、神は人間をロボットや人形のように創造したのではありません。神は、自由意志をもった人格的存在として創造したのです。その自由意志をもって、神に従うことも、拒否することもできるのです。人類最初の人間アダムは、その自由意志をもって神に逆らい不従順の罪を犯しました。創世記3章の記述を見ると、サタンの象徴である、蛇が「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」(創世記3:5)と誘惑しています。重要な点は、「神のように善悪を知る者となる」ということです。サタンは、「あなたは神の位置につける」と誘惑したのです。それは、絶対者になれるということです(これは無神論者の構造でもあります)。
 カトリック要理で説明しているような、「自己の完成を神のほかに求め」た結果ではありません。しかも、このロ−マ・カトリック教会の説明では、神の創造は未完成であったといっているものなのです。神は、アダムの創造を本当に未完成の状態でなされたのでしょうか。第一のアダムは、完成された人間アダムです。このアダムが、自分の自由意志によって不従順となり罪人となったのです。この時、神の像は完全ではないが破壊されてしまったのです。
 そして、第二のアダムであるイエスが受肉したのです。この受肉のイエスは、真の神であり真の人間です。ですから、パウロはロ−マ書5章において、第一のアダムの不従順によって人類に罪が入ったと言います。これと、同じように第二のアダムであるイエスは、従順によって義を人類にもたらしたといっています。  従って、ここで問題になるのはロ−マ・カトリック教会の「創造の未完成」という理解です。決して、神は中途半端な創造をしたのではありません。人間の自由意志によって、崩れたのです。
 この創造と堕落の記述に関することについて、思想霊感説にたっていることをつけ加えておきます。従って、「人間に関するメッセ−ジであり起源ではない」というのです。新カトリック教理には、「とても感動させるこの聖書の不朽な部分は、神の前にいる人間のことを要約したものとして決して取りかえることができない。しかし人類の始まりの叙述として取りかえることができる(いな、とりかえねばならない)」3)としています。また、ロ−マ・カトリック教会の神学者であるカ−ル・ラ−ナ−は「史実に関する報道として理解する必要はない」「これらのことが人類の起源に起こったに違いない、という説明である」4)としています。あくまでも、史実というよりも思想的なメッセ−ジです。プロテスタント諸教会にも、思想霊感説にたって理解する人々がおります。このような人々と似たり寄ったりの理解ということです。
 しかし、逐語霊感説にたっている者たちにとっては、一言一句間違いのない出来事と理解し信じます。従って、アダムの創造は歴史的事実です。

 次に、カトリック要理では、人間の堕落の状態について説明をしています。

16 人間の堕罪の状態とはどういうものですか。

人間の堕罪の状態とは、人祖が人類のはじめに犯した罪の結果、すべての人間が神との親しい交わりを欠き、罪の支配下に陥ったことです。

(Α)人間の最初の罪に由来する、この神からのわかれめの状態は、キリスト教の古来からの伝統によって「原罪」と呼ばれています。
(Β)聖書が語るように、堕罪によって人間の心の秩序が乱れ、人間は苦しみを経て、死を体験するようになりました。

このように説明されています。この説明で、一つ気になるのは「キリスト教の古来からの伝統によって『原罪』と呼ばれています」という点です。この「原罪」という表現は、初めてパウロが用いたものです。ですから、「古来から」という表現は適切なのでしょうか。また、この場合「古来から」というのは、いつ頃のことを指しているのでしょうか。
 聖書の中で代表的な記述として、「私は自分のしていることがわからない。まぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法がよいものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ロ−マ書7:15−17)というパウロの苦悩があります。小田部司教は、このパウロの苦悩の問題について、ルタ−やカルヴァンはこれが人間の堕落の証拠であり原罪であるとしているが違うとしています。では、何と理解するのか。彼は「人祖堕落の証拠ではなく、われらの意志の発動以前のものであるがゆえに罪でありえない」「われらが自由意志によって邪欲にしたがって初めて罪が生まれるので、邪欲それ自身は決して罪でも原罪でもない」といいます。
 しかし、イエスは「わたしはあなたがたにいいます。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯しているのです」(マタイ5:28)といっています。明らかに、聖書と反する理解をしていると言わざるをえません。パウロの苦悩は、原罪の問題です。人間の都合によって、聖書を解釈してはいけないのです。
 このように、ロ−マ・カトリック教会は自己矛盾を犯しているとしかいいようがありません。
 ロ−マ・カトリック教会には、罪に対する理解に驚くべきものがあります。それは、罪には「小罪」と「大罪」の二つがあると説明しています。私たち、プロテスタント諸教会にとって罪は罪です。よく、殺人罪と嘘の罪(偽装罪)はどちらが重いですか、と質問する方々がおられます。刑法の上では、殺人罪は無期懲役か死刑です。偽装罪は、書類送検ぐらいのものでしょう。人間社会では、はるかに殺人罪のほうが重いのです。しかし、イエス・キリストの十字架の前では、罪の重さはつり合うのです。罪に差別はありません。それだけ、十字架は重いのです。
 しかし、ロ−マ・カトリック教会は罪の重さを秤にかけるように比較しているわけです。「大罪」と「小罪」に違いについて簡単に述べてみましょう。カトリック要理 第13課 罪と罪のゆるし という項に次のように説明されています。

罪・・・大罪・小罪

罪とはどういうものですか。

罪とは悪いことと知りながら自由意志をもって神にそむくことです。

大罪とはどういうものですか。

大罪とは重大なことがらについて、はっきり意識し、完全に承諾して、神にそむき、神の愛から離れることです。大罪は、神に対する忘恩と屈辱であり、成聖の恩恵を失わせ、永遠のほろびを招くものです。

小罪とはどういうものですか。

小罪とは、小さなことがらについて、あるいは重大なことがらであってもはっきり意識せず、あるいは完全に承諾しないで神にそむくことです。小罪は成聖の恩恵を失わせませんが、神の愛をきずつけ、煉獄の苦しみを招きます。また、小罪を重ねることによって、大罪に陥る危険も大きくなります。
 

a.大罪とは
 ロ−マ・カトリック教会にとって、罪とは自由意志をもって意識的に神にそむくことと説明しています。大罪については、はっきり意識し、完全に承諾して、神にそむくことと説明しています。また、神の愛から離れることとも説明しています。この二つの定義に共通している大前提は、自覚的自由意志があるかないかです。自分の自由意志によって神にそむく時、罪となるということです。また、自分の自由意志によって神に逆らうことをせずに従順であるならば罪人でないことになります。聖書は、アダムの末として生まれた人間は意識があろうがなかろうが罪人であるといっています。人間は、みんな生まれながら罪人であり、罪人の頭です。
 ロ−マ・カトリック教会において、罪人が救われるというのは、神の恵みであるが道徳や功徳が必要である、といいます。つまり、努力が必要であるということです(この問題は後で述べます)。彼らは、イエス・キリストを信じて義とされた者は、道徳的生活を努力をして生きていかなければならないとします。この道徳生活がある基準を下回った場合、救いの恵みが破棄され、神の命を失うとしています。従って、救われた者が永遠の命を失わないように道徳的生活をしなければならない。この努力を怠った時、永遠の命を失うということなのです。これが、キリスト者にとての大罪です。
 彼らは、十字架の救いを否定していることになります。また、この大罪を犯さないように道徳的努力をします。ですから、ロ−マ・カトリック教会の人々は、ボランテヤ活動に対して熱心である、ともいうことが言えます。
b.小罪とは
 小罪は、直接に神の恵みや永遠の命を失うことはないとしています。この説明によると小罪には、二種類の区別があることがわかります。それは、@故意に承認して犯す罪 A過失や無意識に犯す罪の二つです。この故意罪や過失罪ということは、よく理解できます。しかし、問題はこれらをどうように理解し取り扱っているかです。これらの罪について、「矯正と努力があるかないか」ということが中心の問題なのです。特に、矯正と努力がない場合、大罪に陥り恵みと永遠の命を失うとしてるのです。逆に言えば、矯正の意志と努力があるところでは問題にならないということなのです。練獄についての問題は、後で説明します。
 結局、大罪と小罪の差は、量的な差ではなく質的な差ということです。悔い改めではなく、努力が必要なのです。

2.救いと神の救いの計画問題について

 私たちプロテスタント諸教会にとって、救いといえば十字架以外にはありません。聖書には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒行伝4:12)と宣言しています。どころが、ロ一マ・カトリック教会はどうもそうではないのです。この問題も、少々複雑になります。上記で使いました用語、道徳という問題、マリヤ問題、聖人問題、
などが絡んでいるからです。一つ一つ整理して述べることにします。

《神の救いの計画と救い》
 神の救いの計画について、基本的な理解は共通しています。カトリック要理 第5課 救い主の計画の項に次のように説明しています。

17 堕罪した人間を救うためには神はどのような計画をなさいましたか。

神は、堕罪した人間をあわれんで、救い主イエズス・キリストをおつかわしなり、キリストを通して人間を罪から解放し、キリストのもとに全人類を一つに集めることになさいました。
 
このように、この問題については基本的には共通しているといえます。しかし、イエス・キリストの救いに預かるために善業が必要であるというのです。ですから、どうしたら救いに預かるのか、という点において違いがあるのです。新カトリック教理には、「神の働きは、私たちに責任と発展をあきらめさせるのではない。却って、私たちがあるだけの方法で、罪と悪とみじめさに自ら働き、善業をつみ、愛することができるように私たちを解放してくれる」1)と説明されています。つまり、救いは神からの恵みとしての賜物であるが、この恵みを維持するため、救いの完成に至るために善業を積めといっているのです。ですから、「われわれが、キリストの救済にあずかり、天国の幸福を受けるためには、神よりの恩恵を賜り、善業をもってこれに応じなければならない」2)ともいうのです。救いを受けることについて、カトリック要理 第12課 神の恩恵という項に次のように説明しています。

成聖の恩恵・助力の恩恵

53 神の恩恵とはどういうものですか。

神の恩恵(恩寵)は人間をイエズス・キリストの救いにあずからせる神の恵みです。この恩恵は、神との特別な交わりと聖霊の働きを意味し、人間の本性と能力を越えているので「超自然の恩恵」とよばれます。
エペソ2:4ー8を引用しています。
この神の恩恵には、成聖の恩恵と助力の恩恵とがあります。

54 成聖の恩恵は何を意味するのですか。

成聖の恩恵は、人間を神の前に正しいものとして、神との親しい交わりに入らせ、神の子とし、神の生命にあずからせ、永遠の喜びを得る資格を与えます。なお成聖の恩恵を受けている人の内には父と子と聖霊が特に親しくお住まいになっておられます。
Tコリント6:11 ロ一マ8:15一17 Tコリント3:16 6:19
ヨハネ14:23 エペソ5:3 コロサイ3:12 ガラテヤ5:22 ロ一マ6:22 ヤコブ3:2 マタイ6:12引用しています。
 
55 助力の恩恵は何を意味するのですか。

助力の恩恵は救いを得させるために、人間の心を照らし強める神の助けです。この恩恵によって人間は信仰をいだき心を改め、義人は聖性にすすみ、死ぬまで成聖の恩恵を保つことができます。人間は神の恩恵を受け入れ、それに従うようにしなければなりません。
ピリピ1:6 2:12一13が引用されています。

以上のように説明しています。ロ−マ・カトリック教会独特の表現ですから、ちょっと頭の中が混乱してくるはずです。彼らは、人間が救いに預かるのは聖霊の助けによる神の恵みである、といっています。それは、そのとおりです。しかし、恵みには、二種類あるというのです。それが、「成聖の恩恵」と「助力の恩恵」ということなのです。これらを、簡単にいうならばこのようになります。

a.成聖の恩恵とは

 天国に入る資格を指します。ですから、キリストにある霊的ないのちです。ヨハネによる福音書3章3節にあるように、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」を引用します。そして、この霊的ないのちはイエスの御名を信じる者に与えられる恵みということなのです。さらにこの恵みは、イエスの御名を信じる者の内に、三位一体の神が内住する恵みと理解します。つまり、パウロのいう「信仰義認」をいっているような感じがします。しかし、この救いの恵みについて、プロテスタント諸教会が理解するようには受け取っていません。むしろ、ロ一マ・カトリック教会は、「われわれの有する神的生命は善業(祈祷と秘跡とを含む)によって増加する」というのです。
 さらに、三位一体の神が内住する、という問題です。確かに私たちが、イエスの御名を信じた結果、神との破れは回復し新しい命の中を生きる者となります。そして、聖霊なるお方は内住されます。しかし、聖霊なるお方に心の人生の王座を明け渡しているでしょうか。自分の肉が王座を占めているのが現実です。ですから、聖霊の導きに私たちは従えないのです。パウロは肉につて、「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためにあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようにものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、めたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(ガラテヤ6:17一21)と説明しています。罪と死の法則の奴隷になっているのです。この法則と原理から解放されるために十字架に帰る必要があります。
 パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きておられるのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という聖化の経験が必要であることをいっています。このキリスト経験をとおして初めて、心と生活の王座に聖霊が座り一切を支配して下さるのです。この経験をとおして、いのちの御霊の本則・原理の中で生きる者になるのです。こうして、従えない者が従える者に変えられるのです。ジョン・ウエスレーは、この経験について「第二の転機」「聖化の経験」などといいます。この経験こそが、内住のキリストが王座を占め、神の宮としての歩みをするのです。

b.助力の恩恵

 この助力の恩恵ということについて、ロ一マ・カトリック教会の神学者や司教たちは次のように説明します。彼らは、神は人間の一生を通じて恵みが注ぎ続けているが、この恵みに対して応答することが大切であるとします。その応答として、善業を営むことによって霊的生命が与えれ、その維持と成長が与えられると理解しています。つまり、信仰の土台の上に善業の実を結ばなければならないとしているのです。結局、ヤコブのいう「行為義認」をいっているのです。
しかし、このヤコブの行為義認についての理解は誤った理解です。
 このように、二種類の恵みについて説明しました。しかし、何がなんだか混乱をしたのではないかと思います。この「成聖の恩恵」と「助力の恩恵」の関係について述べてみます。
 この二つの関係は、ロ−マ・カトリック教会にとって、恵みと恵みの維持の関係ということです。さて、成聖の恩恵の聖書的根拠としているいくつかの聖句を引用しています。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ書2:8一9)

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によるようにと・・・
                         (ロ一マ9:11以下)
このように、罪からの救いは神の賜物であり神からの一方的な恵みであると説明しています。この点においては、プロテスタント諸教会も同様です。ロ一マ・カトリック教会の神学者カ−ル・ラ−ナ−も業ではなく信仰による以外に救いはない、と主張しています。この点について、共通しているとも認めています。しかも、カ−ル・ラ−ナ−はこの恵みについて、「・この恩恵のみ・という思想は、キリスト教的かつカトリック的心情において見いだされるものなのである」5)といいます。この「神の恵み」を思想としているのは、いささかうなずけません。この恵みは思想ではなく、歴史的事実です。詳細なことはさておいて、救いについて「信仰のみ」を承認するという点においては同じであるということです。
 さて、問題は助力の恩恵ということです。彼らは、今述べたように「信仰によってのみ」救われるといいます。しかし、この救いの恵みを維持していくために必要なものは、善業であるとします。戸塚文卿司祭は、「神は恩寵をわざによらずして与えたもうのであるが、われらは自由意志をもって、ふさわしくこれに協力し、信仰の土台に善業の実を結ばなければならない」6)と説明しています。このような理解を「善業必要説」といいます。この善業必要説の聖書的根拠をどこに求めているのでしょうか。

ああ愚かな人よ。あなたは行いのないに信仰がむなしいことを知らないのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありあませんか。(ヤコブ2:20一21)

行いのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)

ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことは決してありません。(Uペテロ1:10)

これらのことを行っていれば(新改訳)  → これらの善業を行っていれば                                (カ)

だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば決して罪に陥ることはありません。 (新共同訳)

これらの聖句を根拠に、聖書が善業を求めていると主張しています。さらに、それらを支える聖句として以下のように引用します。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(Tコリント13:2)

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。
                           (マタイ7:21)
いくつかの聖句を検討し釈義していきましょう。その上で、ロ一マ・カトリック教会の主張が正しいか否かを判断する必要があります。
 ヤコブがいうところの「行いによって義と認められた」「行いのない信仰は、死んでいるのです」ということは、何を意味しているのでしょうか。ロ一マ・カトリック教会が理解するように、善業によって義とされる、救いの恵みを維持する手段として理解・解釈することは困難です。困難どころではない、無理です。
ヤコブは行為義認の問題ついて、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないによって全うされ」(ヤコブ2:21−22)といっています。創世記の記述を見ても、アブラハムが善業によって義と認められたという内容はありません。むしろ、信仰によって義とされています。
 ヘブル書には、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクを献げました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとり子をささげたのです。・・・彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは、型です」(ヘブル11:17−19)と記述されています。アブラハムには、復活信仰が与えられていたのです。また、全焼のいけにえ(献身)として最も大切なものを神に献げたのです。アブラハムは、この行為によって義と認められたのです。行為義認とは、そういうことを言うのです。どこにも、善業によって義と認められたなどとは書いていません。
 ペテロが「これらのことを行っていれば、つまずくことは決してありません」といっている意味は、どういうことでしょうか。ペテロが、この手紙を書いた理由は「偽教師が出現したから」なのです。この点については、ユダの手紙の背景と同じです。その内容の中心は「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」(Uペテロ2:1、ユダ4)ことです。つまり、「贖いの十字架の否定」ということです。彼らは十字架のキリストを否定し、不敬虔な者であり、汚れており、肉欲と好色を愛する(Uペテロ2:2、10、14、ユダ4)生活をしていました。そればかりか、迷っている多くの者を誘惑し(Uペテロ2:14、18)福音から離れされなした。また彼らは大胆で、尊大な者であったのです。一見彼らのいうことは、最もらしく聞こえるのです。しかし、その教えと行いにおいてイエスの十字架と贖いを否定しているのです。  
 ペテロが、Uペテロ1:10において「ますます熱心に」というのは、1:5の「あらゆる努力」を受けて用いている言葉です。「召されたことと選ばれたこと」とは、神がキリスト者をご自分の目的のために用いようとされていることを意味しています。召された者は、召しにふさわしく歩むことが求められているのです。つまり、クリスチャンはイエス・キリストから委ねられた使命に生きるということです。決して、善業を行っていれば救われる、などとはいっていません。まして、救いの恵みを維持するために善業を積めなどといっているのではなりあません。むしろ、なぜ召されたのかが大切です。それは、使わされるためです。
 ヨハネは次のようにいっています。「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハネ15:16)と。実に、私たちが召されたのは、神の約束された御国を受け継ぐためであり、実を結ぶ人生を生きるための選びです。しかも、キリストの使徒として生きるためなのです。
 ここでペテロが、「確かなものとしなさい」といってうのは、神の召しと選びは人間の努力に根拠があるのではない。神の恵みを日々の生活の中で、新しく召しと選びを確かなものとしなさい、ということです。というのは、神の召しと選びの中にとどまり自己満足している人々が存在したからです。そうあってはならないのです。もし、そうであるならば、そこには「つまずき」が始まっているからです(エペソ1:18ー19、ピリピ3:14)。私たちは、ペテロがいうように熱心に、召しと選びを確かにする為に使命に生きることです。パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)といいます。このように、使命に従って歩むのです。このことを行っていれば、つまずかないのです。決して、善業を行うようにとはいっていません。
 戸塚文卿司祭は、「私は、善業すなわち道徳は義とされるに必要か否かとの問題にうつる。われらカトリックはそれを次のように考える。われわれはただ信仰のみによって救われることはできない」7)といます。では、救われるためには何が必要なのか。人間の救霊は神の有効なる恩恵と人間の自由意志との協力による8)というのです。やさしい教理問答の210の項には、次のようになっています。

210 助力の恩恵は救いを得るために必要ですか。

助力の恩恵は、救いを得るために、すべての人にとって、必要です。

まさに、自己矛盾がおこっているとしかいいようがありません。ロ−マ・カトリック教会にとっては、神からの一方的恩寵としての救い(成聖の恩恵)と善業としての道徳的行いや功徳を積むこと(助力の恩恵)による救いなのです。一方では、信仰義認をいい、一方では行為義認の間違った理解をもって努力を求めているのです。結局、救いの二重、三重構造ができているわけです。このような理解について、「神人共働説」といいます。これはまさに、人間の救いは神と人間の共働の業によるという説です。救いのためには恵みに対する人間の協力が可能であり必要であると主張します。同時に、この協力すら神の恵みの先行によるということを明確しています(トリエント公会議 DC1525以下参照)。結局、十字架否定をいっています。まさに、それは福音ではありません。 イエスは、十字架上で「すべてが終わった」と語り命を引き取りました。この意味は、「救いが完成した」という意味であることはいうまでもありあません。また、パウロは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。・・・『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」(ロ一マ10:9一13)といっています。
 やさしい教理問答の116と117には、罪の赦について次のように説明されています。

116 神は、何によって人の罪をおゆるしになりますか。

神は、イエズス・キリストの御功徳によって、人の罪をおゆるしになります。

117 罪のゆるしは、どうして得られますか。

罪のゆるしは、自分の罪を痛悔して、イエズス・キリストのお定めになった洗礼、あるいは告解の秘跡を受けることよって得られます。
このように、十字架は否定されています。そして、洗礼と功徳が罪の赦しの根拠とされているのです。

3.善業必要説の問題について

 いままで説明してきましたように、ロ一マ・カトリック教会は救いには善業が必要であるといいます。この彼らの主張に少し耳を傾けてみることにします。

公教要理問答

340 その行う善業は永遠に報いられる価値のあるものとなります。

ここでいう「永遠に報いられる価値」というのは、善業の功徳のことをいいます。紀元529年に開かれた、オランダの宗教会議において「われわれの行う善業は報償に値する。されど、善業に先立つ神の自由な賜なる恩恵は、善業の欠くべからざる条件なる」と決議しています。そして、この「徳」について、やさしい教理問答に次のように説明されています。

194 徳とは何ですか。

徳とは善を行い、悪をさける習慣です。

しかも、この徳にはいくつかの種類があるのです。

195 超自然徳とは何ですか。
196 信仰の徳とは何ですか。
197 希望の徳とは何ですか。
198 愛の徳とは何ですか。
199 キリスト教の完徳とは何ですか。

このように、「超自然徳」を「信仰の徳」「希望の徳」「愛の徳」の三つに分類しています。そして、「キリスト教の完徳」を特別なものとして扱っています。さらに、続けて教理問答にはこうなっています。

201 完徳をめざして励むには、どうしたらよいのでしょうか。

完徳をめざして励むには、イエズス・キストの模範をあおいで、教えをよく学び、熱心に祈り、秘跡をたびたび受けるようにします。そして常に、自分にうちかち、悪は小さいことでもこれをさけ、つらいことをもがまんして、人々に奉仕するようにつとめることです。

ここで、「超自然徳」について少し説明をしておきます。この超自然徳とは、「超自然の善を行うために、神の超自然の御働きによって与えられる徳です」と教理問答には説明されています。徳の定義と超自然の定義を検討してみると次のようなことがわかります。第一は、善業をおこなうために神の力が必要 第二は、「超自然の善を行うため」の神的善ということ、この二つです。何が、天国の報酬に値する善業であるか、という善業が功徳を生じる条件として述べています。要約してみます。
@悪しき行為であってはならない。これは倫理的意味ではない。さまざまな誘惑に勝つ  こと事態が報酬を受けること。
A善業は自由意志より出たものでなくてはならない。
B功徳が積めるのは、この世においてのみである。
C成聖の恩恵(恵み)を求めても功徳を積むことができないのは葡萄の木であるイエス  につながっていないから報酬を受けられない。
D永遠の報酬に値する善業は超自然的善業でなければならい。そして、助力の恩恵を受  ける。
E超自然的功徳を得るためには、超自然的な動機(目的)が必要である。
  
 彼らが、この一つひとつの内容の聖書的根拠としている、聖句を検討していきます。Aについての聖句は、

 ああ、私が福音をのべないなら、禍いなことだ。私が、すすんでそれをするなら報いがある」              Tコリント9:17(ドン・ボスコ訳)
 
 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には努めがゆだねられているのです。
                                        Tコリント9:17(新改訳)

  イエズスは、「なぜよいことについてたづねるのか。よいお方は、ただ一人である。あなたが命に入りたいのなら、掟を守れ」とお答えになった。
                    マタイ19:17(ドン・ボスコ訳)

 イエスは彼らに言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。                                        マタイ19:17(新改訳)

Tコリント9:17は、「報い」という言葉の解釈の問題です。パウロは、ここで何を意味して「報い」と言っているのでしょうか。この箇所の前後関係からわかる問題は、「権利」の問題です。これの内容は、生活費を受ける権利です。パウロは、キリストの福音に少しも妨げにならないように権利を行使しませんでした。しかも、9:18においてパウロは「では私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです」といっています。つまり、「福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与える」こと自体が最高の「報い」なのです。彼らがいうように、「さまざまな誘惑に勝つこと事態が報酬を受けること」という意味ではありません。
 マタイ19:17は、富める青年の話です。この話は、19:16一30です。この19:16の「ひとりの人」というのは誰か。20一22節には「青年」であり、ルカ18:18によれば「役人」です。このひとりの人は、マルコ10:17によれば「走りよって、御前にひざまずいて、尋ねた」とあります。この話の全体から熱心な求道者であることがわかります。彼は、まじめであり、人望もあり、財産もあり、熱心に求道するこの青年の唯一の関心はなんでしょうか。それは、「どんな良いことをしたら、永遠の命を得ることができるか」ということです。永遠の命が何か善業をすることによって得られると思っていたのです。この理解は、パリサイ人的な考え方です。
 この青年にイエスは、戒めを守るように求めたのです。イエスが要求した戒めは、モ一セの十戒の後半の要約です。これは、人間関係における義務です。この要求に対する、青年の答えは「そのようなことはみな、守っています」ということでした。しかし、戒めを厳格に守っていても永遠の命を得ることはできないのです。イエスが、この青年に求めたことは功徳によって永遠の命は得られないということです。にも関わらず、ロ−マ・カトリック教会は戒めを守れといいます。これは、明らかに非聖書的理解ということになります。むしろ、イエスは富に捕らわれた自我の罪をいっさい捨てて従うように求めておられるのです。イエスは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私に従って来なさい」(11節)といいます。この青年は、悲しんで去っていったのです。その後、イエスは弟子たちに「金持ちが神の国に入ることはむずかしい」といわれました。この「むずかしい」について、不可能と理解する人もいます。永遠の命は、功徳のよって得られるのではなく頑固な自我を捨ててキリストに従うこと以外に得ることはできないのです。 
 むしろ、自由意志をもって自我を捨ててキリストに従うことが大切なのです。

Bについての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明しています。

私をおつかわしになった方のみわざを、私たちは昼の間におこなわなければならない。夜がくれば、だれもはたらけない。
                     ヨハネ9:4(ドン・ボスコ訳)

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜がきます。
                         ヨハネ9:4(新改訳)
私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体でおこなったきおとの善悪にしたがって、報いを受ける。
                                    Uコリント5:10(ドン・ボスコ訳)

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体あってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
                                         Uコリント5:10(新改訳)

ヨハネ9:4について考えてみましょう。ヨハネ9章は、盲人の癒しについての記述です。ヨハネ7章から仮庵の祭りを背景とした論争と「私は世の光である」というイエスの主張が述べられています。この9章は、ヨハネの福音書における第6の奇跡として盲人の開眼の奇跡が記述されています。ユダヤ人たちは、霊的盲目であったのです。そのため、イエスが神から遣わされた世の光であることを認めることができなかった。しかし、イエスがこの生まれつき盲人の眼を開眼するしるしを見せて下さった。このことは、イエスは肉眼だけではなく霊的な眼の開眼を与えるお方であるとことを示しています。まさに、イエスは人を闇の世界から光の世界に導くお方であるということです。従って、「わたしたちは、わたしを遣わした方」とは、イエスの公的宣教の時ということを昼という象徴的な表現をもってあらわしています。この場合、「わざ」というのは、宣教のわざのことです。イエスが世の光であるように弟子たちも世の光なのです。この宣教の使命にイエスは弟子たちを参与させようとしておられるのです。決して、昼の間に功徳を積み善業を行えといっているのではありません。
 Uコリント5:10について考えてみましょう。この聖句の「キリストの審判の前で」というのは、キリストの絶対的審判を意味しています。神の審判は、神の聖さと公平を意味しています。なぜ、パウロはこのようなことをいうのでしょうか。それは、パウロは死を憧れていたのです。それは、キリストに喜ばれ神の栄冠を得ることに対する憧れです。この憧れが、パウロを使命に熱心な者としたのです。イエスから与えられた使命を果たすために、肉体がなければできないのです。この肉体をもって、神の意志を行うことも悪を行うこともできるのです。従って、パウロは肉体をもって、キリストに喜ばれるように用いたいという願いからいっているのです。決して、明るいうちに功徳を積めように勧めているのではなりません。

Cについての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。
 
あなたたちは、私の語ったことばを聞いたことによって、もう刈りこまれたものである。私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。私はぶどうの木で、あなたたたちは枝である。私にとどまっていて、私のかれらのうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちはなにひとつできないからである
                                    ヨハネ15:4一5(ドン・ボスコ訳)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたたがたは何もすることができないからです。
                                        ヨハネ15:4一5(新改訳)

 彼らは、ぶどうの木であるイエスに一致すればするほど、成聖の恩恵(信仰義認)が増加するとしています。ここで、聖人問題が登場します(この聖人問題は後で説明することにします)。彼らは、聖人と凡人を区別して理解します。聖人は凡人よりも成聖の恩恵である神の永遠の命に溢れているとしています。そして、功徳の多いのは聖者の祈祷と償いであり価値があるとするのです。この聖人の功徳にイエスは感動し心動かされるのであると信じています。従って、ぶどうの木であるイエスに、しっかりと結合しているのは聖人であって凡人ではないと理解しているのです。ぶどうの木であるイエスに結合しきれていない凡人は、聖人の力を必要とします。そして、その根拠として、「わたしのしもべヨブは、あなたがたのために祈るであろう」(ヨブ記42:8)を引用します。ヨブのように取りなしの祈りをしているというわけです。このようなことから、彼らは聖人の代理祈祷を好むのです。
 ヨハネの福音書15章は、イエス・キリストと私たちの関係をぶどうの木と枝で譬えています。イエスを信じ、罪を悔い改め救いの恵みを受けた者は、ぶどうの木と枝の関係に入るのです。その結合が、中途半端であるとかないとかということは問題ではありません。しっかりと結合しているのです。しかし、問題は不必要な枝があることです。葡萄酒は、ぶどうの実から造ります。良質な葡萄酒は、良質な葡萄がなければつくれなせん。どのようにしたら、良質な葡萄がつくれるのか。それは、栄養が分散しないように無駄な枝を栽培人は切り落とすことなのです。この作業によって、肝心な葡萄そのものに栄養が行き届くのです。無駄な枝とは何か。それは、神を第一と出来ない事柄です。神は、それを切り取られるのです。 キリスト教会は、イエス・キリストの十字架の贖いによって集められた共同体です。また、キリストのからだです。キリストのからだ(木)に、結合された者(枝)となったのが私たちです。神の側からしてみれば、結合された者です。しかし、人間は自分の自由意志によってそれを拒否することができるのです。私たちが、ぶどうの木であるイエスに、とどまり続け無駄な枝を切り落とされるとどんな実を結ぶのか。イエスは、「わたしがこれらのことをあなたがたに話たのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)といっています。つまり、喜びの実を結ぶのです。この喜びは、完全な喜びです。イエスに従い、愛と戒めの中にとどまる生涯は、苦痛ではなく喜びになるのです。ですから教会は、喜びの満ちているところであるのです。従って、ロ−マ・カトリック教会のように功徳を積むつまないの問題ではなく、イエスに従うか否かの問題なのです。
 ヨブ記42:8についての問題も同様です。ヨブは確かに、友人たちのために取りなしの祈りをしています。これは、聖人ヨブが功徳を積むことのできない友人たちのために取りなしの祈りをしている、ということではありません。私たちが、人々のために取りなしの祈りをするように、ヨブは友人たちのために祈っているのです。決して、功徳が足りない友人たちのために祈っているのではありあません。
 
Dについての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。

神はモ−セに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」といわれました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
                                          ロ−マ9:15−16(新改訳)

何事かを自分のしたことと考える資格は私たちに自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
                                              Uコリント3:5(新改訳)

神はモーセに「私は、あわれもうとする者をあわれみ、情けをかけようとしる者に情けをかける」と言われた。こうして、選びはのぞむ者、走る者にかぎらず、神のあわれみによる。
                                  ロ−マ9:15−16(ドン・ボスコ訳)
 

何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。いや、私たちに資格を与えたのは神である。
                                      Uコリント3:5(ドン・ボスコ訳)

パウロはロ一マ書9章において、選びの問題につて論じています。それは、選民イエスラエルがキリストの福音を受け入れないままで、神に捨てられている状態にあるのかということです。パウロはモ−セの例をあげ、神の選びは専制君主的な決定によるのではない。ただ、神のあわれみによる選びによるといっているのです。なぜなら、神は全く自由であり誰からも束縛されることがないお方です。神は、あわれみたいと思う者をあわれみ、いつくしみたいと思う者をいつくしむことができるお方のなのです。それは、人間の正義や倫理や善業を越えた、神の主権的自由なのです。それは、神が絶対者であることの当然の結果なのです。
 ロ−マ・カトリック教会は、天国の栄光は、人間の努力によって得られるものではない。神の助力がなければ無理であるとします。それは、神の助力がなければ善業をする力がないという理解なのです。もちろん、罪人である私たち人間は、救われる資格はありません。しかし、資格がないからといって、神の力を受けて善業することによって救われるのでもない。あくまでも、神の一方的な十字架の恩寵によるのです。そして、恩寵による選びなのです。
 Uコリント3章における問題はなんでしょうか。パウロは、この箇所において福音宣教の資格について語っているのです。決して、パウロは福音宣教の適格者とは考えていません。むしろ、不適任者であると考えています。そのような者が、神のあわれみと恵みによって資格を与えられているというのです。パウロは、自分の働きが、自分の力によるものではないことを十分に知っていました。神の恵みが、自分の弱いところを支え用いて宣教の働きをさせてくださっている確信にたっているのです。福音宣教の資格は、神から与えられているのだというのです。
 パウロは救われるための資格や福音宣教の資格はないが、恩恵の助力によって資格を与えられた、といっているのではない。福音宣教の資格は、神から与えられるといっているのです。パウロは、善業を肯定しているのではないことがわかります。

Eについての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。

人に見せるために人前で善業をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。・・・彼らはすでに報いを受け取っているのです。・・・隠れた所で見られておられるあなたがたの父が、あなたに報いてくださいます。・・・彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
                                            マタイ6:1−16(新改訳)

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
                                          Tコリント13:13(新改訳)

人にみせびらかそうとして、他人の前に善業を行わないように気をつけよ。そんなことをすれば、天においでになるあなたたちの父からの、すべてのむくいがうけられない。だからほどこしをする時には、偽善者が、人の尊敬をうけようとして、会堂や町でするように自分の前でラッパをならしてはいけません。・・・そいう人はすでにむくいを受けとってしまったのである。・・・あなたがたの父がむくいをくださる。・・・そうすれば、かくれたことをごらんになるあなたがたの父が、むくいてくださる。
                                    マタイ6:1−16(ドン・ボスコ訳)

今あるものは、信仰と希望と愛の三つである。その内でもっとも偉大なものは愛である。
                                  Tコリント13:13(ドン・ボスコ訳)

マタイ6:1一16の問題について検討してみましょう。この箇所を分解すると細かくなります。従って、私は大きく一言でこの箇所のテ一マを「報酬と動機」とつけました。ユダヤ社会の宗教生活には、三つの善なる柱となるべき行為があったのです。それは、@施しA祈りB断食の三つです。イエスは、決してこの三つを否定してはいません。しかし、しばしばこの三つの事柄に関して、間違った動機でなされていたのです。イエスは、このことについて警告を与えたのです。それは、神の栄光のためになす行為であるべきものが、自分の栄光のためになされているのです。つまり、施しをする行為の動機が間違っているのです。施しをする人々の中に、自分の寛大さを示し、感謝と賞賛を集めようとしていることが少なくなかったのです。祈りについても同様です。人々の中には、神と語るのではなく人々に語りかけるように祈るのです。そして彼らは、いかにも信仰深いように演技しているのです。断食も同様です。断食の時、神の前でへりくだるのではなく、人々の前でへりくだるのです。いかにも、自分が義人であり忠実な者であることを見せようとしているのです。
 このような、人々に対してイエスは警告を与えています。この「報い」という理解自体は、聖書的な主張の一つです。しかし、これはご利益、功徳を意味しているのではない。正しい意味での理解を欠くと非聖書的になってしまうのです。パウロは「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ロ一マ2:6)といっています。ここでパウロは、善業によって救われるといっている意味ではないことはいうまでもありません。
 Tコリント13:13の問題は、善業・功徳について肯定的な意味で愛の業を求めているとしているのでしょう。確かに、愛の業は大切です。しかし、その動機が問題です。私たちが報酬を計算に入れた、愛の業を行ったらどうでしょうか。それは、愛ということができるでしょうか。むしろ、計算高い、腹黒いといわれてしまいます。愛は、報酬を期待しないのです。愛は、どこから来たのでしょうか。ヨハネは、「愛は神から出ているのです」(Tヨハネ4:7)といっています。ですから、愛を求めるということは神を求めることなのです。それは、十字架のイエスを求めることです。また、豊かなキリスト経験をすることです。ロ一マ・カトリック教会のように、救われるために善業・功徳としての愛を求めろ、ということではありません。また、救われるために純粋な動機が必要であるというのでもありません。むしろ、聖書は救われるためには「求め」が必要であるといっています。イエスが道を通っている時、二人の盲人が大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫び続けています。イエスが、ツロとシドンの地方に行かれた時、カナン人の女が叫び声をあげて「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けています。サマリヤの女との出来事においても同様です。この女は、「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と求めでいます。イエスは、求める者を救いを与えて下さるのです。決して、救いのために善業・功徳をせよというのではありません。               パウロは、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても救いを受ける私たちには、神の力です」(Tコリント1:17一18)といっています。人間が救われるためのに、十字架以外の条件をつけてはいけないのです。今も昔も未来も、「十字架以外に救いはない」のです。
引用文献

1.新カトリック教理 J.ヴァン・ブラッセル著               エンデルレ書店
           山崎寿賀訳     P328
2.戸塚文卿著作集  カトリック読本    P105              中央出版社
3.新カトリック教理 オランダ新カテキズム 
  J.ヴァン・ブラッセル著 山崎寿賀訳  P311        エンデルレ書店4.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論
  カ−ル・ラ−ナ−著 百瀬文晃訳    P151          エンデルレ出版
5.  同                   P476
6.戸塚文卿著作集  カトリック読本    P107             中央出版社
7.  同                P 66
8.  同                             P112

4章 聖徒の交わり
 
 プロテスタント諸教会にとって、「聖徒の交わり」といえば教会の本質の一つであると信じています。また、この「聖徒の交わり」はもともと使徒信条の言葉です。しかも、この「聖徒の交わり」を明確にしたのは宗教改革者たちであるといわれます。「聖徒の交わり」はラテン語で Sanctorum Communio という言葉で表現しています。しかし、私たちと違ってロ−マ・カトリック教会は、別な意味で用いています。ロ−マ・カトリック教会は、この「聖徒の交わり」を「聖人たちの通功」と理解しています。        使徒信条については、基本的にロ−マ・カトリック教会もプロテスタントも同じです。しかし、あくまで基本的に同じなのであって部分的には違います。使徒信条の構造は、三つに分類することができます。第一は「父なる神について」、第二は「子なるキリスト」、第三は「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」です。この中で特に、ロ−マ・カトリック教会は「聖徒の交わり」を「諸聖人の通功」と訳します。その上で、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、諸聖人の通功、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」となるのです。そして、諸聖人の通功と罪の赦しを結びつけて、これは一つであるとするのです。諸聖人というぐらいですから、複数の聖人の存在を意味しています。この諸聖人との交わりについて理解するために、聖人とは何なのかを考えなければなりません。

1.聖人について

 ロ−マ・カトリック教会には、「聖人説」が存在します。実は、この聖人説にマリヤ問題も含んできます。ですから、聖人説に対する理解が必要であることはいうまでもありません。聖人とは、ロ−マ・カトリック教会において特別な信仰的な功績、功徳を積んだ偉大なクリスチャンのことです。この聖人と呼ばれる人々は、自分自身の功徳によって義とし、自分を救うに足る功績、功徳を積んだ人です。そればかりではなく、なお自分を救うための功績・功徳の余りがあるのです。つまり、余力があるのです。なぜ、そうなのか。聖人は霊界にとって神の傑作であるからです。そして、聖徳としての神の賜物なる恩恵が、聖人たちの霊魂の中に結んだ美しい果実であると信じられているのです。聖書には、聖人を創造したという記述がないのにも関わらず、聖人の創造をいうわけです。
 歴史的には、当時の教会が激しい迫害下にあり殉教した人々が少なくありませんでした。この殉教した人々を、崇拝したいという気運が高まったのです。また、教会の中に入り込んでいた異教徒たちが自分たちの習慣に従って殉教者を英雄あつかいました。その結果、殉教者を英雄あつかいから聖人とし、半分人間、半分神というような理解が生じることになったのです。彼らは、この歴史的背景を無視しています。
 ロ−マ・カトリック教会の理解によれば、教会の中には二種類のクリスチャンが存在するとしています。その第一は、自分の功徳・功績によって、自分を救うことのできる偉大なる聖人です。第二は、自分自身の信仰や功徳・功績で自分すら救うことのできない弱い、平凡なクリスチャンです。この偉大な聖人と弱い・平凡なクリスチャンの交わりを「諸聖人の通功」というのです。その中で最も大切な価値のある交わりが聖母マリヤと理解し信じるわけです。
 このように、ロ−マ・カトリック教会における交わりは、「功徳」「功績」「通功」が中心です。イエス・キリストが出てきません。カトリック要理を見てみましょう。

50 諸聖徒の交わりとはどのようなものですか。

諸聖人の交わりとは、キリストの神秘体に属するものがすべて、神の生命と愛によって結ばれており、互いに助け合うことです。そして、これは、この世に生活する信者の間だけではなく、天国に楽しむ聖人にも、練獄に苦しむ霊魂にも及びます。
@この世における信者の間に

この世に生活する信者は、ミサ聖祭、祈り、善業、犠牲、愛の働きと協力などによって互いに助け合います。

Aこの世の信者と天国の聖人

この世における信者は天国の聖人を崇敬し、聖人は、祈りと取り次ぎとをもってこの世の信者を助けます。また、天使も、天国においてかしらであるキリストに属していますから、信者を助けます。

Bこの世の信者と練獄の霊魂

この世における信者は、ミサ聖祭、祈り、善業、免責などをもって練獄の霊魂を助けることができます。すなわち、これらによって、練獄の霊魂の果たすべき責がゆるされて、天国の栄光に入ることができるように神の願うのです。
 
「死者のために、つなぐいけにえをささげさせた。それはかれらを罪から解き放つためである」(マカバイ記下12:46)
教会は11月2日を死者の記念日として、すべての死者のために祈ります。・・・私たちは同じように、すでに世を去った親族、恩人、友人のために、キリストにおいて一致しながら愛と感謝と援助の務めを果たすのです。同時に教会は初期のころから、キリストの母であり、すべてのキリスト者の母である聖母マリヤをはじめ、使徒と殉教者を崇敬し、その取り次ぎをいのり求めてきました。・・・永遠の祖国に入った聖人たちは、地上で主イエズス・キリストをとおして獲得した功績を示しながら私たちのためにキリストにおいて父なる神に取り次ぎ、兄弟的配慮をもって私たちの弱さを助けているのです。旅する教会は天国の聖人を崇敬し、聖人の模範にならい、その取り次ぎを願い聖人に励まされて自分の終末的完成への認識を深め、希望を深めます。また聖人との交わりは、私たちを主・キリストにいっそう密接に結び合わせます。なぜなら、聖人と私たちが受けているすべての恩恵を生命は、唯一の仲介者であり、かしらである主・キリストから聖霊をとおして流れ出るからです。従って、聖母と聖人への崇敬はみな、必然的にキリストに向けられ、キリストをとおして父なる神に達します。そして旅する教会は、天上の教会とともに神を賛美しながらその終末的完成に進むのです。
                                              (教会憲章 49一51参照)

やさしい教理問答 第18課 

101 天国の聖徒は、どのようにして私たちを助けますか。

天国の聖徒は、自分のてがらを私たちに分け、また私たちの祈りを神にとりついで、私たちを助けます。

このような説明の中で注意すべき内容があります。それは、「助ける」という表現です。ロ−マ・カトリック教会では、自力によって救いを得る人とそうでない人が存在します。彼らの中には、自力で自分を救い、他人をも救うことのできる功徳・善業を積んだ聖人がいます。この人々との交わりが、一般信徒にとって重要な事柄になるわけです。この理解が、背景にあって聖人崇拝が生まれてきます。彼らは、洗礼を受けるとクリスチャン・ネ−ムを必ずつけます。その理由として、いくつかいわれます。しかし、一番大きな理由は、自分に救いを与える守護聖人の名前をつけるのです。ですから、洗礼を受けたとき聖人と呼ばれる人々の中からクリスチャン・ネ−ムをつけるのです。
 私の母は、ロ−マ・カトリック信者です。私が子どものころ、ロ−マ・カトリックで幼児洗礼を授けたというのです。その時、私にクリスチャン・ネ−ムがつけられました。その名は、「聖パウロ」です。それは、イエス・キリストとの関係においてだけでは救われないが、聖人の助けを受けて救われると理解しているからです。
 ロ−マ・カトリック教会の月刊誌「あけぼの」の中に、百瀬神父のキリスト教入門講座があります。これは、読者の質問に答える問答形式になっています。その中に次のような質問がされています。

カトリック教会にはたくさんの聖人がいるようですが、いわば守護神と考えてよいのでしょうか。

そうですね。神道の守護神と似ているところがあります。違うのは、キリスト教でいう聖人とは神として祀られるのではなく、やはり私たちと変わらない人間ですが、神の恵みによって生かされた人たちだ、という点でしょう。
 これまでも「聖徒の交わり」について何度かお話ししましたが、キリスト教では、神の子らが神の命を共有する一つの家族であること、すでに世を去って神のもとにいる者も、まだこの世の試練にさらされている者も信仰において結ばれていること、そして時間と空間を越えて互いに助け合うものであることを信じています。特に、カトリック教会では、すでに亡くなった人で、私たちの信仰の模範となるような人を、「聖人」として公に敬う習慣があります。聖人たちが天で私たちのために祈ってくれることを思い起こすことは、励みになります。
 カトリック教会で、洗礼を受けるときに自分の特別に尊敬する聖人の名を「洗礼名」としていただくのもそのためです。その聖人と特別に結ばれます。不思議なことに、長い間に性格が自分の洗礼名の聖人に似てくるような気がするのですが、私の思い過ごしでしょうか。私の洗礼名はペテロですが、やはりペテロの単細胞のところとか、そっくり受け継いでいるような気がします。
 教会で公に聖人と認められていなくても、亡くなった人で、私たちの心の中で親しく結ばれている人に、神の前で共に祈ってくれるようにお願いすることは、大きな助けになります。特に自分にはどうしてよいかわからないような困難に遭遇しているとき、聖人たちは私たえちを助けてくれます。ぜひ試してみてください。(あけぼの11月号 1991年)
 このように、ロ−マ・カトリック教会は私とイエス・キリストではなく、私と聖人との交わりが中心であることがわかります。
 この理解の線上にマリヤ問題があり、マリヤ信仰が誕生したわけです。ロ−マ・カトリック教会の人々にとって、マリヤは聖母マリヤです。そして、この聖母マリヤの存在は、絶対的存在者の位置を占めています。マリヤ問題は、聖徒の交わりの理解の線上であることは、もはやいうまでもありあません。ロ−マ・カトリック教会において、マリヤは諸聖人の中で最高の位置にある存在です。
このことに関して、「神の御母にして、恩恵充ち満ちてるマリヤは、絶対に独自的の特殊な被造物である。それゆえ、神学者は、一般に、唯一の神に向かう礼拝Iatria に対して、聖人に向かう尊敬を dulia と称して、これを区別しているが、聖母マリヤに対する尊敬を、特に hyperdulia と呼んで、聖人尊敬中の最高のものとなしている」1)と説明しています。なぜ、そうなのかを少々学んでみましょう。

2.最高聖人としてのマリヤ

 ロ−マ・カトリック教会において、マリヤは最高の存在です。彼らは、祈祷文をもっています。この祈祷文の中には、聖母マリヤに対する祈りが記述されています。このマリヤについて、「カトリック要理」あるいは「やさしい教理問答」を見てみましょう。

聖母マリヤ(カトリック要理)
諸聖人の中でもっともすぐれている方は、神の御母、処女聖マリヤです。それは、聖マリヤが神の御子の真の母として神の恩恵に満たされ、すべての聖人と天使とにまさった地位を与えられたからです。

「天使のお告げを聞いて、心とからだで神のみことばを受け、世に生命をもたらした処女マリヤは、真に神の母、あがない主の母として認められ、たたえられる。マリヤは子の功績が考慮されて格別崇高なしかたであがなわれ、緊密で解きえないきずなによって子に結ばれ、神の子の母になるという最高の役割と尊敬を授けられた。したがってマリヤは父の最愛の娘であり、聖霊の住まわれる聖所であって、このすぐれた恩恵のたまもののために、マリヤは天上、地上のすべての他の被造物よりはるかにすぐれている。マリヤはアダムの子孫として、救われるべきすべての人と結ばれているとともに、なお、「まことに(キリスト)の肢体の母である」(教会憲章53)

51 聖母マリヤがキリスト信者の母といわれるのはなぜですか。

聖母マリヤが神のみ旨を受け入れて救い主イエズス・キリストを人びとのためにお生みになり、十字架のもとでいけにえである御子イエズス・キリストに心を合わせて、すべての信者の霊的母になられたのです。
 
イエズス・キリストが、十字架の上から使徒ヨハネに向かって「これはあなたの母です」(ヨハネ19:27)と言われたのも、そのことを示しています。「あわれみの父は、女が死への役割をもったと同様に、女が生命への役割をもつようにと、母として予定された婦人の承諾が受肉に先だつことを望まれた。・・・・こうしてアダムの娘であるマリヤは、神のことばに同意してイエズスの母となり、こころから、いかなる罪にもひきとめられることなしに、神の救済のみ旨を受諾し、子のもとで子とともに、全能の神の恩恵によってあがないの秘義に仕えるために、自分を主のはしためとして子とその働きに完全にささげられたのである。
・・・こうして聖なる処女も、信者の旅路を進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に保たれた。マリヤは十字架のもとに立たれたが(ヨハネ19:25参照)、これは神のご配慮なしではなかった。マリヤは子とともに深く悲しみ、子のいけにえに母の心をもってみずからを結び合わせ、自分からお生まれになったいけにえの奉献に心をこめて同意された」(教会憲章 56、58)

52 聖母マリヤは地上の生活を終えた後、どうなられましたか。

聖母マリヤは、地上の生活を終えた後、その霊魂もからだも天国の栄光に上げられました。これを「聖母マリヤの被昇天」といいます。

「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤがよりよく似るものとなるためであった」(教会憲章 59)聖母は、神の特別な御計らいで、キリストの功徳によって原罪を免れたように、その結果である死の腐敗も免れました。

聖母マリヤは、キリスト信者の霊的母として、天国において全教会とすべての信者のために取りなしをしてくださいます。そのために教会は、信頼をもって聖母マリヤを仰ぎ、その取りなしを祈り求めます。「願わくは、われらの母たるを示して、われらのために生まれて御子となるをいといたまわざりしイエズスに、われらの願いを取り次ぎたまえ」(アベ・マリス・ステルラの歌)

107 聖母マリヤは教会のために何をなさいますか(やさしい教理問答)

聖母マリヤはキリスト信者の心の母として、天国で、教会とすべての信者のために、とりなしをしてくださいます。

以上の事柄を踏まえて、マリヤ信仰の実体と理解を要約すると次のようになります。三位一体の神の創造物の中で、最高の被造物はマリヤです。このマリヤは、歴史的には、人類最初のアダムの娘であるとしています。また、父なる神が最も愛した娘でもあるのです。従って、マリヤは聖霊の住まう聖所と理解し信じています。このようなマリヤは、御使によるイエスの受胎告知の時、心とからだで神のことばに同意しました。その結果、イエスの母となったのです。マリヤは、キリストの功徳によって原罪を免れ、生きたまま昇天したとします。そして、昇天したマリヤは、全教会と全信徒の取りなしをしていると規定しています。このマリヤは、「普遍的救済者」とも呼ばれています。ですから、このマリヤを賛美するとするのです。
 このように、「聖徒の交わり」というのは「諸聖人との交わり」「聖母マリヤとの交わり」とし規定します。そして、あくまでも救われるために諸聖人との交わりが必要なのです。また、ロ一マ・カトリック教会の教会形成は、聖人との交わりが中心ということになります。その実体は、功徳・功績を積み互いにそれを融通しあうことに信仰と教会形成の根拠を持つということなのです。さて、ロ一マ・カトリック教会がマリヤについてどうよな神学的な弁明をしているか見てみましょう。

3.マリヤの歴史的起源

 ロ−マ・カトリック教会は、マリヤに関する歴史的起源を芸術の分野に求めています。それは、聖母の最古の痕跡をカタコンブの種々の壁画、浮彫などに描かれているからです。どのように描かれているのか。マリヤが、単独で表現されているのは少ない。むしろ、キリストを中心にマリヤが描かれています。現在のロ−マ・カトリック教会に一度、訪ねられて確認するとよいでしょう。
 また、新約外典の中にも根拠があるとしています。新約外典を通して理解できることは、聖母が、一般大衆に人気があり大衆信仰の対象となったというのです。これが、教父たちの手によって正式の神学として「マリヤ論」が確立するようになったのです。そして、聖大アルベルトは「神であることの次には、神の母であることがくる」と証言してます。また、教父トマスは「神がその全能をもってしても、この地上においては『御言とペルソナ的一致したキリストの人生、神の御母聖マリヤ、および、義人に分かれるところの生聖の恩恵』以上にすぐれたものを作りたもうことは不可能である」とマリヤの位置を支持しています。これは、大問題です。それは、一般大衆が支持するしないという次元で判断していることになるからです。聖書を基準にしていないのです。E・ケアンズは「イエスの母マリヤ崇拝は、1854年には無罪懐胎の教義の公認となり、1950年にはその奇蹟的昇天の教義の公認となったが、590年ごろには急速に発達していた。聖書の間違った解釈と、経外福音書においてマリヤと関連している多くの奇蹟とは、マリヤに対する非常な尊敬を生み出した。4世紀におけるネストリウム派およびその他のキリスト論についての論争についての結果は、マリヤを『神の母』と真受するようになり、典礼のなかでもマリヤに特別の尊称が与えられるようになった」と説明しています。従って、ロ−マ・カトリック教会の理解や見解を承認することはできません。
 
4.マリヤの神学起源

 マリヤの神学的な起源は、どこに位置し見いだされるのか。それは、救済史の線上において位置づけられています。マリヤは、いうまでもないが救い主イエスの母です。彼らは、この母マリヤを共同救済者(共同補償者)と呼んでいます。

(1)救済史の線上でみるマリヤ
 救済史の中心は、いうまでもなくイエス・キリストご自身です。ペテロ神父は、イエス・キリストご自身は、アルファ(初め)でありオメガ(終わり)です。彼は、このアルファベットではアルファの次にベ−タがくるが、ここに意味があると説明します。ペテロ神父によれば、創世記に3章15節に「私は、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と記述されています。この「お前」とは「悪魔」のこと、「彼」とは救い主キリストのこと、そして、「女」とはエバを始めマリヤのことも指しています。このように早々と、マリヤが登場するとしてます。そして、イザヤ書においては、「見よ。おとめが身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)とマリヤについて預言されています。福音書の各所においても、マリヤの関わりについて言及されており、特にルカによる福音書においては詳しく述べられています。また、イエスの公の仕事は、十字架上でイエスがマリヤを母としてヨハネに預けることであったのです。ヨハネによる福音書には、「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。」(ヨハネ19:26)とあります。このように、イエスの生涯には、マリヤが終始関わっていたとします。さらに、黙示録には、「また、巨大なしるしが天から現れた一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には12の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた」(黙示録12:1−2)とあります。ここに出てくる「女」とは、マリヤであるといいます。そして、黙示録におけるマリヤは、女王、勝利者、人類の母としての姿であるというのです。これらの事は、車の両輪に譬えることができます。車は両輪がそろって、初めて前に進みことが出来ます。イエスとマリヤは車の両輪という関係なのです。
     
 マリヤの預言    マリヤの預言    受肉とマリヤ    十字架上のイエスとマリヤ   天上とマリヤ
────────────────────────────────────
(創世記3:15) (イザヤ7:14) (マタイ1:23)    (ヨハネ19:26) (黙示録12:1-2)
             (ル カ1:26-38)

 さて、ロ−マ・カトリック教会が主張しているように、マリヤ問題をそのまま受け入れてよいのでしょうか。検討してみましょう。 
 創世記3章15節には、「わたしは・・・敵意を置く」とあり、最後の文は「おまえの頭を踏み砕く」となっています。蛇(サタン)が、エバを誘惑しエバはアダムを誘惑した。アダムは、禁断の実を食し不従順の罪を犯した。このことについて、アダムはエバが悪いと言いう。また、エバは蛇(サタン)が悪いと言うのです。このように、罪は責任転嫁をします。しかし、本当の敵はサタンなのです。人間は、罪を犯し神から離れてしまいました。そこで、神は人間と蛇(サタン)との間に敵意を置くと言われたのです。このように、蛇(サタン)に対するさばきの言葉は、罪を犯した人間の救済的意味をもっているのです。ですから、このことを「原福音」と呼ばれています。
 また、「おまえの子孫と女の子孫」という言葉があります。この解釈について新聖書注解を引用します。新聖書注解には女の子孫について次の様に説明されています。

「信仰によって女の霊的な子孫になった、真の人類の全家族」「強情に、悪魔の霊的な子孫であることを示している堕落したアダムの子孫」が蛇の子孫であったり、女の子孫であったりする可能性を残す。蛇の子孫を人間以外の存在、複数の悪魔たち(ヤング)と考えることも可能であろう。しかし〈おまえの子孫〉はこの節の最後の二行では「おまえ」と変わっている。これはカイルが言うように、蛇の子孫は蛇、実は蛇を通して人間に加害する敵であるサタンと一つのものとされてしまっていることを示す。つまり解釈に当たっては、「子孫」という表現は余り重要な意味を持ってはいない。〈女の子孫〉もこの節後半では、単数男性の代名詞によって表現されている。しかし「女の子孫」という場合、個人でも集団でもあり得る。この場合、女がすべての人間の母となったことからは、人類全体と考えるのが当然であろう(カイル=デリッチ)。したがって、「女の子孫」は直接にキリストを指すと考えるのは良くいない。女はエバだけではなく、むしろ彼女に代わってマリヤを指す(フランシスコ会訳)とするのは文脈からどう見ても無理。したがって、ここでは人類の、蛇・サタンへの勝利が語られていることになる。この勝利が結局、イエス・キリストによってのみもたらされるものであることは、やがて進展する啓示の歴史を通して明らかになる。                                               (ロ−マ16:20)
                       (新聖書注解 旧約 1 P95)

このように、ロ−マ・カトリック教会におけるマリヤ理解は、文脈を無視した解釈であるということです。
 次に、「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」とあります。これは言うまでもなく象徴的表現です。蛇(サタン)は人間のかかとをかんで人間を殺すが、イエスは蛇(サタン)の頭をうち砕いて蛇(サタン)を殺す。パウロは「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ロ一マ16:19)と言っています。
 そもそもこのような理解は、「型」の解釈の問題です。アダムは、言うまでもなく「キリストの型」です。それに対して、エバはマリヤの型ではなく本来「教会の型」です。
 ヨハネ19:26は、イエスが十字架上で苦悩のただ中における状況が記述されています。十字架の下では、イエスの母と母の姉妹とクロパの妻のマリヤとマクダラのマリヤの四人がいます。この婦人たちは、イエスに忠実な人々です。これと反対に、四人のロ一マの兵卒たちの不忠実な姿が描かれています。これは、信仰と不信仰の人間の二つの姿を示しています。そして、イエスは自分の使命である贖われた人々との新しい交わりの創造をもくろんでいました。イエスは、十字架上で苦悩の内にありながら「母と、そばに立っている愛する弟子たちとを見て」霊的な基礎を創ろうとされたのです。その第一歩は、母マリヤに「女の方。そこにあなたの息子がいます」(26節)と言われたことです。このことによって、ヨハネはイエスの母を自分の母と同様に扱うように命じられたのです。そして、「この時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」(27節)のです。この行為は、血縁関係や同情や義理人情による人間的な交わりではありません。むしろ、キリスト者の聖徒の交わりです。それは、教会の交わりであり教会の責任にマリヤを委ねたということなのです。ロ−マ・カトリック教会が理解しているような、単なる十字架上のイエスとマリヤではなく教会との関係なのです。
 黙示録12一2はどうでしょうか。ここに登場してくる「女」はみごもっています。ローマ・カトリック教会において、この女というのは「マリヤ」であるというのです。しかし、本来この「女」というのは何か。この女について多くの解釈がなされてきた。この女は、マリヤを示しているのではなく、キリストが現れる母体としてのイスラエルを表しています。そして、やがてこの女は大患難時代にサタンから迫害されるのです。

(2)エバとしてのマリヤ
 この、マリヤの起源をどこに求めているのでしょうか。教会憲章56、58には「アダムの娘であるマリヤ」という一文があります。これは、本来のエバは神に従う事に失敗した。しかし、「新しいエバ」であるマリヤは神に従順であった。従って、マリヤはアダムの娘であり新しいエバなのだというのです。
 アダムの子どもについて、創世記4章1−2節には「カインとアベル」であることが記述されています。しかも、二人は男兄弟です。なぜ、マリヤは「新しいエバ」であり「アダムの娘」なのか。このように彼れらの主張は、キリストとアダムの比較を根拠にします。聖書は、キリストを第二のアダムと理解して比較します。そのように、マリヤはエバと比較することが可能であるとします。このマリヤとエバの比較について、アウグスチィヌスは「エバは嘆き、これ(マリヤ)は喜べり。エバは涙を流し、マリヤは胎内に喜びをいだけり。それは、彼女は罪人を、これは罪なき者を生んだ。私たちの種族の母は世界に罰をもたらし、私たちの主の御母は世界に救いをもたらせたのでる。エバは、罪の源であり、マリヤは功徳の源である。エバは殺して害をなし、マリヤは活かして助けたのである。彼女は打ち、これを癒す。従順は不従順に代わり、信仰は不信を償えり」といいます。何を言いたいのか。
 つまり、こういうことなのです。不従順なアダムの代わりにイエスが、誘惑の源であったエバの代わりにマリヤが起こされ、万事を回復してくださったということなのです。そして、エデンの園における誘惑の記述の順番を見ると次のようになります。まず、サタンがエバを誘惑します。その次には、エバがアダムをそそのかすのです。その結果、不従順になるのです。このように、アダムの犯罪は、エバのサタンの誘惑に対する同意によって始まったとします。
 この順番に従って、考えるのです。まず、神はエバの代わりのマリヤを立てました。エバは、サタンの誘惑に負けたが、マリヤは天使の受胎告知を受け入れたという比較をします。この比較には、正統性があるでしょうか。この二つの出来事の大きな違いは、一方はサタンであり一方は天使です。まして、天使の背後には神ご自身がおられるのです。メッセ−ジの出所が同じであれば、まだ比較もできるでしょう。しかし、基本的なものが違うのです。比較の対象になりません。まして、エバと創世記3:15の女との関係には、矛盾が生じます。この矛盾をどのように解決するのでしょうか。

(3)無罪性としてのマリヤ
 マリヤ問題の第一は、「マリヤ無罪説」に関することです。この問題についてロ−マ・カトリック教会の主張に耳を傾けてみましょう。ロ−マ・カトリック教会は、マリヤ無罪説を支持します。この問題が、信条として規定されたのは、1854年ピオ9世の教勅(Ineffabilis Deus)によるものです。このマリヤの無罪性を神学とした学者は、スペインの「レ−モンド・ルル」とスコットランドの「ドンス・スコ−トウス」です。この二人は、フランシスコ会の学者でした。
 マリヤの生涯は、常に聖霊に満ちていたので原罪をもっていなかったとします。、本来すべての人間が原罪をもった者として生を受けます。しかし、マリヤだけは原罪の汚れはさけて通ったのです。そして、キリストはマリヤのために罪人であることを防いでくださったのです。ロ−マ・カトリック教会中には、「マリヤには罪を犯す可能性さえなかった」と理解する神学者が少なくありません。このマリヤの状態について、「聖母はわれわれよりも、より完全にキリストに救われたものである」2)と理解しているのです。
 また、この表現から言えることは、救いに段階があるということです。これらの根拠をルカ1:35の「御使いは答えて言った『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、生まれる者は、聖なる方、神の子と呼ばれます。』」においています。こうしてマリヤは、聖霊に満たされた存在となったのです。そしてマリヤは、聖霊によって御子イエスをお腹に宿しました。このことを「ご託身の奥義」と呼んでいます。
 このように、マリヤは特別な恩恵によって原罪から守られイエスの母となったのです。この事実は、初代教会時代よりとして暗黙の間に、全キリスト教徒によって理解されていたといいます。
 しかし、この理解は全キリスト教徒に受け入れられているのではなく、ロ一マ・カトリック教会のキリスト教徒に受け入れられているものです。また、聖書を見てみると、マリヤが無罪であったから救い者の母となったのではありません。
聖書には、「神にとって不可能なことはありあません。マリヤは言った『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように』」(ルカ1:37一38)とあります。このマリヤの言葉は、無罪のマリヤだからこそ告白できた言葉ではありません。大切ことは、マリヤの認罪経験の深さと全ったき献身から来る告白ということです。つまり、神のご計画を信仰と全ったき献身をもって受けとめたマリヤがあって初めて救い主の誕生が歴史性をもったのです。また、「私は主のはしためです」という告白は認罪経験の深さを表すものです。罪なき者は、「はしため」という認識は必要ありあません。イエスの生涯に、「私は、はしためです」という言葉と認識があったでしょうか。父なる神の御心に従って、十字架に進んでいかれたイエスの姿が浮き彫りにされています。従って、ロ一マ・カトリック教会の理解を受け入れることはできません。
 
(4)マリヤの昇天問題
 上記でも述べましたが、カトリック要理をもう一度参考にします。

52 聖母マリヤは地上の生活を終えた後、どうなられましたか。

聖母マリヤは、地上の生活を終えた後、その霊魂もからだも天国の栄光に上げられました。これを「聖母マリヤの被昇天」といいます。
「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤがよりよく似るものとなるためであった」(教会憲章 59)聖母は、神の特別な御計らいで、キリストの功徳によって原罪を免れたように、その結果である死の腐敗も免れました。

ロ−マ・カトリック教会の神学者カ−ル・ランナ−は、「マリヤの『被昇天』は、この一人の人間に対する神の救いの行為の完成にほかならない。それは神の救いの行為と恵みの完成であって、われわれはそれを自分自身にとっても希望するのである。内容的に見てそこで言われている根本本質は、共通のキリスト教信仰に自明的な事柄なのである。」3)としています。また、この教義に関して聖書的根拠があるのかといえばないのです。ですから、カ−ル・ランナ−は「マリヤに関する諸教義は聖書に顕現的に証言されておらず、また最初の幾世紀もの伝統にも顕現的に存在しなかった・・・」4)と言います。
 ロ−マ・カトリック教会は、マリヤの被昇天を聖書に根拠を置いているのではなく伝承においているのです。この時点で、聖書の正典の否定ということになります。また、別な大きな問題を含んでいます。それは、マリヤの死の問題です。カトリック要理(52)「聖母マリヤは、地上の生活を終えた後」という表現があります。この表現から言えることは、マリヤは確実に死んだということです。そして、「天に上げられた」という表現になっています。この表現からすると、第三者の力が加わって上げられたことになります。あくまでも、「天に上げられたのであって、上がったのではない」のです。聖書を見てみましょう。パウロは、「罪から来る報酬は死です」(ロ一マ6:23)といっています。マリヤは、死んだのです。つまり、罪人であったということなのです。罪がなければ、死ぬはずがありません。
 では、イエス・キリストはどうでしょうか。十字架の上で死んだではないか、という声が聞こえてきそうです。確かに死にました。しかし、この問題についてパウロは、「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし、悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(Tコリント2:7一8)といっています。それは、罪のない聖い御子イエスを十字架で殺す、ということは神の知恵であり神の奥義であるというのです。しかも、天地創造以前に計画されていたものであるというのです。イエスは、十字架で死に墓に葬られました。イエスは、自ら死の世界に入り人間が経験する死の恐怖をなめ尽くして、自らの力で復活し昇天しました。イエスは、罪のない聖いお方ですから復活することができたのです。イエスの復活がなければ、十字架は単なる敗北であり殉教の死でしかなくなってしまいます。十字架と復活は表裏一体です。復活の光で十字架を照らすと聖なるイエスが描きだされるのです。
 マリヤは、昇天したとロ−マ・カトリック教会はいいます。しかも、マリヤは死を経験せずに昇天したのではありません。死を経験し上げられたのです。本当にマリヤに罪がなかったとした場合、マリヤは死んで復活しなければならないはずです。しかし、彼女は死んだのです。しかも、マリヤの復活の記述は聖書の中にはありません。このマリヤの死は、何を意味するのでしょうか。それは、マリヤの罪の証明ということです。イエスは、マリヤの罪のためにも十字架で死んでくださったのです。ですから、聖書ではマリヤの被昇天説は成立しません。
 さらに、教会憲章(59)には「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤがよりよく似るものとなるためであった」とあります。つまり、マリヤは栄化の型であるというのです。この理解も聖書の記述にはありません。そもそも、救済論の中には、過去(エペソ2:5)、現在(ロ一マ8:24)、未来(ロ一マ5:10)という三様態の理解があります。特に、マリヤの問題は、救いの未来に関する内容です。私たちが栄化される型は、マリヤではなく復活のイエスの姿そのものです。私たちは、再臨の主にお合いする時に、キリストと似る者とされるのです。
 
(5)昇天後のマリヤ
 昇天後のマリヤは、「天において何をしているのいか」ということです。やさしい教理問答の107には、聖マリヤは教会のために何をなさいますか。

聖マリヤはキリスト信者の心の母として、天国で、教会とすべての信者のために、とりなしをしてくださいます。
と記述されていました。実に明白です。仲保者の役割をしているということです。かつて、何人かの人々に「なぜ、マリヤに向かって祈るのですか」という質問をしたことがあります。共通している解答は、「人間の世界においても子どもが父親に何かお願いする時は、母親に仲介者となってもらい取りなしてもらうでしょう。そのほうが、聞いてくれるのです。そのように、マリヤ様に祈り仲介者になってもらいイエス様に聞き届けてもらうのです」ということなのです。実に人間的な答えです。聖書には、そのようなことは一言も教えられていません。
 むしろ、聖書では「神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(Tテモテ2:5)といっています。ですから、神と人の仲介者はマリヤではなくイエス・キリスト御自身です。また、ヨハネは、「私は助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7b)ともいっています。パウロは、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらといかわからないのですが、御霊はご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしをしてくださいます。人間の心を探り極める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(ロ一マ8:26一27)と言います。助け主、御霊は聖霊のことです。人間とイエス・キリストの仲保者は、聖霊御自身です。そして、父なる神への仲保者は、イエス・キリスト御自身なのです。
 むしろ、マリヤを問題にすることよりも復活、昇天したイエスが天において、何をしているかを問題にすべきです。マルコの福音書には、「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上がられて神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)と記述されています。使徒信条の一文には「三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」となっています。ヘブル書の著者は、「キリストは、永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしているからです」(ヘブル7:24一25)と言っています。
 ヨハネはさらに、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」(Tヨハネ2:1一2)と務めについて記述しています。このように、イエス・キリストは大祭司として即位し人々の救いのために祈り続けているのです。これでは、聖霊の働きをマリヤが行っていることになります。また、聖霊の働きを否定していることにもつながります。決してマリヤが、弁護者、仲保者、助け主となっているのではないのです。ロ一マ・カトリック教会にとってマリヤは、まるで、大祭司のような扱い方をしているようです。

(6)教会の型としてのマリヤ
 ロ一マ・カトリック教会は、マリヤを教会の型として解釈しています。教会憲章の63項には、「神の母は、信仰と愛とキリストとの完全な一致の領域において教会の象型である」と説明しています。しかも、教会憲章によれば聖アンブロシウスが主張したものなのです。創世記における予型論から言えることは、アダムはキリストの型であるのに対して、エバは教会の型です。この理解を救済論(救いの歴史)の線上において、ロ一マ・カトリック教会はエバはマリヤの型と拡大解釈するところにマリヤは教会の型という理解が生まれてくるわけです。また、聖霊の役割をしているということです。
 以上、マリヤに関するロ一マ・カトリック教会の見解を見てきました。結局、聖母マリヤと聖徒の交わりこそが救いの根拠なのです。それは、大きな信仰者と小さな信仰者との交わるということです。イエス・キリストとの交わりは例外的なこととして位置づけているということになります。そして、功徳・功績を互いに融通し合うことによってローマ・カトリック教会が形成されるということになります。

5.福音主義教会にとっての聖徒の交わり
 福音主義教会にとって、聖徒交わりとは何でしょうか。私たちは、「イエスは主なり」と告白する者たちが集まっていると聖徒の交わりが成立すると信じています。この程度の理解では、聖徒の交わりということはできません。むしろ、教会という名を借りたクラブ、サ一クルのレベルとなってしまいます。聖徒の交わりとは、いったい何なのでしょうか。プロテスタント諸教会共通の信条に眼をとめてみましょう。教会にしかない交わりの固有性が見えてきます。使徒信条の第三項には、次のようになっています。

「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」

この信条を注意深く読んでみますと、「我は聖霊を信ず」の次にその中身が告白されているということです。その中身というのは、「聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」ということなのです。つまり、「信ず」です。ですから、聖徒の交わりとは信仰告白に関することということなのです。この聖徒の交わりは、自動的に成立するというのではありません。この聖徒の交わりの本質はどこにあるのでしょうか。アウグスブルク信仰告白の第七条には次のように述べられています。
第七条 教会について

また、われわれの諸教会は、かく教える。
唯一の聖なる教会は、時の続く限り、永続するものであること。さらに、教会は、聖徒の会衆であり、そこで、福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音に従って正しく執行されるのである。

 聖徒の交わりの本質は、聖書が正しく説教され聖礼典が正しく執行されるところに存在するということなのです。つまり、説教と聖餐を中心とした交わりの中にこそ成立する交わりです。決して、諸聖人たちとの交わりではありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

引用文献

1.戸塚文卿著作集 2 神の恩恵    P137              中央出版社
2.  同     1 カトリック読本 P110             同 上
3.キリスト教とは何か カ−ル・ライナ−                    エンデルレ書店
    現代カトリック神学基礎論          P512           
4.  同                            P512               同  上
 

第5章 死後の世界について

 この死後の世界については現実的な話題です。人間には、死後の世界があるなしの賛否が今も昔も論議せられています。特に、現代社会においてこの種の関心が高まっています。この問題は、生命の尊厳、生命の倫理に関する大きな問題でもあります。人間の共通因数は死です。人間の死は私の死です。死は、決して人事ではありません。人間は、死を決して避けて通ることはできません。人間はこの世に生をうけてから死に向かって生きる存在です。クリスチャンは、死後どこに行くのでしょうか。いいえ、人間は死後どこに行くのでしょうか。聖書は、死後の問題をどのように説明しているのでしょうか。このような問題について、ロ一マ・カトリック教会の見解を見てみましょう。カトリック要理第14課「死と死後のこと」を参照します。
 
60 人間は死んでからどうなりますか。

人間は死んでから、からだは土にかえり、霊魂は一生の善悪について神に裁かれます。各人は死後神のさばきを受け(私審判)、すべての人びとは世の終わりに、よみがえってから一緒にキリストのさばきを受けます(公審判)。

61 死後のさばきを受けて、人間はどのようになりますか。

死後のさばきを受けて、人間はそれぞれ、ただちに天国の幸いか、地獄の罰か練獄のきよめを受けます。

62 天国の幸いは何を意味しますか。

天国の幸いとは、三位一体の神をありのままに見て、その愛と光栄にあずかり、さらに、復活されたイエズス・キリストをはじめ、聖母、諸聖人と親しく交わって、喜びを共にすることです。
この天国の幸いを得るのは、成聖の恩恵をもち、少しも罪の汚れがなく、償いも残っていない人です。また、この世で得た各自の成聖の恩恵といさおしとの度合いによって、永遠の光栄と幸いの度合いも異なります。
なお世の終わりのよみがえりの後、光栄あるからだをもつ人間として、この天国の幸いにあずかります。

63 地獄の罰は何を意味しますか。

地獄の罰とは、大罪を持ったまま人間が、神から永遠に離れてキリストを失い、特殊の苦しみを受けることです。

64 練獄のきよめは何を意味しますか。

練獄のきよめは、天国の幸いを受ける幸いを受ける前、心の汚れを完全にきよめ、残された償いを果たすことです。(マカバイ記下12:42一46参照)

このように、死と死後に関することを抜粋してみました。この内容を図にしてみますと次のようになります。
 

                     公審判                    天国 ←─┐
死  → 審判                      結果        練獄──┘祈祷・善業
                 私審判                    地獄

このように、信仰問答を図で表現てみると理解しやすいと思います。これらは、プロテスタント側から見ると、理解に困難を覚える点がいくつかあります。例えば、公審判、私審判、練獄等がそれにあたります。ヘブル書の著者は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」といっています。
つまり、審判が定まっているのであって練獄行きが定めっているのではないのです。
1.審判について
 彼らの説明によれば、この裁きには、私審判と公審判の二種類があるとしています。この二種類の審判について述べていきましょう。但し、私審判の中に煉獄思想が存在しています。この問題にも少々説明を加えます。

(1)私審判
 この私審判とは、死後直後に行われる審判のことです。この審判には、二つの種類に分類することが出来るとしています。それは、「派生的なもの」と「本質的なもの」です。この派生的なものは、部分的な償いとしています。本質的なものは、永遠の刑罰を意味するとしています。つまり、前者は生前の行為に対する審判であり、後者は徹底的な審判ということです。彼らは、この審判の場所について、「死者の世界は、時間や空間はないので、場所は考えられない」しかし、審判の基準について聖書の中に言及されているとしています。その箇所は、マタイ19:16以下であるとします。この箇所には、何が書いてあるのか。それは、一人の青年が主イエスのところにやって来て、「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と訪ねています。この問いに対して、「戒めを守れ」と言われた。この戒めの中で特に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という点を強調されたのです。ですから、この「愛せよ」という命令を慈善の業(愛徳)による基準と理解しているのです。愛の業に根拠があるわけです。ですから、十字架による贖に根拠においているのではなく、業に根拠をおいているのです。
 ロ−マ・カトリック教会は、死後においても救済の道を開くためにトレント公会議においては、「練獄の存在」「死者のためのとしなしの祈り」の有効性について教義として決定した。また、第二ヴァチカン公会議において、練獄についてUコリント5:10以下を私審判の根拠とした。そして、死後練獄で清めを受けることを再確認しています。あるいは、ベネジクト12世の憲章においては、ベネジクツス・デウス(1336年)が私審判は信ずべきものとして決定したのです。これらのことについて、ロ一マ・カトリック教会の里脇浅次郎によれば、「勿論、ここに私審判の教えが始まったというのではない。実は、徐々に発展した真理がここに至って明確にされたというに過ぎない」1)といっています。本来、聖書の真理は、徐々に発展するものではなく啓示によって開かれるものです。このように、ロ−マ・カトリック教会において、真理は徐々に発展するものという理解を一面にもっています。その結果、人間は死後直ちに私審判を受けるが同時に回心のチャンスも与えられているとまでいいます。

(2)練獄
 私審判の結果、死者は三つのコ一スに分類されます。それは、天国と練獄と地獄です。ここでの問題は、練獄についてです。練獄は、どんなに神に忠実な信仰深い人であっも、罪が完全に赦されていない者(小罪が残る者)が行く所なのです。そこで、祈祷と善業を行い功徳を積み、罪が浄化されるまで留まる場所なのです。また、そこにいる霊魂は、聖徒のとりなしの祈りやミサの犠牲によって浄められ救われるというのです。このような状態を中間状態といいます。練獄は、完全な悔い改めをできなかった人の救済の道なのです。悔い改めの不徹底な原因は、自我(被造物)に執着し断切れなかったからと言います。これは仏教でいう煩悩のことです。この煩悩を断切る場所として、一時的な苦痛を伴う場所という意味があるわけです。しかし、この練獄は永遠の世界が開かれると存在しなくなるとしています。
 さて、日本人は、神道国家ですからお清めといって塩で浄めます。ロ−マ・カトリック教会は、この塩に対して練獄の浄めは火による浄めであるとしています。しかも、練獄の火という表現は、クレメンス6世の書簡やパウロ6世などによる「信仰宣言」にでてくることを一つの根拠としています。もう一つの根拠として、パウロは、「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かりました」(Uコリント3:15)といっているということです。それは、パウロは練獄の火をくぐりぬけて助かったのだと解釈します。この理解は、聖書解釈の諸原理を無視したものです。しかし、ロ−マ・カトリック教会にとってこのような練獄の状況を、「浄めの状態」「浄めの場所」と表現しています。
 この練獄についての根拠を、どこに求めているかといいますと外典です。外典のどの箇所かといえばマカベ後書12:42以下です。ここには、ユダヤが祖国のために死んだ兵卒のために祈った記述があります。ここを根拠としているのです。もう一つ、彼らが主張する点があります。それは、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」(Tペテロ3:19)を根拠にしています。この箇所から、イエス・キリストは十字架の死後、天国に入る前の練獄という場所にいって何かを宣べ伝えたというのです。この箇所の解釈については後でふれます。
 カ−ル・ラ−ナ−は、この練獄について大胆な意見を言っています。それは、東洋の諸文化世界において、輪廻転生という理解があることに着目するのです。そして、東洋世界で言われる「生まれ変わり」は中間状態からの可能性が考えられるとまで言っています。但し、「『生まれ変わり』は永遠にとどまることなく、時間的に継続される、人間の宿命であるかのように理解されてはならぬ、ということである」2)と融合的な理解をしています。

(3)公審判 
 公審判とは、プロテスタントでいう世界大審判のことを指しているようです。ですから、死んだ者から甦りその後に生きている者が主の審判の前に出されるのです。里脇浅次郎によれば、「公審判は、復活した人間全体の外的かつ公的な裁きである」と説明しています。
 ロ−マ・カトリック教会に「あけぼの」という雑誌があります。この中に、教理に関する質問と回答のコ−ナ−がありますので参考にしてください。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。このように、聖書にはしばしば「地獄」のことが言及されています。これは、神様が愛であるというところと、とても開きがあるように思えます。神様がやさしい父親のような方なら、なぜ、地獄などという恐ろしい所をお造りになったのですか。

この質問は、いろいろな方からいただきます。聖書の理解の仕方を学ぶ上で好例だと思います。つまり、イエスも新約聖書の記者たちも、当時のユダヤ世界に流布していた、「黙示文学」という、特殊な文学の表現やイメ−ジを使って語ります。しかし、私たちは比喩として用いられたイメ−ジを、文字どおり実存としてとらえるのではなく、むしろそれが言おうとしている人間の現状を読みとらなければなりません。「地獄」とは、人間が自由な判断をもって神の招きを拒絶することがありうる、という可能性を表現するものです。それは、今の人間の生き方をまじめに判断するように呼びかける役割をイメ−ジ、いわばイラストとも言うべきものです。
 だから、神は地獄などをお造りにならなかった、と言ってよいでしょう。ただ、人間は神様に逆らって、自分で神から決定的な形で遠ざかることができるという、そういう自由と責任を与えられています。あえて言うなら、地獄は人間が自分で作るものです。
 聖書を読むとき大切なのは、一つひとつの言葉にとらわれるのではなく、イエスの告げた福音の心から理解していく、ということです。イエスは神のことを、罪人の帰りを一日千秋の思いで待ちわびている父親のような方として告げました(ルカ15章参照)。どんな罪を犯しても、お詫びすれば、ゆるしていただけます。神はすべての人の救いを望んでおられます。そして、私たちの救いのために、その御子さえくださったのです。「わたしたちはすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロ−マ8:32)。
 これに関連して、カトリックの伝統的な「公教教理」で言われる「練獄」について述べておきましょう。人がたくさんの罪を犯したまま死んだとき、やはり神に清めていただかなければなりません。練獄とは、その清めのことを言います。それが具体的にどういう形でなされるのか、私たちにはわかりません。やはり神に背いてきたことを直視することは人間にとって痛みでしょう。しかし、練獄の火とか、その期間とかはある時代の状況の中で、ある民族の想像に基づいて言われるようになったものです。神は私たちが生きている間に犯した罪を清めて、私たちの生の営みを変容し、永遠のいのちへと高めてくださいます。
 だからこそ、死者のために祈ることは大切です。神を信じる者は、生きていても死んでいても一つの神の家族を造っています。キリスト者は、すべての死者、とりわけ亡くなった親族や友人のことを神のあわれみのみ手に委ね、神がこの人人を永遠の命に導いてくださるように祈っています。(あけぼの 1992.4月号 p22参照)
 
上記の文章の中に、重要と思われる部分にアンダ一ラインを引きました。その一は、聖書観が思想霊感説にたった理解ということです。その二は、練獄の根拠を外典に置いていたり、民族思想に根拠を置いていたり自己矛盾があるということです。その三は、「地獄は人間が自分で作るものです」といっているように地獄の否定です。その四は、「罪を犯した人間は練獄で清められる」という理解は十字架否定ということになります。結局のところ、聖書そのものの理解でなということなのです。
  非常に不思議なことに、ロ一マ・カトリック教会の信徒の中にはむしろ地獄を肯定している人々も存在するのです。肯定する人々は、これを「苦悩の所」(ルカ16:28)、「永遠の刑罰」(マタイ25:46)、「消えざる火」(マルコ9:44)などと形容しています。つまり、ロ一マ・カトリック教会内部においては、統一した見解がないということも言えるのです。
 さて、上記の内容を聖書に聞いていくことにします。人間の死・死後の問題は、
終末論に関するものです。この終末論は、来世論ともいいます。この終末論について少々触れてみます。

2.終末の語義

 終末の意味は、さまざまありますがいくつかを簡単に説明します。その第一は、単純に人間の死を意味しています。第二は、歴史哲学における理解です。それは、永遠による時間の切断と理解します。第三は、黙示文学的意味です。この呼び方は、古典的終末論とも言われます。これは、文字通り「来世」または「世の終わり」ということです。あるいは、世の終わりにおける一連の出来事とも言えます。
これらのことを一言で、「終末論」(エスカトロジ一)といいます。しかし、ここでは第三の黙示文学的意味が問われているわけです。

(1)人間の死
 人間の死については、いろいろ論じられています。特に、現代社会においてはタ一ミナル・ケアとか死の準備教育という言葉で話題になっています。ようやく、日本ではダブ一とされていた死の問題が、言葉で論じることができるようになってきました。しかし、死とは何か。死の正体は何か。また、生とは何かということには至っていません。かつて、私は「死の臨床学会」に出席した経験があります。そこで、論じられていたのは死の問題ではありませんでした。今、そこにいる死に行く患者さんの肉体的苦痛をどのように取り除くかが中心なのです。それは、「死の臨床学会」というにはほど遠い内容でした。
 聖書によれば、人間の死は肉体と霊魂の分離です。肉体は土に帰り、霊魂は神に帰るのです。伝道の書には「ちり(肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12:7)とはっきりいっています。しかし、死は決して終わり・消滅(無化)ではありません。なぜ、人間は死ぬのでしょうか。パウロは、「そういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、一それというのも全人類が罪を犯したからです」(ロ一マ5:12)といっています。また、ヘブル書の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とも言っています。このように、人間の死は罪の結果なのです。
 ところが、イエス・キリストによって死は克服されたのです。ヨハネは、「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者が、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)とイエス・キリストの言葉を記述しています。このように、死は決して終わりではなくイエス・キリストの復活の命に預かることです。そして、永遠にイエス・キリストと一緒に永遠の生きるのです。

(2)死の中間状態と練獄
 私たちは、教会生活をしている中でこの中間状態のことは以外と聞かされていません。むしろ、天国という言葉は良く聞くのですが、概念や観念として語られまた、聞いていることが少なくありません。具体的に、天国とはいかなる所なのでしょうか。

a.旧約聖書における死と死後の世界 
 旧約聖書において、死はどのように理解されていたのでしょうか。死は、全ての人間に及ぶ神秘的な事件です。詩篇49篇の詩人は、「しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい」(詩篇49:12)といっています。ヨブ記には、死について「恐怖の王」(ヨブ18:14)という表現をしています。死は、人間にとって獣のように恐ろしいものであり、恐怖の王ということなのです。人間は、この死の恐怖と戦い悩みと続ける(詩篇55:4)存在です。死の恐怖と戦い続けた人間が、死後の世界を問うことは当然なことといえます。
 人間は死を迎えると、「息絶えて、その民に加えられる」のです。創世記25:8、17、35、29、49、29、33、民数記20:26、27:13、31:2、申命記32:50等を参照してください。つまり、死は生の断然ではなく連続性があるとしているのです。そして、問題はどこに行くかです。その場所は、黄泉と呼ばれるところです。民数記16:30、33、詩篇55:15などに「黄泉」という表現があります。この黄泉の世界は、善人も悪人も関係なく全てすべて死んだ者が行くところなのです。黄泉は、「滅びの穴」(ヨブ26:6)、「忘れた国」(詩篇88:12)、「音なきところ」(詩篇94:17、115:17)、「暗き地、暗黒の地」(ヨブ10:21一22)、「暗黒の門」(ヨブ38:17)、「地のちり」(ダニ12:2)などとも呼ばれています。
 エンドルの口寄せ女が、サウル王のために、死んだサムエルの霊を呼び起こした出来事(Tサム28:7一9)は有名です。この場合、サムエルの霊はどこから来たのかといえば黄泉の世界からです。ですから、旧約において天国という言葉の意味は黄泉の世界のことなのです。この世界は、善人と悪人が一緒に混沌とした世界であるということです。

b.新約聖書における死と死後の世界
 旧約聖書と新約聖書は連続性があります。ですから、決して、関係がないということはできません。従って、死と死後の問題についても連続性があるわけです。新約聖書の中では、死と死後の問題をどのように理解しているのでしょうか。旧約聖書と同様に、死者は善人、悪人関係なく黄泉の世界に行くのです。しかし、黄泉の世界は新約において二つの世界に分けられています。それは、未信者が置かれる場所と信者が置かれる場所の二つです。前者を「陰府」(ハデス)といい、後者を「天国」(パラダイス)といいます。
 ルカによる福音書16章には、「金持ちとラザロ」の出来事が記述されています。生前、金持ちは贅沢な着物を着、贅沢な遊びをして暮らしていました。その反面、門前で全身おできがいっぱいの貧しい暮らしをしているラザロがいたのです。やがて、金持ちもラザロも亡くなりました。この貧しいラザロは、死んで御使いたちによって、アブラハムの所に連れていかれました。このラザロに対して、金持ちはハデスに行きました。ハデスに行った、金持ちは苦しみながら目を上げると、はるかかなたにアブラハムのふところにラザロがいるではありませんか。金持ちは、「アブラハムに私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と告げました。これに対して、アブラハムは、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。それだけではなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらえ越えて来ることもできないのです」と答えています。
 ここでわかるように、死後の世界には「陰府(ハデス)と天国(パラダイス)=アブラハムのふところ」と呼ばれる二つの世界があることがわかります。また、この二つの世界には、大きな淵があり往来不可能な世界であることがいわれています。
 それだけではなく、非常に大切なことが述べられています。この金持ちは、アブラハムに「父よ。ではお願いします。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人しかありませんが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」と依頼しています。この依頼に対してアブラハムは、「彼らには、モ一セと預言者があります。その言うことを聞くべきです」と答えています。ここでは、旧約聖書だけで十分だ、といっているわけです。このアブラハムの答えに対して金持ちは、「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」といいます。すかさず、アブラハムは「もしモ一セと預言者との教えに耳を傾けないなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」といい返しています。
 聖書のメッセ一ジを聞かない者は、どんな方法を用いても無理であるといっているわけです。また、ロ一マ・カトリック教会が言うような、練獄という中途半端な中間状態はないということです。神の裁きは、中途半端ではなく徹底的なものです。
 パウロは天国(パラダイス)と陰府(ハデス)の関係について「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こういわれています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた』一この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下だられた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。一」(エペソ4:7一10)といっています。この箇所には、天国(パラダイス)と陰府(ハデス)の関係が暗示されています。イエス・キリストは、最も低い所に下られたお方なのです。このようなお方ですから、高い所に上ることが出来たのです。これは、イエス・キリストが黄泉(シェオ一ル)に下って、多くの捕虜を引き連れ(キリスト者たち)て天国(パラダイス)に移行されたということです。ですから、始めてイエス・キリスト御自身が死の世界に入り込んで天国(パラダイス)を創造されたのです。
 ペテロは、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」(Tペテロ3:19)といっています。この言葉によれば、キリストは霊において捕らわれの霊たちのところに行って宣教したといっています。このキリストの陰府における、宣教については多義の解釈があります。

@捕らわれ人たちに宣教をたのはキリストではなくエノクとする説 
Aノアの時代に受肉以前のキリストが霊によって宣教したとする説
B使徒たちが聖霊によって罪に捕らわれている人々にキリストに代わって宣教したと  する説 
Cキリストが十字架で死だ後、キリストは復活する以前に霊において生かされハデス  に捕らわれていた人々に宣べ伝えたとする説
Dキリストが伝えたのは福音ではなく、単なる断罪であるとする説
Eキリストは救いの業をが勝利を得たことを悪い霊たちに宣言して歩いたという説  (このことは、悪い霊たちにとって悪い知らせになります)
Fノアの時代に神に従わなかった人々にキリストが救いの第二の機会を与えたとする  説
G不信仰のまま死んでハデスで苦しんでいる霊に罪の赦しがあることを伝えたとする説

 私は、この中で「E」を支持します。他の諸説は、第一、少々無理な解釈であること第二、イエスの十字架の否定につながること 第三、死後において救いの機会があるということは新約聖書のメッセ一ジに反すことなどがその理由です。従って、死後において救われる機会が存在する、というような練獄説は非聖書的な理解といわなければなりません。 
 このように、旧約聖書中には、陰府(ハデス)と天国(パラダイス)=アブラハムのふところという世界が存在するという記述はありません。旧約聖書においては、黄泉の世界のみなのです。この黄泉という一つの死後の世界が、新約聖書中二つの世界にわけられています。これは、イエス・キリストが死の世界に入り込んで陰府(ハデス)と天国(パラダイス)の世界を創造されたことによるのです。ですから、キリストにあって死んでいた者は天国(パラダイス)に置かれます。キリストを否定して死んだ者は、陰府(ハデス)に置かれます。キリスト者にとって、キリストの再臨まで眠り、憩い、置かれている場所が天国(パラダイス)なのです。パラダイスは、イエス・キリストから始まったのです。これが、中間状態の聖書的な姿です。決して、中間状態が練獄説に基づいた世界ではないのです。        

   『旧約聖書』                     『新約聖書』           
 
                    天国(パラダイス)=アブラハムのふところ
   黄泉 →                         
                            陰府(ハデス)
3.再臨とさばき

 旧約聖書においては、人間の死は一回限りの言及であり黄泉に置かれます。しかし、新約聖書において人間は死後、天国(パラダイス)=アブラハムのふところと陰府(ハデス)に分けられています。問題は、天国(パラダイス)と新天新地との関係です。多くのキリスト者たちの中に、天国と新天新地が同一視されたり混乱している人々が少なくありません。かつて、「ある神学生から天国と新天新地の関係がわからない」と質問を受けたことがありました。これも、一つのよい例だと思います。再臨について少々述べていきましょう。現在の教会とキリスト者は、再臨信仰が欠けているように思えてなりません。再臨について少々述べていきましょう。

(1)キリストの再臨の約束
 新約聖書中には、イエス・キリストの再臨について1/3も記述されています。それだけ、再臨について重要視していることがわかります。再臨の約束について聖書から引用してみましょう。

イエスは、彼らに言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」            
                               マタイ26:64
そのとき、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
                                                      マルコ14:26
そして、こう言った。「ガラテヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」
                                                           使徒行伝1:11

このようにイエス・キリストは、人間の世界に再び来られる約束をしています。

(2)再臨のしるし
 私たちは、信仰があってもなくても、終末のしるしについて敏感です。もしかすると、キリスト者でない者の方が敏感なのかもしれません。聖書では、終末のしるしについて何といっているでしょうか。イエスがオリ一ブ山ですわっておられる時、弟子たちが「世の終わりの前兆について」尋ねています。イエスの答えを見てみましょう。「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」(マタイ24:35)とあります。聖書の言葉は、かわりません。聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

@偽キリストと偽預言者の出現(キリスト者への警告)
 サタンは、真のキリストと再臨を非常に恐れています。ですから、人々を欺き惑わすために偽キリストと偽預言者を起こすのです。

A偽真理と惑わし(キリスト者への警告)
 偽キリストと偽預言者の出現は、程度の差はあれいつの時代にも存在していました。問題は、偽りの真理によるそそのかしです。偽りの真理が日常生活に溢れ、人々がそれがあたかも真理であるかのように信じるのです。そして、人々は神に従うことを拒むようになります。ヨハネは、「全世界は悪しき者の支配下に置かれている」(Tヨハネ5:19)といっています。また、パウロは次のようにいいます。

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。
                                                   Tテサロニケ2:8一12
イエス・キリストは次のようにいわれました。

だれでも惑わされないように気をつけなさい。それは多くの者が私の名によって現れ・・・多くの人を惑わすからである。・・・また多くのにせ預言者たちが起こって、多くの人々を惑わし・・・にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするからである。                                                    マタイ24:4一5、11、24

B偽預言者と人々の惑わし(神に従わない人々への警告)
また、多くのにせ預言者が起こって、多くの人を惑わす。また、不法が増し加わるので、多くの人の愛が冷える。
                                                     マタイ24:11一12
 

しかし、人の子が来るとき、彼は地上に信仰を見いだすであろうか。
                                                               ルカ18:8

人間社会には、ノアの時代のように不法が増し人々の愛が冷えるのです。また、キリスト者たちの間では、信仰を捨て偽の真理に引き込まれて行く人々が増大していきます。その他に、戦争、飢饉、疫病、地震、迫害等のことが聖書でいわれています。このような点においては、ロ一マ・カトリック教会も一応同様の見解に立つと申し上げて置きましょう。しかし、文字通り信じるのではなく象徴的に理解し信じるのです。

(3)再臨のありさま
 イエス・キリストは、どのような姿で再臨なされるか、ということです。ある人々は、キリストはすでに再臨されたと主張します。また、ある人々は、イエスはペンテコステの時「霊的」に再臨したとします。しかし、再臨そのものを否定する人々も存在します。これらの再臨に関する理解は、どれも非聖書的です。聖書は、イエスが人類の救いのために初臨(受肉)したように来臨なさると言っています。ヘブル書の著者は、「キリストも、多くの人の罪を負うため一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28)といっています。復活、昇天のキリストは、再び来られるのです。

@キリストは見える姿で来られるのです

 ゼカリヤは「彼らはわたしを彼らが刺した者を見る」(ゼカリヤ12:10)と預言しています。イエスは、ユダヤ人に対して「主の御名によってきたる者に祝福あれ」というとき、再び彼を見るであろうと言われた(マタイ23:39)のです。ルカは使徒行伝において次のようにいいます。

イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼のそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」                                                                                          使徒行伝1:10一11

このように、イエス・キリストは眼に見える姿でおいでになるのです。しかも、十字架上で両手両足に打たれたくぎのあとをもったままの姿でです。

ヨハネは、「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。ア一メン。」(黙示録1:7)と証言しています。

再臨の主は、人格を持ったお方として眼に見える姿でおいでになります。そして、イエスを信じない者たちにとっては、恐怖であり嘆きです。しかし、イエスを信じる者たちにとっては、慰めであり喜びです。

Aイエスは雲に乗り、雲と共に天から来られる
 ダニエルは、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って到着する」(ダニエル7:14)と預言しています。黙示録には、「見よ、彼は雲と共にこられる」(黙示録1:7)とあります。

Bイエスは突然盗み人のように来られる

 イエスは、いつ来られるのか。何年何月という具体的な記述は聖書の中にはありません。イエス自身も知らないのです。知っているのは、父なる神ご自身だけなのです。では、いつ来るかを知ることが大切です。パウロは、「主の日は夜中の盗人のように突然こられる。・・・突然の滅びが彼らを驚かす。そして、それからのがれることは決してできない」(Tテサロニケ5:2一3)と言っています。イエスは、突然やってく来るのです。

Cイエスは栄光に包まれて来られる

 イエスご自身は、目で見える姿で突然盗み人のようにやって来ます。そして、雲と共にです。しかし、そのありさまは父の栄光のうちに、御使たちと共にやって来るのです。マタイは、「人の子は必ず父の栄光のうち、御使たちと共に来る。・・・人の子が天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見る」(マタイ16:27、24:30、26:64)といっています。

Dイエスが来られると死んだ者から甦る

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主ともにいるのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります(Tテサロニケ4:16−17)とあります。
                
 このように、再臨の主がおいでになるとき「キリストにある死者が、まず初めによみがえる」のです。この時、どこから甦るかということが問題になります。実は、その場所がパラダイス(天国)なのです。そして、7年間の大患難時代に突入します。大患難時代が、終わりをつげますと千年王国が始まります。この千年王国が終わると世界大審判は始まります。この世界大審判の中で「命の書」が開かれ、命の書に名が記されている者だけが新天新地に入ることが許可されるのです。そして、永遠に主と共に生きるのです。
 ですから、パラダイスとは一時置かれている場所ということなのです。これが、パラダイス(天国)と新天新地の関係です。
 

引用文献
1.カトリックの終末論 里脇浅次郎  p35                 聖母文庫
2.キリスト教とは何か カ−ル・ライナ−                 エンデルレ書店
    現代カトリック神学基礎論          P581

第6章 教会と礼典

 ロ一マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会では、教会についての理解が同じ点もありますが基本的な違いがあります。一般的なイメ一ジでは、ロ一マ・カトリック教会の会堂は華やかできらびやかです。それに対して、プロテスタントの教会は質素です。このギャップに驚きを持つ人々が少なくありません。このような驚きは、無理からぬことです。なぜなら、教会=会堂という理解が普通だからです。しかしこのような、目に見える点は基本的な相違点ということができません。聖書的に見て、基本的な違いがあります。そのことを考えていきましょう。

1.教会の土台

 教会の土台、基礎はなんでしょうか。これがなければ、教会ということが出来ない。これを欠いては、単なるクラブやサ一クルと同じレベルになってしまう。これらの事を、整理する事が大切です。また、ロ一マ・カトリック教会の教会についての理解と相違点を理解することは大きな意味があります。さて、「やさしい教理問答」を見てみましょう。

第16課 教 会

イエズス・キリストは、神の福音をすべての国、すべての人に伝え、人々を神の民として一つに集めるために、何をなさいましたか。
イエズス・キリストは、神の福音をすべての国、すべての人に伝え、人々を神の民として一つに集めるために、教会をおたてになりました。
 
92 教会とは何ですか。

教会とは、イエズス・キリストの教えを信じ、それにしたがっている信者の集まりです。
なお、見える教会のほかにも、神の恩恵によって、教会に属している人々がたくさんあります。

93 イエズス・キリストは、どのようにして教会をおたてになりましたか。

イエズス・キリストは、(1)12使徒をえらんで、ご自分の権能を授け、(2)聖ペテロをかれらの頭にさだめ、(3)かれらに聖霊を遣わして、教会をおたてになりました。
   マタイ16:15一16 ヨハネ21:15一17

聖ペテロのあとつぎはだれですか。

聖ペテロのあとつぎはロ一マの司教であって、これを「教皇」といいます。使徒たちのあとつぎとして、各地の教区をつかさどるのは司教です。

この教理問答からいくつかの点がわかります。教理問答を基本に考えてみましょう。ペンテコステにおいて、教会が誕生したという点についてはプロテスタント教会と一致しています。それは、「かれらに聖霊を遣わして教会をおたてになりました」という言葉によってわかります。しかし、問題は教会の土台や頭をペテロとしている点です。教理問答の中の一文である「聖ペテロをかれらの頭にさだめ」という言葉によって明らかです。そして、ペテロの後継者をロ一マの司教(教皇)としていることです。つまり、ペテロの後継者は現在のロ一マ法王であるとしているのです。よくいわれることですが、マタイ16:18の言葉を引用し根拠としています。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
                                                        マタイ16:18
             
この聖書の言葉をもって、教会の土台はペテロであるとします。教理問答から言えば、教会の頭もペテロということになります。そして、ペテロの後継者がロ一マ法王であるとするのです。なぜ、このようなことになっていまったかが問題です。教会の歴史を振り返ってみます。
 初代教会においは、監督は階級、権威、権能においても皆平等であったのです。ところが、時間とともに多数存在する監督のうちロ一マの監督が最も権威があると主張するようになっていったのです。その期間は、313年から590年の277年間に起きたことです。特に、590年にはグレゴリウス監督が登場するとロ一マ監督の首位権を主張しはじめました。他の監督との力関係の調整から中央集権が生まれるようになったのです。このようにして、監督は正統的教義の保証と理解されるようになっていきました。
 この時期は、政治的には330年にコンスタンチヌスはロ一マ帝国の首都をコンスタンチノ一ブルに移したのです。こうして、政治の中心はロ一マからコンスタンチヌスに移りました。このような、政治的な不安的な時期に人々はロ一マの監督を現世的、精神的指導者と仰ぐに至ったのです。このような状況から、民衆にとってロ一マの監督は唯一強力な人物となったのです。
 このような背景の中で、ロ一マ監督の地位を聖書に求めるようになりました。そこで、初代教会からの伝承と称しマタイ16:16一18を根拠にペテロ首位権を主張し民衆に承認される至ったのです。445年には、皇帝ヴァレンチニア三世は勅令を発布し精神上のロ一マ監督優位性を承認しました。その上で、ロ一マ監督つまりロ一マ法王が承認することは「すべての人に対する法律」としてしまったのです。こうして、ロ一マ監督(法王)の地位が強固なものとなったのです。
 では、教会の聖書的根拠はどこにあるのでしょうか。もう一度、マタイ16:18を見てみましょう。主イエスがペテロに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」といっています。この言葉の聖句の前を読んで見ると、

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです」
                            マタイ16:15一16
この主イエスとペテロの問答の後に、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)といっています。この聖句の「この岩」についてパウロは次のようにいいます。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかはそれぞれ注意しなければなりません。というのは、だれでも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
                                                   Tコリント3:10一11

パウロは、信仰告白について次のようにもいっています。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれでも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれでも、「イエスは主です」と言うことはできません。
                                                         Tコリント12:3

ここに「イエスは主です」という信仰告白が記述されています。当時の社会においては、「ローマは主です」と告白しない者は死を意味していたのです。この告白は、命をかけた告白です。しかも、この告白は聖霊によるのです。ですから、「イエス・キリストご自身」と「イエスは主なり」という告白の上に教会の土台はあるのです。ですから、教会の土台・基礎は「イエスは主なり」という告白の上に教会が形成されるということです。また、パウロがいうように教会の頭はキリストです。決して、ロ一マ法王を中心とした教会ではありません。まして、ロ一マ法王が教会の土台ではありません。

2.礼典について

 礼典のことを、サクラメントという言い方をします。この礼典の理解についても、ロ一マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会では違います。ロ一マ・カトリック教会においては、礼典のことを「秘跡」という言い方をします。やさしい教理問答を参照してみます。

第37課

213 イエズス・キリストは、神の超自然の恩恵を授けるために、何をお定めになり    ましたか。
      
    イエズス・キリストは、神の超自然の恩恵を授けるために、秘跡をお定めにな    りました。

214 秘跡とはなんですか。
   
    秘跡とは、超自然の恩恵を与え、それをあらわすしるしです。

ここで、言われていることは、イエス・キリストによって定められて神の恵みを与えるしるし、ということです。なぜ、神はこのような礼典(秘跡)を与えたのかということについてグドルフは、「ルッタ一は、人間は信仰のみによって救われると説き、また他の教えでは徳の道を示してもそれを実践するほどの力を与えない。カトリックは道徳の方面においても最も厳格な宗教といわれる。しかし、完全な道徳を守るほどの充分な恵みを与える。これも他の宗教には見られないことである。この神より恩恵を授けるおもな手段は秘跡である」1)と言います。つまり、ロ一マ・カトリック教会において、礼典は完全な道徳的生活をするための手段ということです。
 また、神は、「人間は完全な道徳的な生活をすることが出来ない」と理解しているということなのです。従って、人類に秘跡を与えたというのです。人間は弱い者で、目に見えない神や目に見えない恵みでは満足できない。だから、魔術や迷信そして呪文などを求め霊的な力に頼るようになったと理解します。このような人間に神は、目に見える神の恵みの手段として秘跡を与えたというのです。
 確かに、礼典は神の恵みの手段の一つです。しかし、道徳的生活をするための恵みの手段ではありません。道徳的な側面を求めるならば「聖化」(ロ一マ書6章から8章)の経験なしに無理な事柄です。御霊の実の始めは「愛」です。聖書が言う道徳的な生き方は、愛によって全うされるのです。ですから、ルタ一の言う「信仰によって」与えられる神の一方的な恵みなのです。ロ−マ・カトリック教会は、礼典(秘跡)そのものについてどのような理解をもっているのでしょうか。彼らは、礼典(秘跡)を罪の良薬とした理解にたっています。それは、次のような事柄です。
 秘跡は、肉体の欲望を抑える充分な力をもっています。また、人間はどんなに罪を悔やみ謝罪しても、実際のところ罪が赦されたという安心感がない。人間は、目に見えないものによって安心を得ることが出来ないからです。人間に安心を与えるために礼典(秘跡)を与えたと言います。この安心感を与えるために、洗礼と告悔が罪を赦す秘跡として存在するとします。この告悔の時、司祭は信者等に秘跡を授け「あなたの罪を赦す」と唱えるのです。また、洗礼の時は、「あなたを洗う」と宣言するのです。人間は、このような言葉を聴いて安心・平安を得るといいます。確かに、「あなたの罪は赦された」と宣言してもらうことはホットするものです。しかし、人間の言葉によってなされる宣言は意味を持ちません。持ったとしても、一時的なものでしかないでしょう。人間に本当の安心と平安を与える宣言は、聖書の言でなければなりません。聖書には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてきださいます」(Tヨハネ1:9)とあります。また、罪を悔い改めた結果、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(Tペテロ1:8−9)とペテロはいいます。本当の平安と安心は、私の罪のために身代わりに十字架についた主イエスを信じること。そして、罪を悔い改めることによって救いを経験するのです。罪の赦しの宣言は、聖書の言によるのです。そして、目に見えるものによって平安や安心を得るのではなく真実な悔い改めによる結果なのです。
 具体的に、ロ一マ・カトリック教会は礼典(秘跡)について大きく三つに分類しています。三つの分類について見てみましょう。
a.キリストによる制定
 礼典(秘跡)はキリストによって制定された、恵みのしるしであるとします。そして、キリストが定めた礼典(秘跡)は七つあると説明します。それは、@洗礼 A堅信 B聖体 C告解 D終油(病者の塗油) E叙階 F婚姻の七つです。この七つを二つのグル−プに分けています。第一のグル−プは、洗礼、堅信、聖体です。この三つは、聖書に記述されていると説明します。第二のグル−プは、告解、終油、叙階、婚姻です。この四つは、伝承によると説明します。やさしい教理問答には次のように説明されています。

215 秘跡はいくつありますか。

秘跡には、洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の七つあります。

プロテスタント諸教会においては、礼典について七つも承認していません。洗礼と聖餐の二つです。この聖餐は、ロ−マ・カトリック教会の聖体にあたります。イエス・キリストは、礼典として洗礼と聖餐の二つを制定したのであって他は制定していません。マタイによる福音書28章19節において、洗礼を制定しておられることがわかります。また、聖餐についてはルカによる福音書22章17節−20において制定しています。この事について、パウロはTコリント11章23節−25節においてイエスの制定であることを証言しています。従って、それ以外に根拠を求めることは非聖書的ということになります。ましてや、不正確な伝承に根拠を求めることは正統性を欠くことになります。

b.外面的なしるし
 彼らは、聖霊によるうながしだけでは恵みは不十分でだとします。特に、礼典(秘跡)は、外面的なしるしを伴うものと理解します。この外面的なしるしには、三つの内容が伴うものとしています。その三つとは、事物、言葉、行為です。この三つについて説明しましょう。そうする事によって、相違点がより明確になるはずです。

事物・・・事物について二つのグル−プに分類しています。第一のグル−プは、洗礼に     使用する水です。この水は、心を浄めることを意味して用います。第二のグ     ル−プは、堅信、終油、叙階の儀式に使用する香油です。特に、この香油は     オリ−ブ油と香を混ぜ合わせたもので、心を強める意味で用います。また、     聖徳の麗しさを意味するのです。
言葉・・・この言葉は、洗礼と告解と堅信の時の宣言ということです。司祭が洗礼を授     ける時、「聖父、聖子、聖霊のみ名によってあなたを洗う」と宣言します。     また、告解の時は「あなたの罪を赦す」と唱え宣言しますそして、主の祈り     を10回唱えなさいと言います。堅信の時は、「あんたは堅固にする」と宣     言するのです。これは、外面的な秘跡による恵みを現していると主張します。行為・・・これは、按手のことです。イエスは、その生涯の中で按手をし多くの人々を     癒しました。このような行為自体も礼典(秘跡)であるといいます。

c.内面的な恵みの手段
 旧約聖書に記述されている割礼や過越の出来事は単なるしるしでした。しかし、新約聖書の世界に入ると単なるしるしであった出来事が具体的な恵みの手段となったというのです。こうして、実際的な内面的な恵みが与えられるようになったのです。
 このような秘跡は、初代教会から伝わったものと理解しています。しかも、紀元200年代から100年にかけて様々な異説が言われましたが秘跡を否定する者はいませんでした。初めて人類で否定したのが、プロテスタントであると主張します。プロテスタントは、霊肉の両面をもったものが人間であるということを十分に理解できず一方向に走ってしまったことが誤りであったと指摘します。このようなロ−マ・カトリック教会の見解に対して異論を言わなければなりません。そのことによって、お互いの相違点がはっきりと見えて来るからです。なぜ、このようなことが生じたのでしょう。
《歴史的には・・・》
 第一章において、カトリック教会はロ−マ帝国の国教となりロ−マ・カトリック教会となった。そして、その結果として政治と宗教が結合し教会は世俗化していきました。こうして、集団回心運動が起こり教会の中に異教徒が入り込むようになったのです。教会の中に入り込んだ異教徒たちは、キリスト者のふりをしていました。当然なことですが、教会が堕落していきました。そして、教会の秩序を保つために世俗の力を借りるようになったのです。
 このような一連の出来事が、教会の礼拝にも大きな影響を与えるようになりました。ロ−マの監督たちは、教会内部にいる異教徒の人々に具体的な神をはっきりわかるように礼典に手を加えました。それが、天使、聖人、遺物、絵画、彫刻を崇拝するということに結びついたのです。そして、このことによって異教徒たちがこれらに、よりどころを見いだすようにと行ったことなのです。
 国家との結合は、もう一つの弊害をもたらしました。それは、民主的礼拝から貴族が好む礼拝に変化していったことです。そのために、聖職と世俗の区別が明確になっていきました。このような歴史的な経緯の中で、叙階が礼典の一つと承認されるようになっていったのです。また、400年頃には堅信と病者の塗油も価値あるものとされ礼典に位置を占めるようになりました。6世紀末ごろには、現在の七つの秘跡と言われる儀式が民衆に浸透し礼拝の中で高い地位を持つに至ったのです。特に、聖餐(聖体)については、司祭の手によって実質に変化するという教義が成立していたのです。このように、歴史的に言っても礼典を七つとすることはおかしな話なのです。

《神学的には・・・》
 基本的には、主の制定(命令)に根拠があります。民衆の支持による根拠ではありません。しかも、単なる儀式ではなく「信仰の公的表現」なのです。私たちが洗礼を受けるということは、「これから主イエス・キリストを私の人生の主として歩んで行きます」という信仰告白です。また、公同の教会(カトリック)への参与と交わりを意味します。この構造には、縦と横の関係があります。

@横の交わり
 洗礼は、教会の聖徒の交わりへの参与ということです。単なる、教会への入会式ではありません。聖餐は、聖徒の交わりの保持ということです。私たちが、礼拝の中で共に聖餐にあずかります。それは、キリスト者の交わりは聖餐を中心とした交わりだからです。
A縦の交わり
 洗礼は、キリストと体なるキリストの教会との合体ということです。聖餐は、キリストと体なるキリストの教会との合体の命の維持ということです。

 私たちは、礼典に対する理解をしっかりしておかなければなりません。礼典の理解を軽視したり、軽々しく取り扱うことはあってはなりません。聖書は、書かれた神の言です。それに対して、礼典は書かざる神の言なのです。このことを、しっかり理解しておかなければなりません。ですから、ロ−マ・カトリック教会の礼典に対する理解は、「恵みの手段の基本」であり極端な礼典主義ということです。このような、礼典に対する理解は機械的・迷信的になりやすいという危険をもっています。恵みの手段の基本は、十字架経験以外にありません。やさしい教理問答を見てみましょう。恵みの手段であることが良くわかります。

216 秘跡はどのような恩恵を与えますか。

洗礼と告解の秘跡は、罪をゆるして成聖の恩恵を与え、ほかの秘跡は、成聖の恩恵のあるところへ、さらに恩恵を増します。そのうえ、秘跡は、それぞれ固有の助力の恩恵をも与えます。  

このような理解に対して、プロテスタントの礼典に対する理解は、み言に聞き従う恵みの手段ということでしょう。ですから、礼典は個人の信仰の公的告白ということです。それは、どういうことか。私たちの信仰は、目に見えるようなものではありません。従って、信仰が観念的になってしまいます。そうではなく、目に見える信仰とキリストの実体が礼典であるということです。ですから、プロテスタントの方がむしろ本来の礼典に立ち戻り重んじているということが出来ます。

3.七つの礼典(秘跡) − ロ−マ・カトリック教会 −

 ロ−マ・カトリック教会には、いままで述べて来たように七つの秘跡と称する礼典があります。この一つ一つを見て行きましょう。やさしい教理問答には次のように説明されています。
 
215 秘跡はいくつありますか。

    秘跡には、洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の七つあります。    この七つの意味と主張について簡単に説明することにします。

(1)洗礼について
 
219 洗礼とは何ですか。

    洗礼とは、人が神の子として、あらたに生まれる秘跡です。

220 人が洗礼によってあらたに生まれるとは、どういうことですか。

    人が洗礼によってあらたに生まれるとは、(1)原罪、自罪とその罰がまった    くゆるされ、(2)超自然の命を受けて神の愛子となり、天国に入る権利を得、    (3)キリストの神秘体である教会の一員となることです。

221 洗礼は、イエズス・キリストのお定めにより、救いを得るのに必要です。

 ここには、洗礼を受ける大前提である悔い改めが言及されていません。洗礼=救いという理解です。この理解は、日本的な例をとって見ると神道でいうところの「禊ぎ」と同等のレベルでの話です。禊ぎは、罪や汚れを水で荒い流すことによって浄めるということです。ですから、罪の汚れを洗い流し浄めるのは洗礼であるというわけです。しかし、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたことについて次のように理解をします。この洗礼について、「これらの式は実際心を清める効果があるだけではなく、清めようとする精神のあらわれに過ぎず、単なるしるしに止まった。キリストの洗礼はそれと異なり、人間を全く改造する力をもっている。だから洗礼者ヨハネは次のように述べている。『私は、あなたたちの悔い改めのために、水で洗礼を授けるが、私の後においでになる方は私よりも力のある方で、私はその方の履き物を持つ値打ちさえもない。かれは聖霊と火によって洗礼を授けられるであろう』(マタオ3:11)」2)といいます。この説明では、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマの混同です。また、この両者の関係が明確ではありません。この問題はさておいて、良く引用される洗礼に関する点に焦点をあててみましょう。
 ヨハネによる福音書3章には、ニコデモとイエス・キリストの会話が記述されています。その中に、「人は水と御霊によってうまれなければ、神の国にはいることはできません」(ヨハネ3:5)とあります。この聖句をとって、洗礼によって罪が浄化され赦されると理解するのです。これは本来、悔い改めに伴うものでなけらば単なる形式、儀式となってしまいます。使徒行伝8章に記述されているエチオピア人の宦官の洗礼についても同様です。単に、洗礼を受けたのではなく悔い改めに伴うものです。悔い改めのない洗礼は、意味をなさいということです。彼らは、悔い改めはより洗礼の方を重視します。本来、この関係はコインの表裏一体であるべきです。

a.ロ−マ・カトリック教会が主張する洗礼によってもたらされる恵みについて彼らは、 洗礼によってもたらされる恵みについて四つ上げています。紹介しましょう。
@原罪の赦し・・・洗礼の瞬間に原罪までも完全に清められる
A自罪の赦し・・・これは、複数の罪のことである
B無限の罰の赦し・・・神の裁きから解放される
C有限の罪の赦し・・・練獄の苦しみを言っています。練獄の苦しみは刑罰としての苦しみではなく、天国に入る苦しみとしています。
本来、悔い改めに伴う洗礼は恵みとして、一切の罪は赦されています。また、確かに、神の裁きから解放されています。ところが、練獄は認めることは出来ません。問題は、原罪の取り扱いです。原罪の問題は特に、ロ−マ書6章〜8章の経験がなければ自覚的なものにはなりません。十字架理解の乏しさを暴露しているようなものです。

b.洗礼によってもたらされる新しい命について
 新しい命について、七つ上げています。簡単に、ご紹介しましょう。
@聖成も恩恵・・・洗礼の時に霊魂は聖化され、永遠の命への道が開かれ希望に満たされる新しい命。 
Aキリストとの一致・・・人種、民族、身分、性別等に関係なくキリストの血に生きる者となる。
B聖霊の宮・・・パウロは、「あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Tコリント3:16)といっています。私たちは、聖霊の宮、神殿となるということです。
C超自然的徳・・・信・望・愛の倫理的徳の新しい能力が与えられる。そして、神の子としてふさわしく生きることができる。     
D助力の恩恵・・・新しい命をもって生きるということは、神の助けが必要となる。これが、神の協力による力である助力である。
E聖霊の賜物・・・神の子としてふさわしく生きるために神の協力が必要になる。これが、助力の力であった。この力をもって、自分の働きを聖霊の賜物に委ねる。その結果、人間らしさから離脱し神化したものとなる。
F天国の世継ぎ・・・天国の世継ぎとなって永遠の幸福の権利を得る。
以上がその七つの項目です。これらの事柄が、最もらしく聞こえますが私たちと随分違うことがわかります。
 確かに、洗礼はキリストと恵みによって一つとされ、聖霊の宮とされます。また、天の世継ぎとされた者です。しかし、超自然的徳とか助力の力などというものは功徳、善行説の理解であって聖書的な理解ではありません。「神の子としてふさわしく生きる」というこについてパウロは、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)といっています。この所で、パウロは道徳的・倫理的な意味でいっているのではありません。この「良い行い」というのは、神の御心に生きるということにおける「良い行い」です。ですから、神はひとり一人に良い行いを備えてくださっているのです。まして、神の協力によっての歩みではなく、聖霊の助けによって全き献身と服従によって生きることこそ大切なのです。聖霊の賜物は、教会を建てあげるために神が私たちに与えた霊的能力です。決して、神の賜物に委ねるのではない。むしろ、与えられた賜物を主の栄光のために活用することが大切です。恐ろしいことに、賜物に委ねることによって、人間が神化するということは絶対にありません。私たちが、再臨の主イエスにお会いしてから主と同じからだに栄化されるのです。

(2)堅信について
 堅信とは、洗礼を受けた者が完全な信者となるためのものです。洗礼を受けた者は、霊的な幼児です。ですから、大人のカトリック信者となるために堅信が必要であるといいます。第2バチカン公会議「公文書全集」、第一章 教会の秘義について11項「秘跡と共通司祭職の行使」の一文には次のように説明されています。それは、「堅信の秘跡によって、いっそう完全に教会に結びつけられ、聖霊の特別な力で強められて、キリストの真の証人として、ことばと行いをもって信仰を広めかつ擁護するよう、いっそう強く義務づけられる」となってなっています。
 この文書の中で、特に注目すべき言葉があります。その言葉は、「聖霊の特別な力で強められる」ということです。つまり、ここでいっているのは、聖霊に満たされるための行為ということです。別な、表現を用いるならば「聖霊の充満」ということになります。イエスご自身が、堅信と聖霊の満たしの関係についてどこを根拠にしているかが問題です。しかし、ロ一マ・カトリック教会はペンテコステの出来事が堅信と聖霊の満たしの関係であると理解しています。そして、以下の聖書を引用します。

さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。
                                                             ルカ24:49

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。それは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
                                                       ヨハネ7:37一38

すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
                                                         使徒行伝2:2一4

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
                                                     使徒行伝8:14一18

これらの聖書等の箇所を引用し、洗礼を受けた者を特別な式である按手礼によって聖霊に満たされることを堅信としているのです。この堅信の儀式の仕方は、次のようなものです。まず、堅信を授ける司教は堅信を受ける者の上に手を置きます。その時、聖霊とその賜物を祈り求めます。道具は聖香油です。この聖香油をもって額に十字架を記します。この時、「われ、父と子と聖霊とのみ名によりて、なんじに十字架をしるし、救霊の聖香油をもって汝を堅固にす」と宣言します。この宣言に続き、頬を軽く打ちながら「あなたに平安あれ」と唱えるのです。
 さて、このひとつ一つの行為には意味があります。その意味を整理して紹介します。この行為を順番に見ていきます。
@按手・・・天から神の恵みが与えられるようにするしるしです。それは、イエスが子どもたちを按手をもって祝福した事実。また、按手をもって多くの病人を癒した事実に基づいているとします。
A司祭の祈り・・・この祈りは聖霊降臨を求める祈りです。ペンテコステを求めているのでしょう。
B霊的戦いの準備としての聖香油・・・堅信を受ける者の額に十字架を記す時、香を混ぜたオリ一ブ油である聖香油を用います。これは、司祭が聖木曜日に聖別したものです。これは、象徴的な意味で用いているようです。それは、スポ一ツ選手や戦争に出陣する兵士たちは体に油を塗りました。なぜなら、油は皮膚を柔らかくし滑らかにするからです。このような、効果を霊と信仰の世界に適応されたのです。聖香油を塗ることによって、聖霊に満たされるために心を柔らかくしキリストの兵士として出陣する準備をするのです。一言で、伝道の準備ということなのでしょう。
C香油の色々な香りを混ぜる理由・・・速やかの聖霊に満たされキリストの香りを放ち人々の模範となることを意味しています。また、このことによって聖徳に進ませるとしてます。
D額に十字架を記す・・・この行為は他者に対する信仰告白と伝道を意味します。また、十字架を誇りとして生きるようにという意味も含んでいます。
E頬を軽く打ちながら「あなたに平安あれ」と唱える理由・・・この行為は行為と言葉に分けられます。まず、「頬を軽く打つ」という行為はキリストにある苦しみ、恥を甘んじて受けますという意味を示します。「あなたに平安あれ」という宣言は、そこに真の平安を見いだすことができるようにという意味があります。
 堅信の時の儀式と行為そして、意味について理解できたでしょうか。洗礼と堅信とペンテコステの関係がバラバラです。決して、聖書的であるということができません。
 確かに、私たちが聖霊に満たされることは勝利あるクリスチャンと生きるためには必須条件です。また、聖霊に満たされるということは、伝道と奉仕の力です。
しかし、これらの祝福は堅信によって与えられるものではありあません。確かに、復活のイエスは「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」(ルカ24:49)といわれました。イエスの弟子たちは、聖霊に満たされるまで何をしていたのでしょか。ただ単に、じっと何もせずにいたのでしょうか。決して、そんなことはありません。ルカは、このように記述しています。

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
                                                           使徒行伝1:14

この聖句の「みな心を合わせ、祈りに専念していた」が重要です。どんな祈りをしていたかということです。それは、悔い改めの祈りです。自分たちが、どんなに不信仰であったかです。その後に、聖霊が彼らに下り満たされたのです。この聖霊の力によって、ペテロたちがキリストを証し伝道したのです。ですから、決して、堅信によってそうしたのでも、そうなったのでもありません。また、ロ一マ・カトリック教会は、キリスト者は堅信によってキリストの兵卒や使徒となるといいます。そんなことはありません。主イエス・キリストが私の罪のために十字架について死んで下さったことを信じ罪を悔い改めます。そして、洗礼を受けます。その時から、私たちはキリストの福音の兵士でありキリストの使徒です。ただ、聖霊の充満の経験なしに力ある兵卒や使徒となることはできません。

(3)聖体について
 私たちプロテスタント教会に属する者にとって、聖体という言葉は聞きなれなものです。この聖体は、プロテスタントでいう聖餐のことを指しています。ですから、表現の違いと理解しておけばよいわけです。この問題については、両教会もイエスの制定であると認識しています。また、教会において重要な位置を占めていることも一致しています。ですから、多くの説明は必要ないでしょう。しかし、聖餐そのものの意味が違います。プロテスタント諸教会においても、聖餐の取り扱いや意味には相違点があります。ですから、ここではロ一マ・カトリック教会の理解を説明する程度にしておきます。「やさしい教理問答」第42課を参照します。また、平行して「カトリック要理」を参考します。

(や)243 聖体拝領とは何ですか。
 
聖体拝領とはイエズス・キリストと一致し、超自然の命を養うために、その御体と御血をいただくことです。

(カ)106 聖体とは、どういう秘跡ですか。

聖体とは、救いのいけにえであるイエズス・キリストの御からだと御血とがパンとぶどう酒の形態のもとに神にささげられて、信者の永遠の生命の糧となる秘跡です。

(や)244 なぜ、聖体を拝領しなければなりませんか。

聖体を拝領するわけは、イエズス・キリストが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」とおおせられたからです。

(や)246 聖体拝領の効果は何ですか。

聖体を拝領すれば、(1)成聖の恩恵を増してイエズス・キリストとの一致を強め、(2)助力の恩恵をうけて徳にすすみ、(3)小罪がゆるされて大罪をふせぐ力が与えられ、(4)終わりない天国の幸福をいただくことができます。

(カ)108 聖体におけるキリストの現在

 キリストの制定のことばにしたがって、パンとぶどう酒はキリストの御からだと御血に変化します。
聖体には、イエズス・キリストの御からだと御血とともに、その霊魂も、神性もともにおいでになります。
なお、パンとぶどう酒のそれぞれどちらの形態のもとにもキリストは同様に現在しておられます。 

 このように、ロ一マ・カトリック教会において説明しています。特に、注目すべき点は、パンとぶどう酒を食することによって罪が赦されるとすることです。もう一つは、パンとぶどう酒がキリストの血肉の実体に化ける(化体説)という理解です。実に、魔術的な理解としかいいようがありません。むしろ、聖餐は救いの契約の更新であり、聖霊による臨在です。
 いままで述べてきたことを罪との関係で見てみると、罪の赦しの問題には何重もの構造が存在するということです。罪の赦しについての項目を上げると次のようになります。悔い改め、聖人との交わり、功徳、聖体(聖餐)、練獄というように五重構造ということになります。これは、大変大きな問題です。
 さて、聖体(聖餐)に預かることをロ一マ・カトリック教会では聖体拝領といいます。一般的に、ミサと言われているロ一マ・カトリック教会の礼拝の姿です。また、この姿は初代教会の礼拝の形式であったわけです。初代教会は、全員パンと葡萄酒に預かっていたのです。しかし、初代教会が成長する中で葡萄酒をこぼしてしまう人々が、増大するようになったのです。そこで、「かえって御血を汚すことになる」としロ一マ・カトリック教会は信徒が食することを禁じたのです。その後、第二回バチカン会議において一般信徒も場合によって食することが出来るようになったのです。
 聖体(聖餐)に預かることによって、次のような効果が与えられるとします。やさしい信仰問答の「246 聖体拝領の効果は何ですか。」を参照してください。特に、この中で問題となる点は「超自然的生命の成長」「助力の恩恵」という問題です。超自然的生命の成長とは、聖体(聖餐)よって次第に成長し大人になるというのです。もし、成長し大人にならなかった場合、霊魂と信仰に問題があるといいます。本当の霊的な成長、大人としての成長は認罪経験の深さに比例するものです。ですから、聖霊によるお取り扱いを受けなければなりません。次に助力の恩恵とは、罪を犯しやすい弱い人間は聖体(聖餐)に預かることによって罪にうち勝つ力を与えられるといます。従って、ふさわしく聖体に預かる者は大罪を犯すことはないともいいます。

聖体拝領 → 小罪の赦し → 霊魂の浄化 →欲望の減少 → 恩恵の増加
 
 このように、ふさわしく聖体(聖餐)に預かることは、罪の赦しと恩恵が増加するとしています。しかし、聖体(聖餐)そのものが恵みです。また、パンと葡萄酒に預かること事態が恵みなのです。決して、恩恵の増加のために食しているのではないはずです。
 聖体(聖餐)にふさわしいくあずかるということは、どういうことでしょうか。
このふさわしい姿になるためには、二つの姿があります。それは、霊魂と肉身の準備ということです。霊魂の準備というのいは、大罪がなく善意を持つということなのです。ですから、ロ一マ・カトリック教会においてミサに預かる前、告解室に入り司祭に向かって告解をするのです。これが、一般的にイメ−ジされている懺悔と言われるものです。告解の問題は後で述べますが、この告解をすることによって神との関係を回復することを意味しています。
 肉身の準備とは、神の恵みを受けるにふさわしい志を持つことです。この場合の「ふさわしい志」というのは、イエスを喜ばすこと、自分の欠点を直して完徳に進むことの二つを意味しています。非常に道徳的倫理的です。また、功徳を要求しています。本来、神は私たちのありのままの姿を喜び受け入れてくださっているのです。

イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」
                               イザヤ43:1b

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している
                                                  イザヤ43:4a

このように、神はそのままの真実な姿を喜ばれているのです。決して、道徳的倫理的な姿や功徳を求めてはいません。

(4)告解について
 告解とは、洗礼後に犯した罪を赦す秘跡(サクラメント)のことです。やさしい教理問答を見ると、告解には(1)〜(4)までの段階があるようです。まず第43課 告解(1)の章を参照にし見てみましょう。

252 告解とは何ですか。
 
告解とは、洗礼をうけたのちにおかした罪を、司祭をとおしてゆるす秘跡です。

253 イエズス・キリストは、どのようにして、告解の秘跡をお定めになりましたか。

イエズス・キリストは、使徒たちに向かって、「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦す罪は、だれの罪でもそのままのこる」とおおせになって、使徒たちとそのあとつぎの司教、司祭に、罪をゆるす権利をお与えになりました。                                           ヨハネ20:21−23
 
254 告解の秘跡を受けるには、何が必要ですか。

告解の秘跡を受けるには、罪の糾明、痛悔と決心、告白と償いを果たすことが必要です。

このように、洗礼を受けた後の生活の中で犯した罪を司祭をとおして赦していただく行為なのです。この秘跡をうける条件が「罪の糾明」「痛悔と決心」「告白と償い」の三つがあるとしています。
 さて、この告解というのは、聖書的な用語ではありません。聖書を探ってみてもこの言葉を見いだすことはできないはずです。この言葉は、本来ドイツ語の《bejicht》に由来するものです。この言葉の意味は、大声で証人たちの前で、あることを肯定し、あるものに味方することを意味しているのです。これが、「告白する」となったのです。そのことによって、聖書のメッセ−ジを含むようになったのです。私たちは、何を告白するのか。それは、言うまでもなく罪です。それは、私たちは罪人であり、罪の奴隷であるということを認めることなのです。ところが、ロ−マ・カトリック教会は罪を「司祭をとおして赦す」と言います。この行為は大きな誤りと言わざるをえません。なぜなら、旧約的な理解でしかないからです。また、聖書は次のように言っています。
 
そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在するのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとって必要な方です。 ヘブル7:22−26参照

 「わたしは 、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」これらのことが赦されるところでは、罪のためにささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自身の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
                                                     ヘブル10:17−20

動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
                                                     ヘブル13:11−13

このように、祭司を通して罪が赦されるのではなくイエス・キリストを通して赦されるのです。これは、万人祭司をどう理解するかにかかってくる問題でもあるのです。ロ−マ・カトリック教会では、告解を受けるための条件がいくつか存在します。それは、「やさしい教理信仰問答254項」に次のように規定されています。
a.罪の糾明
 この罪の糾明について、教理問答の255に次のように説明されています。

255 罪の糾明とは何ですか。

罪の糾明とは、前の告解の後におかした罪を思いだすことです。

256 糾明は、どのようにしますか。

罪を糾明するには、まず聖霊のおん助けを願い、神の十戒、教会のおきて、めいめいの務めなどについて、おかした罪をしらべます。なお大罪があった場合は、その数や事情もしらべます。

この内容から理解できる事は、罪を思いだし調査し罪の数を数え事情まで調べるのです。グドルフは、「糾明とは自分の心に思ったこと、望んだこと、言葉、行いなどを調べながら、どのような罪を犯したかを思い出すことである」3)と説明しています。これらの罪をどのように調べるか、という調査方法についても教理問答の256項において説明しています。それは、神の十戒、教会のおきて、めいめいの務めなどについて調べると言及しているのです。このことについて、グドルフは、「神の十戒、教会の掟、七つの罪源に従って罪を調べるのは一般の方法である。七つの罪源とは傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、噴怒、怠慢である。・・・それよりももっとやさしい糾明の仕方がある。それは神に対し、他者に対し、自己に対し罪を犯さなかったかどうかを調べる方法である」4)と言っています。
 神に対してという場合、具体的にどのような罪を指摘しているのか。まず、朝夕の祈りを実施しているか否かです。そして、神にゆだねて一日を過ごしているかです。他人に対してという場合、人を傷つける言動がなかったかどうか。非人間的行為がなかったか。罪を伴う感情的なことはなかったかなどです。自分に対してという場合、質素に忠実につつしみ深く毎日生きたかということです。
 ここまでが、告解の第一の段階です。この次が第二の段階に入るわけです。

b.痛悔と決心
 やさしい教理問答 44課 告解(2)を参照して見ましょう。この項目の副題は「痛悔と決心」となっています。
 
257 痛悔とは何ですか。

痛悔とは、おかした罪を心からくやみ、こののち決しておかすまいと決心することです。

258 どういう理由で、痛悔をおこしますか。

罪をおかして、全善の神にそむいたこと、天国の幸福をうしない、地獄、あるいは練獄の苦しみを受けなければならないことなどの、超自然の理由で罪を痛悔します。

259 完全な痛悔とは何ですか。

完全な痛悔とは、神を深く愛する心から、そのみ心にそむいたことを悲しみ、あるいはイエズス・キリストのご苦難、ご死去のもとになったことをくやんで、罪をきらうことです。

260 不完全な痛悔とは何ですか。

不完全な痛悔とは、罪のみにくさをはじたり、天国の幸福をうしない、地獄あるいは練獄の苦しみを招くことを恐れたりして、罪を嫌うことです。

261 完全な痛悔の効果は何ですか。

完全な痛悔をおこせば、告解の秘跡を受けなくても、受ける望みさえあれば、すべての罪とその罰がゆるされ、成聖の恩恵をとりもどします。
 
264 罪のゆるしを受けるには、おかした罪をくやみきらうだけでは足りません。こ    ののち、二度とおかすまいと、生活をあらためる決心を立てることが大切です。

痛悔について、二つに分類していることがわかります。罪の糾明との関係で見てみると次のようになります。人間は、罪を神・他者・自分の関係の中で良く調べます。その後、罪は自分の中に明確になることによって、後悔し心を痛めるというわけです。このような理解にも問題があります。
 ロ−マ・カトリック教会において、罪の悔い改めなしに洗礼によって救いに預かるのです。この状態では、罪がわかるはずがありません。人間が、罪を悔い心痛めるということは聖霊の業です。聖霊によるキリスト経験をしていない者が、悔いるということは不可能です。人間には、良心があると言われるかもしれません。しかし、この良心こそあてにならないものなのです。それは、人間は一つの嘘をつくとその嘘を正統化するため、また嘘をつくのです。そして、次第に良心が麻痺し感じなくなり当然の事となってしまうのです。ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。罪を教えるのは、調べあげてわかるのではなく聖霊によることなのです。
 さて、話を元に戻して行きます。痛悔とは、悔し心を痛め恥を感じるということにおいて二通りに分類できるとしています。この二種類の痛悔とは、「自然の痛悔」と「超自然の痛悔」です。
自然の痛悔・・・やさしい教理問答 257 の内容がそれです。つまり、罪を悔やみことなのです。
超自然の痛悔・・・やさしい教理問答 258 の内容がそれです。つまり、神に対する不従順ということです。
 さらに、完全な痛悔が規定されています。やさしい教理問答 259 がその内容です。完全な痛悔とは、神を愛する心から離れ御心に反する言動を悔やみ悲しむことなのです。また、イエスの十字架と死を悔やむことでもあるのです。この関係について図式してみると次のようになります。

 自然の痛悔 →  超自然の痛悔 →  完全な痛悔
(罪を悔やむ)    (不従順)    (十字架と死を悔やむ)

何か、しっくり行きません。罪そのものは、神から離れているからです。不従順は罪そのものでもあります。罪が、本当にわかったらイエスの十字架と死を悔やむのではなく感謝と恵みが起こって来るものです。この罪人の私の罪を赦すために、イエスが十字架で死んでくださったという歴史的事実がわかるのです。ですから、何が、完全であるか不完全であるか人間にはわからないはずです。まして、やさしい教理問答  264 には、罪の赦しを受けるには・・・とあります。その答えは、「二度とおかすまいと、生活をあらためる決心を立てることが大切です」といっています。人間が、罪を二度と犯すまいと、生活をあらためる決心をすることぐらいで罪から解放されるでしょうか。この程度であるならば、イエスは十字架に命を棄てる必要はなかったはずです。人間は、再臨の主をお会いするまで罪人であり罪人の頭です。

      人の心は何よりも陰険で、それは直らない
                      エレミヤ17:9

このように、人間は所詮罪人なのです。
 驚くことに、やさしい教理問答 262には、「不完全な痛悔でも小罪のゆるしは与えられる」と明されていることです。本来、罪に大罪も小罪も区別はありません。罪は罪です。しかし、十字架経験なしに痛悔で罪が赦されるというこは、非聖書的であり十字架否定のなにものでもありません。ですから、ここにも、十字架否定が起こっているわけです。 

C.告白
 おおかたのプロテスタント諸教会では告白と言った場合、信仰告白を意味します。この信仰告白は単に、「イエス・キリストを信じて生涯お従いして行きます」というのではないはずです。それは、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Tヨハネ1:9)とあるように、罪の悔い改めをそこに含んでいるのです。ですから、「私はイエス・キリストの十字架の贖いを信じ罪を認め悔い改めました。そして、罪が赦されたのです」という内容が伴うものです。
しかし、ロ−マ・カトリック教会は違います。やさしい教理問答 265 には次のように説明されています。

265 告白とは何ですか。

告白とは、罪のゆるしを受けるために、司祭に罪をいいあらわすことです。

このように説明されています。つまり、自分が犯した罪を神の代理人である司祭に言い表すことなのです。ここで言われていることは、イエス・キリストに罪を言い表すことではなく、司祭に罪をいいあらわすことなのです。この理解は、実に旧約的理解です。司祭に罪をいいあらわすのではなく、罪を告白する者のために取りなしの祈りをするということでなければなりません。司祭に罪を赦す権限はないからです。もちろん、牧師にもそのような権限はありません。罪を赦す権限は、あくまでもイエス・キリスト以外にありません。
 教理問答によれば、罪のゆるしを受けるためにどのように罪をいいあらわしたらよいのか、について説明しています。

266 どのように告白しますか。

前の告解のあとに、おかした大罪について、その数とおもな事情を、正直にいいあらわします。
267 小罪は告白する必要がありませんか。

小罪はかならずしも告白する必要がありません。しかしそれを告白することは、いっそう心のやすらぎを得ます。

268 告白のとき、大罪を忘れたらどうしますか。

忘れた大罪は、告白した罪といっしょにゆるされていますから、あとで思いだあしたら、つぎの告解の時、これをいいあらわせば充分です。

これらの事を、要約してみると次のようになるのでしょうか。罪には、大罪と小罪があり、小罪は告白しなくてもよいがしたほうが好ましい。なぜらな、よりいっそうの心の安らぎが得られるからです。基本的には、告解の告白は大罪でよい。しかし、その数と事情を正直にいいあらわすことが大切。忘れていた場合、次の告解の時にすれば良い。グドルフは、「告白は修養の手段として非常に有益である」5)といます。すると、本来の意味から外れてしまいます。また、罪を大小の二つに分類していることに問題があります。むしろ、聖書は複数の罪は単数の罪から生じるといっているからです。
 さて、このような告解が実施された後、司祭は告解室の中で告解者に対して、主の祈りや十戒を十回唱えなさいと指示します。それは何故か、ということです。
やさいしい教理問答に戻って見ましょう。

270 司祭が、告解で償いを命じるのは何のためですか。
 
司祭が、告解で償いを命じるのは、罪のかぎりある罰を、償わせるためです。
 
このように、罪の償いのために「〜を唱えなさい」と指示するわけです。こうなりますと、イエスの十字架の贖いの否定をいっているようなものです。しかも、これに留まらず、ここで(270)でいっている償いでは不十分であるとやさしい教理問答では指摘しています。

271 告解で命じられる償いのほかにも、償いは必要ですか。

告解で命じられる償いは、特別の効果がありますが、必ずしも足りるとはいえません。それゆえ、そのほかにも、祈りをし、善業を行い、この世の苦しみや心配などを耐えしのんで、これを罪の償いとするように心がけることが必要です。

つまり、功徳をし人生を忍耐し続けることによって償いが成立し罪が赦されるとする理解です。これもまた、十字架の否定です。もう何年の前のことです。ミッションという映画がありました。不確かな記憶ですから少々内容が違うかもしれません。この映画の主人公は奴隷商人です。この奴隷商人が自分の罪を悔い罪を司祭に言い表すのです。しかし、人々は、彼を信用しません。しかし、彼は伝道者になりたいと告げます。そして、司祭たちは、彼が本当に後悔し罪赦されているかどうかを確認するために功徳を求めるのです。かつての奴隷商人は、大きな石を背負い坂の上に上るのです。そして、坂の上から大きいな石を転がします。下に転がった石をとりに下ります。そこで、同じ大きな石を背にのせ坂の上に上るのです。同じ事を何度も何度も繰り返します。しかも、毎日です。このことを通して、自分の犯してしまった罪の大きさと重さを次第に実体験として理解し初めるのです。最後には、罪の重さに涙を流しながら同じことを繰り返しています。この姿を見ていた司祭たちは、彼の功徳を承認し宣教師として任命するのです。このような姿は、告解と同時にそこに伴う功徳の世界なわけです。
 このようにして、罪の償いをするのですが、償いが免除されることもロ−マ・カトリック教会にはあります。このことを免償といいます、この免償とはなんでしょうか。やさしい教理問答を見てみましょう。

272 免償とは何ですか。

免償とは、告解の秘跡のほかに、すでにゆるされた罪の罰をゆるすことです。
免償には、全免償と部分免償があります。
 
この説明では、良く理解できません。どういうことでしょうか。ロ−マ・カトリック教会では、告解の秘跡によって罪は全部赦されると理解しています。また、一方では、永遠の罰も赦されるともいます。しかし、有限の罰はその限りではないのです。つまり、罪は赦されるが罰は残るということなのです。どのように考えたら良いのでしょうか。人間社会では、犯罪を犯すと逮捕され裁判を受けます。その裁判において罪は赦されます。しかし、その犯罪者に有限の罰を受けることになります。それが、前科ということです。
 ですから、ロ−マ・カトリック教会では罪は赦されるが前科は残るといっているわけわけです。有限の罰を別の方法で償うことが必要であるとします。その理由について、グドルフは、決してイエズス・キリストの償いが不十分であるからではない。信者はイエズス・キリストの御体の部分であるから、その御苦しみに参加するのである。「キリストの御苦しみの欠けたところを私の肉体で充たすのである」(コロサイの書簡1:24)すなわち信者の償いはキリストの御苦しみに合わせて始めて価値あるものとなる6)といいます。この理解は、誤った聖書解釈です。キリストの御苦しみの欠けたところとは、「宣教の苦しみ」ということです。また、パウロは「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」(ロ−マ書13:8)と言っています。これは、愛の負債以外の負債は負うなといっているのです。私たちは、私たちの罪の贖いのためにイエス・キリストは十字架に命を捨ててくださったのです。この十字架の上に現された愛の負債を負っているのです。この負債を返していく生涯がキリスト者の生涯であって、御苦しみのに参与することではない。むしろ、苦しみに参与するということは、宣教の苦しみということです。
 以上のように、罪の赦しには色々な通り道や抜け道があるということがわかります。

(5)病者の塗油
 病者の塗油とは終油という表現でいう場合もあります。病者の塗油という言葉は、プロテスタントに属するキリスト者にとって聞きなれない言葉です。また、初めて聞く人々が存在するに違いありません。病者の塗油(終油)とは、一言で表現するならば「臨終の時に霊魂と肉身を助ける秘跡(サクラメント)」ということです。また、教会憲章の11には、「『終油』はむしろ『病者の塗油』ともいうべきもので、危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではない。したがって、信者が、病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が来ていることは確かである」となっています。やさしい教理問答には次のように説明されています。

275 病者の塗油とは何ですか。

病者の塗油とは、病気が重くなった信者を、助け強める秘跡です。

このように説明されています。病人は、病床の中で孤独を感じ生きています。また、臨終の時が迫ってるとたとえ人々に囲まれていても死という恐怖と戦いながら全くの絶望と孤独の中にいるのです。このような人々にキリストの力によって心身を強める恵みを与える秘跡ということなのです。この理解について、ルカ10:30〜37にある「良きサマリヤ人」を例に説明をします。
 それは、エルサレムからエリコに下る途中、強盗に襲われたひとりの男がいます。この男は強盗に襲われ身ぐるみはがされ、半殺しにされてしまったのです。この男を介抱したのがサマリヤ人です。サマリヤ人は、近寄って傷にオリーブ油とブドウ酒を注いで、包帯をし自分の家畜に乗せ宿屋に連れていったのです。このサマリヤ人の行為がこの秘跡にあたるというのです。
 しかし、この「良きサマリヤ人」のたとえはそのようなことをいっているのではありません。「あなたの隣人は誰か」ということであり、このサマリヤ人はイエス・キリストを象徴的に教えているのです。人生で傷つき倒れかかっている人々をイエスは近づいて癒し救ってくださるのです。そして、私たちの隣人となってくださるのです。
 このような「病者の塗油」を誰が何を根拠に定めたのか、ということです。実際のところ、誰が何を根拠に定めたのか、ということについては明らかではありません。ただ、ヤコブ5:14〜15を引用します。ここには、次のように書いています。

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
                          ヤコブ5:14〜15

この聖書箇所を根拠にしています。そして、ヤコブ書の著者であるヤコブはキリストの命令に従ったとします。また、教会の中で習慣として人々はしていたというのです。
 聖書の中を見ると、教会の中でオリーブ油をもって癒しの祈りをしたことは記述されています。そして確かに、当時の教会においては習慣となっていたようです。しかし、それが、キリストの命令であったとは記述されていませんし文脈からいっても無理な解釈といわざるをえません。では、このヤコブ5:14〜15をどのように解釈したらよいのでしょうか。
 長老たちの祈りの目的は、病人の死に対する準備ではなく病気が癒されるためです。ロ−マ・カトリック教会のラテン語訳聖書では「長老」を「司祭」と訳しています。また、ヤコブの目的はオリ−ブ油を塗ることではなく、主の御名によって祈ることです。オリ−ブ油を塗ること事態に何らかの神的な力があるのではなく一つの方法でしかないのです。復活のイエスが弟子たちに命じられたことは、「病人に手を置けば・・・癒されます」(マルコ16:18)ということであった。病気を癒す力は、オリ−ブ油にあるのではなく主の御名による聖霊の働きです。癒しも、信仰と祈りの結果であるということです。
 ですから、ヤコブは15節において「信仰による祈りは、病む人を回復させます」といいます。あくまでも、癒しは信仰による祈りの結果でしかないのです。ここでいう「病む人」というのはギリシャ語で「カムノ−ン」という言葉が使われています。この言葉は、危篤状態の人を指しているのではなく元々「弱っている人」ということです。従って、「信仰による祈りは弱っている人を自分の足で歩けるように立たせる」ということになります。
 次の問題は、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」ということです。病気と罪の赦しの関係についてです。今の聖書箇所を単純に読むと、病気の原因は罪であるとも理解できます。しかし、病気=罪という公式は絶対的なものではありません。確かに、イエス・キリストが中風の人を癒されたことがマルコ2:9には記述されています。ここにおいては、病気の癒しは罪が原因であったので病気=罪の赦しということがいえます。しかし、すべての病気の癒しが罪と関係しているとは聖書は言及していません。むしろ、義人が苦しむという姿が聖書の中には記述されています。
 大切なことは、神に聞かれる祈りとは何かを知り体験することです。マルコ14:36には「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」という神の前における謙遜な信仰の姿にあります。この信仰の姿勢に問われているのは、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21:22)という絶対的信頼です。
 ロ一マ・カトリック教会では、「終油のしるし」を次のように行います。聖油を病人に用います。その際、聖油は病人の目、耳、口、手、足に十字架をしるしながら、「願わくはこの注油と主の善なるご慈悲によって、主はなんじが目をもって犯したる罪をゆるしたまわんことを」と祈ります。続いて、「耳をもって犯した罪をゆるしたまわんことを」と順に祈りながら唱えるのです。ここでなぜ、聖油を用いるのか。それは、油は栄養として体を強め、薬として苦痛を和らげ、傷を癒し、戦いに適応させる効力があると理解しているからです。このような理解の根拠はどこから来たのでしょうか。この根拠は、決して聖書から来たものではありません。むしろ、古代の風習から来たです。それは、運動競技や戦場に出陣する兵士たちは油を塗ってなめらかにする習慣があった。このような風習を取り入れた結果であったということなのです。
 さて、問題は聖油の効果・効力についても言及しています。それぞれ、簡単に述べてみましょう。上記の文章中、三つのアンダ一ラインの部分がそれにあたります。

a.強めること・・・人が臨終を迎えるとき、霊魂が体から次第に離れていく。この時、体の内蔵器官はその働きが低下していきます。この機能低下に伴って、苦痛を感じ訴えることがあります。それだけではなく、死の恐怖と不安のために悶え苦しむ。ある者は、生の執着のために悶え苦しむのです。これらの苦しみを和らげ、臨終の悶えを鎮めます。また、臨終の悶えに耐え忍ぶ力を与えるというのです。
 このような意味で、「強める」というのです。このような理解は、聖書的な根拠はありません。むしろ、イエス・キリストは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」といいます。イエス・キリストは、「常にわたしと共に」いてくださるのです。この「います」というのは、ギリシャ語で「エイミ」です。これは、イエス・キリストの臨在はどこにいても常に存在するということです。ですから、どこにでも「常にイエス・キリストは私と共にいてくださる」ということこそが力、慰め、励ましです。死に対する恐怖と不安は、救われた魂ならば解決しているはずです。もし、そうでないとするならばあなた自身の救いをもう一度確認する必要があります。また、全き服従が出来ていたかどうか信仰の再吟味をする必要があります。まして、死の決定は神の側にあるのです。 
 なぜ、人は死ぬのか。パウロは「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に・・・それというのも全人類が罪を犯したからです」(ロ一マ5:12)といっています。人間は、罪があるので死ぬのです。ヨハネは「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じないので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)ともいっています。つまり、死そのものがすでに神の裁きそのものの実体の一つであるということです。ですから、イエス・キリストを救い主として信じなければ、本当の力、慰め、励ましはないということになります。
b.癒すこと・・・癒しの前提があります。それは、終油の秘跡によって罪を告白し清められる必要をいいます。しかし、臨終の時が近づいてくると話すことがとても困難になることが少なくない。その時でさえも、終油の秘跡によって罪が赦され、同時に傷も癒されるとします。しかし、いままで述べてきたように、償うべき罪が残っている場合は、同時に赦されるのです。また、ある時には、病気が癒されることもあります。癒されなくても延命の力になることがあると理解します。この問題は、前章で述べたのでここではもうふれません。
c.戦いに適応させる・・・何の戦いか。罪とサタンとの戦いを意味しています。それは、臨終に近い時に罪が病床で赦されても、罪の傾向が残っています。その傾向に、サタンの誘惑は神様から離そうとするというのです。罪なる人間は、サタンの誘惑と戦う体力や知力が低下してしまうので、それを高める効果を与えるというものなのです。
 この問題は、聖書がどうこうという以前の問題があるように思います。それは、現実の死に直面しているような状況の中で、罪や誘惑ということを考えるでしょうか。まして、キリスト者はどのように過ごすでしょうか。それは、私の創造者、救い主なるイエス・キリストのみもとに行く準備をするはずです。すでに、私たちは罪に勝利をとっているのです。イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのりです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)といわれます。また、「わたしがこらのことをあなたがたに話たのは、あなたがたが、わたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)ともいわれます。キリスト者は、罪と死に対する勝利者です。この恵みを、イエス・キリストが与えて下さったのです。従って、病床においてなおこのお方に、お会いする備えをする時となるはずです。
  
 このような、終油の秘跡を受けるには条件があります。それは、信者が重い病気にかかった場合です。この場合の「重い病気」というのは、死に直面している状態の人のことをいます。
 この条件は、結局「信者でなければならない」「死に直面している状態」という二つの条件を満たしうる者でなければならないのです。そうすると、聖油の効果についての内容は矛盾だらけといわざるをえません。その第一は、「生の執着のために悶え苦しむ」「死の恐怖と不安のために悶え苦しむ」ということです。重い病床の中にある時、このような状態が起こったとしたら、その人の救いを疑わざるおえません。つまり、救われていないということになります。救われたキリストは、いっさいを神様におゆだねし平安の中で召されていきます。第二は、「終油の秘跡によって罪が赦され同時に傷も癒される」ということです。罪の赦しは、十字架のイエスを信じ罪を自分の言葉で告白しなければなりません。病気が治る治らないは、神様の御心のままになされることです。第三は、「サタンの誘惑と戦う体力や知力が低下してしまいそれを高める効果を与える」ということです。あえて効果を高めるというならば、みことばによる臨在ということです。決して、他のなにものによっても効果を高められるはずはありません。
(6)叙 階
 トレント公会議、第23総会、第3章は叙階が真の秘跡あることを証明するためにUテモテ1:6〜7を引用しています。また、第4章においては、叙階は消すことのできない霊印を刻みつけると教えています。
 さて、叙階とは何でしょうか。この言葉についても、プロテスタントに属する者にとって馴染みのないものです。やさしい教理問答 第48課 叙階 というところに目を留めてみましょう。

279 叙階とは何ですか。

叙階とは、司祭職につく権能をさずけ、これをふさわしく行う恩恵を与える秘跡です。

この秘跡について、次のように説明されています。この言葉から叙階とは、一種の職務権限と理解できます。なぜなら、「司祭職につく権能をさずけ」という言葉から理解できます。ということは、授ける者は誰かということです。授ける者がいなければ、「さずけ」という表現はでてきません。では、誰が授けるのか。教会憲章の中に次のような文章があります。少々長いのですが引用します。

 「したがって、助力者である司祭や助祭とともに、共同体の奉仕する役務を受けた司教は、神の代理人として群の上に立ち、教理の師、聖なる祭儀の司祭、統治の役務者として、群の牧者である。使徒たちの頭であるペテロひとりに主から授けられ、その後継者につたえられるべき任務が永続するのと同じように、教会を司牧するという使徒の任務も、司教の聖なる職位によっていつまでも行使されるべきものとして永続する。したがって、聖なる教会会議は、司教が教会の牧者として、神の制定によって使徒の位置を継承した者であり、かれらに聞く人はキリストに聞き、かれらをさげすむ人はキリストと、キリストを派遣したかたをさげすむ者であると教えている」6)

 「主の群を牧するために選ばれたこの牧者たちは、キリストの役務者であり、神の諸秘義の分配者であって(Tコリント4:1参照)、神の恩恵の福音の証明と(ロ一マ15:16、使徒行録20:24参照)、霊と義の栄光ある役職が彼らに委託されたのである(Uコリント3:8〜9参照)。
 使徒たちはこのような崇高な任務を果たすために、彼らの上にくだった聖霊の特別な注ぎかけによってキリストから豊かにされ(使徒行録1:8、2:4、ヨハネ20:22〜23参照)、自分たちもその助力者たちに按手をもって霊的たまものを伝授した(Tテモテ4:14、Uテモテ1:6〜7参照)。このたまものは、司教聖別においてわれわれまで伝えられてきている。聖なる教会会議は、教会の典礼の慣習と聖なる教父たちのことばによって、最高の司祭職。聖なる役務の頂点と呼ばれている叙階の秘跡の充満が司教聖別によって授けられる、と教える」7)

この文章から言えることは、ペテロの後継者であるロ一マ教皇から按手によって司教が誕生します。こうして、司教群が形成されその一人の司教が叙階の秘跡を他の者に按手をもって祭司職の権能を授けるのです。この祭司職の権能は、教導職、司祭職、指導職の三つを示しているのです。やさしい教理問答の中に、次のよいうに説明されています。

280 叙階によって、司教、司祭、助祭はどんな権能を受けますか。

叙階の秘跡によって、司教は使徒のあとつぎとなり、すべての秘跡を行う権能と
教会を治める権能とを受け、司祭は、司教の助けとして、ミサ聖祭をささげ、罪のゆるしその他の秘跡を授ける権能を受け、助祭は、司教を助ける権能を受けます。

 さて、叙階には七段階があり上の三級と下の四級があります。つまり、七つの階位があるということです。項目を上げていくと次のようになります。
 
下級四段  守門、祓魔師、読師、侍祭
上級三段  副助祭、助祭、司教

これらの儀式を行う前に、剃髪式を行うのです。その意味は、髪を切るという行為を通して一切を神様に献げるという献身を意味しているのです。まさに、ロ一マ・カトリック教会において髪は献身のしるしなのです。それでは、それぞれの意味について説明していきましょう。
a.守門・・・門衛を意味します。彼らは、会堂のことを聖堂といいます。この聖堂の扉を開閉したり、鈴や釣鐘を鳴らす役目です。この根拠をどこに求めるのか。
それは、初代教会が迫害下の中にあった時、彼らは地下に逃げました。特に、ロ一マの教会に人々は地下に祭壇を築き礼拝をしました。この礼拝中、ロ一マの兵卒たちに見つからないように地下道の入り口を厳重に守る必要があったのです。これが、起源なのです。その象徴として、扉の鍵と鈴を渡します。
b.祓魔師・・・悪魔を追い払う務めのことです。使徒時代には、悪魔につかれた者たちが多くいました。従って、現在においても全然ないとはいえない。病気も時には悪魔が原因で起こることがあるのです。ですから、この務めが必要であるといいます。
c.読師・・・この務めは聖書朗読をする者をいいます。
d.侍祭・・・司祭のミサに奉仕する者のことをいいます。
 以上が下級四段です。では、上級四段の内容はどのようなものでしょうか。
e.司教・・・司教は祭司の上に位置づけられる大祭司なのです。大祭司は、叙階や堅信の秘跡を授ける資格が認められています。また、キリストからの権能をすべて委ねられている者であると理解しています。使徒時代には、この司教のことを長老と呼んでいたと解釈します。そして、下級の四つの段階を全部授けられているのが司教という存在なのです。
f.助祭・・・この務めはミサの際に司祭をサポ−トする職務です。また、司祭を助けて説教をし、ミサを(プロテスタント教会でいう聖餐)取り扱うことが許されたものなのです。使徒行伝6章の中に登場してくる、ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、ニコラオこの七名が助祭であったと理解します。
g.副助祭・・・この制度と務めは助祭が不足している時に制定されたものなのです。この務めから、独身生活とともに聖務日祷を唱える義務を課せられるようになるのです。
 
 
 

 
         │上│       ──┐
         │級│  司 教   │
     │三│  助 祭   │
         │段│  副助祭   │
         │下│  侍 祭   ├──叙 階
         │級│  読 師   │
         │四│ 祓魔師   │
         │段│  守 門  │
                      ──┘
 いうまでもなく、この七つの階級の中では司教職が一番重要であり重責です。その務めについては次のようにロ−マ・カトリック教会では考えているようです。司教は、霊的側面として、カトリック信者を完徳に導き、信仰生活に進ませ、救霊にいたらしめる義務を持ちます。そのために、一日も怠らず毎日ミサ礼拝(聖祭)を行い聖務日祷を唱えるのです。当然ながら、黙想、霊的な書物を読むことは日課です。また、全てを献げたしるしとして、童貞生活を過ごすことは常識となっています。
 理性的側面として、非常に高い学歴が必要が要求されます。司祭となるために大学教育の中では、神学科の中に哲学を含めて6年と定めています。また、一般教養においても高い学識が要求さます。そればかりか、語学においては数カ国語を身につけることは常識のこととされています。
 これらの規定について詳細に知りたい方は、第二バチカン公会議の「司祭の養成に関する教令」及び「教会における司教の司牧任務に関する教令を参照して下さい。

(7)婚 姻
 婚姻を秘跡の一つとして、ロ一マ・カトリック教会は定めています。プロテスタント諸教会において、この点においても一致することはできません。やさしい教理問答 49課 婚姻の項には次のように説明されています。
 
283 婚姻の秘跡とは何ですか。

婚姻の秘跡とは、信者が男女の一生の縁を結び、夫婦のつとめをよく果たせるように、神の助けをあたえる秘跡です。

この根拠として、創世記2:18〜25を述べています。いうまでもなく、この箇所はエバの創造とアダムとエバの結婚です。そして、結婚の目的についても教理問答の中で説明しています。

284 婚姻の目的は何ですか。

婚姻の目的は(1)夫婦が互いに助け合い、完成しあうこと、(2)子をうみ育てることです。

つまり、人類の保存と繁栄ということです。婚姻の目的について、創世記1:28を参照すると「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地をしたがえよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』と神の命令が記述されています。ですから、プロテスタント教会の立場においてもこの理解は同意することができます。また、異論はないはずです。
 さて、問題はこの婚姻は誰が定めたものかということです。創世記2章では、アダムの創造後アダムのあばら骨を一つ取り一人の女に造りった様子が記述されています。その後に、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるべきである」(創世記2:24)と婚姻を神ご自身が制定しているのです。この制定は、神の創造の秩序としての婚姻に関する制定です。ロ一マ・カトリック教会が理解するようなサクラメントとしての制定ではありません。しかし、誰がこの男女を夫婦として定めるのか、というこが大切なこととなります。やさしい教理問答には次のように説明されています。

285 婚姻の秘跡はどのようにして授けられますか。

男女の信者は、主任司祭またはその代理者と、二人の証人の前で、婚姻のちかいを立てることによって、互いにこの秘跡を授けあいます。

この説明から理解できることは、聖職者と証人の前で契約を結ぶことであるということです。このような理解の中に、不思議な点があることに気がつきます。それは、「神の前に」という理解が欠如しているということです。日本基督教団の式文(249ペ一ジ)を参照してみます。すると、結婚の宣言の言葉には次のようになっています。

宣 言

(    )と(    )とは、神と会衆との前で夫婦となる約束をいたしました。ゆえにわたくしは、父と子と聖霊とのみなにおいて、この兄弟と姉妹とが夫婦であることを宣言いたします。

「神が合わせたもうものを、人は離してはならない」 ア一メン

また、日本同盟基督教団 式文作成委員会が発行した式文も参照します。この式文の結婚宣言(130ペ一ジ)には次のようになっています。

宣 言

 (    )兄弟と(    )姉妹とは、神と証人との前で、真心から夫婦としての誓約をいたしました。
 ここに私は、父と子と聖霊の御名によって、この男女が夫婦であることを宣言いたすます。

「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19章6節)

 この二つの式文の前者は口語訳のものであり、後者は新改訳のものです。単にこの二つは、訳や表現が違う程度のことです。しかし、ロ一マ・カトリック教会の婚姻に対する理解と大きく違うことがあります。そこが問題なのです。それは、ロ一マ・カトリック教会は、婚姻を聖職者と証人の前で契約を結ぶことと理解しています。この理解は、神の代理人である聖職者ということからきているためなのでしょう。
 これに対して、プロテスタント教会は神と証人(会衆)の前で契約を結ぶことと理解しています。この場合の証人(会衆)という理解の中には、司式者も入ります。この辺の問題になりますと、教職論の問題になります。ここでは教職論が目的ではないのでこの問題は避けます。
 ただ一言だけ、この問題は万人祭司論をどう理解するかにかかってくる問題であることを申し上げておきます。
 このように、ロ一マ・カトリック教会が主張するところの七つのサクラメントについて簡単に述べてみました。プロテスタント諸教会とロ一マ・カトリック教会は共通点がありますが、随分違いがあることが理解できたと思います。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

引用文献

1.キリスト教入門《自修用》下巻 著書 グドルフ  P160  エンデルレ書店 2.  同                                         p174         同
3.  同                                         p263         同
4.  同                     p264         同
5.  同                            p273         同
6.第2バチカン公会議 公文書全集 南山大学監修   p 62     中央出版社7.  同                                      p 63       同
 
 

7章 他宗教との関係

 一般的に、ロ一マ・カトリック教会とプロテスタント諸教会を比較した場合、前者は寛容であり幅があるが後者は排他的であり狭いという理解があるようです。私たちの教会員の中にも、「ロ一マ・カトリック教会のほうが寛容で楽であるから」という理由で教会を去った方々が数名おります。また、このような現象について、他の牧師たちからもしばしば聞くことがあります。そのそうな人々の歩みについて、見ていますと自分の気分や都合で教会にいったりいかなかったりしています。それだけではなく、聖書に対する態度においても都合の悪いところに対しては耳をふさぐ傾向があることに気がつきます。
 私は、ロ一マ・カトリック教徒の知人が少なくありません。彼らの日常を見ておりますと、生活の中に占い、お札、お守り等なんでもある状態です。寺院にいっては、仏像や位牌に向かって手を合わせることは何の抵抗もなく行っています。ノン・クリスチャンと何ら変わらないのです。実に不思議です。ある日、私は尋ねました。何故、そんな事をするのか、と・・・。その解答は、「神様は他の宗教の中にも聖書にない真理を人間に示しておられる」というのです。また、占い、手相等については、「神様は人間の将来についてそれらのものを通して教えている」というのです。私は、当時この解答に驚きを隠せませんでした。
 何故、このような理解になるのでしょうか。第2バチカン公会議 公文書全集に目を留めてみましょう。この会議録の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」という項目が、現在のロ一マ・カトリック教会の公的な見解であり立場です。部分的に重要と思われれる点を引用していきます。

1.キリスト教以外の諸宗教

 ところで、進歩した文化と結びついている宗教は、より深遠な概念や、いっそう洗練された言語によって、同じ問題に答えようとしている。たとえば、ヒンズー教において、人びとは、汲み尽くすことのできないほど豊かな神話と、哲学上の敏感な努力をもって神の神秘を追求し、表現する。また、かれらは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、われわれの存在の苦悩からの解放を求めている。仏教においては、その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。これと同じように、世界中に見いだされる他の諸宗教も、種々の道、すなわち、種々の教義と戒律と儀式を提示することによって、いろいろな方法で人間の心の不安を解決しようと努力している。

カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排除しない。・・・これらは、教会が保持し、提示するものとは異なっているが、すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない。しかし、教会はキリストを告げているし、また絶えず告げなければならない。「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であるキリストにおいて、人は宗教生活の充満を見いだし、キリストにおいて神は万物を自分と和睦させた。

したがって、教会は自分の子らに対して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら、賢慮し愛をもって、他の諸宗教の信奉者との話し合いと協力を通して、彼らの中に見いだされる精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進するよう勧告する。

2.イスラム教

教会はイスラム教徒をも尊重する、かれらは唯一の神、すなわち、自存する生きた神、あわれみ深い全能の神、天地の創造主、人々に話しかけた神を礼拝している。また、イスラム教の信仰がすすんで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じように、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。かられは、イエズスを神と認めないが、預言者として尊重し、その母である処女マリヤを称賛し、時には敬虔に彼女に祈る。かれらはさらに、よみがえったすべての人に、神が報いを与える審判の日をまっている。したがって、かれらは道徳的生活を尊び、特に祈りと施しと断食によって神を礼拝している。

幾世紀にわたる時代の流れにおいて、キリスト教徒とイスラム教徒の間に少なからざる不和と敬意が生じたが、聖なる教会会議は、すべての人に過ぎ去ったことを忘れ、互いに理解し合うよう、まじめに努力し、また社会正義、道徳善、さらに平和と自由を、すべての人のために共同で守り、促進するように勧告する。

3.ユダヤ教

この聖なる教会会議は、教会の秘義を探求しつつ、新約の民とアブラハムの子孫を霊的に結んでいる絆を思う。

このように・・・したがって、すべての人は、教理の説明や神のことばの宣教にあたって、福音の真理とキリストの精神にあわないことを、何も教えないように注意しなければならない。1)
                                  (第2バチカン公会議 公文書全集参照)

 このように、諸宗教との関係について説明しロ一マ・カトリック教会の立場を表明しています。ロ一マ・カトリック教会には、「教皇様の声」という月刊紙があります。この機関紙(1997年6月10日)206号に次のような記事があります。紹介しましょう。

教会はすべて真であるものを受け入れる

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(以下「宣言」と略す)は、第2回バチカン公会議文書の中でも一番短いものですが、その重要性と新しさを見逃すことはできません。それはキリスト信者と他の宗教の信奉者が互いに敬意をもって対話し、人間の真の福利のために協力し合う道を示しています。
 不幸なことですが、かつては宗教上の確信のもとに、敵対がありました。「宣言」は、神こそが人類の兄弟愛の確固たる基礎であることを思い起こさせてくれます。「すべての民族は一つの共同体であり、唯一の起源をもっている。・・・また、すべての民族は唯一の終局目的、すなわち神を持っている。神の摂理と慈愛の証明、さらに救いの計画は、すべての人に及ぶ。」
 この確信が、真理という概念を相対化するものであってはならないのは、当然です。ですから教会は、託身した神の子キリストのみが「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であり、キリストにおいてのみ人は宗教生活の充満を見いだす(「宣言」2参照)のだ、とあらたな熱意を込めて伝え広めることを自らの義務としています。
 しかしこのとこが、多くの宗教に見られる前向きな要素を過小評価することにつながってはなりません。「宣言」は特にヒンズー教や仏教、イスラム教その他の伝統宗教の霊的豊かさについて触れています。「カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見い出される真実で尊いものを何も排除しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、全ての人を照らす真理の光線を示すことにもまれではない」
 「宣言」は、キリスト教がとりわけ深い関係を持つユダヤ教の兄弟たちに対して、特別な注意を向けています。実にキリスト教信仰はユダヤ民族の宗教体験に端を発し、キリスト自身もその民族の一人だったからです。聖書のうち旧約と呼ばれる部分は、カトリック教会もユダヤ教も共通です。教会は今も同じ真理の遺産から生命を汲み、キリストの光に照らして読み返します。キリストが新しい永遠の契約によって開いた新時代の始まりは、この古い根を滅ぼすのではなく、普遍的で豊かな実りをもたらすものでした。この事実を考えてみれば、キリスト教とユダヤ教の間にしばしば起こった緊張状態は、深い悲しみであると言わざるを得ません。今日も「ユダヤ人に対する憎しみ、迫害、反ユダヤ主義の運動を、それがいつ、誰によって行われるものであっても、すべて嘆き悲しみ」(「宣言」4番)と述べた公会議の声を、私たち自身のものとしなければなりません。
 宗教精神の模範であるマリヤに祈ります。あらゆる宗教の信奉者たちが、神を見つめて生き、各自の信じる真理の要求し忠実であるよう、励ましてください。
教会がマリヤの取り次ぎと助けによって、真理への忠実な証言と、全ての人との対話を両立させることができますように。また、全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神のみ旨にそった平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように。
                                                           (97・1・14)

 随分長くなりましたが、このように記述されています。この内容は、第2バチカン公会議 公文書全集「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」に準じるないようであることはいうまでもありません。上記の内容を少々検討してみましょう。

 全文で述べたように、「ロ一マ・カトリック教会は寛容であり幅がある」という声を時々聞きます。上記の文章の中に「教会はすべて真であるものを受け入れる」という表題があります。その内容は、対話でありそれぞれの諸宗教にある真理を真理として承認するということです。しかも、人間はいろいろな方法で人間の心の不安を解決しようと努力しているのだ、というロ一マ・カトリック教会なりの見解をもっていることがわかります。その中で見いだされたものを「各自の信じる真理の要求に忠実であるよう」という表現をもって真理と承認しています。また、自力と他力による救いを承認しています。 
 この辺の問題は、啓示論に関する事柄と救済論に関する事柄にまります。救済論についてはすでに述べてきました。従って、啓示論に中でこの問題を考えていきましょう。啓示というのは、神の自己紹介というふうに理解しておくとよいでしょう。私たちが、初対面の人とお会いすると自分の存在を相手にわかるように話すことが自己紹介です。しかも、自己紹介は自発的なものです。神様は、神自ら人間に対して自分の存在を紹介したのです。ですから、啓示とは神を知る方法ということがいえます。啓示の中には、大きく二種類に分類できます。それは、「一般的啓示」と「特別(特殊)啓示」です。

a.一般的啓示 (間接的啓示)

 一般的啓示は三つに分類することができます。簡単に分類してみましょう。
@自然界・・・私たちは、自然に触れると神秘的なものを感じるものです。日本人は特に、山などに行くと石を積み重ねていたりします。詩篇には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)とあります。また、パウロは「神の、見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造さえた時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らには弁解の余地はないのです」(ロ一マ1:20)といっています。ここで、「神の見えない本性」という表現があります。これは、神というお方は目に見えない霊的存在であり霊において存在するお方であるということなのです。ですから、自然界をとおして神の存在がわかるようにしてくださっているのです。
A歴 史・・・人類の歴史をみると神が導いておられることがわかります。英語では歴史を「HISTORY」と書きます。この言葉を分解すると「HIS、TORY」となります。こ場合のHISはイエス・キリストです。ですから、歴史とは、キリストの歴史であるという人々がおります。これは、こじつけですがうまい説明だと関心します。旧約聖書中の預言書を見てみますと預言者たちが人類に救い主が来ることを何千年前から予告していました。そして、この救い主が私たちの罪を赦すために十字架について死に、神の救いの業が完成することを予告しています。イザヤ53章などには、預言者イザヤが十字架に上で救い主イエスが苦しんでおられるのを実際に見たかのように描いています。新約聖書中には、この預言者イザヤが語ったことが本当かどうか調べたという記述があります。例えば、「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました」(Tペテロ1:10)とあります。そして事実、受肉、十字架、復活、昇天は歴史的事実として起きたのです。また、イスラエル国家の将来の行方についても述べています。このように、神は歴史に介入し歴史を導くのです。私は、高校生の時、まるで聖書が台本のようになって人類の歴史を導いておられることを感じました。事実、聖書と人類の歴史を重ねてみると歴史を導く神がおいでになることがわかります。
B人 間・・・人間存在そのものを見る時、神の存在がわかります。不思議なことに、いつの時代もどんな民族であっても自分の死や死後について思い巡らします。また、悩みます。伝道の書に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道の書3:11)とあります。人間が自分の終末的なことで悩み苦しむ原因は、神が永遠への思いを心の中に与えられているからです。ですから、現在よく言われるタ一ミナル・ケアとは、永遠者なる神と出会うことといえます。また、人間は、何のために生まれ、何のために生きるか。孤独、空虚、罪等の問題についても人間は苦悩し追求しています。この解決のために、人類は歩み続けてきました。
 ですから、人類は自分探しの旅をしているということになります。その原因は、どこにあるのでしょうか。詩篇の詩人は「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとして、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:4〜6)と告白しています。この中で「人とは何者なのでしょう」の「人」とは、「エノ一シュ」で「弱いもろい人」を意味しています。次に「人の子とは、何者なのでしょう」の「人」とは、「ア一ダ一ム」で「死すべき人間」を意味しています。そして、「これを顧みられるとは」というのは、ただ覚えているというのではなく、「人のために行為し続けている」ということです。ですから、神は、弱くてもろい死すべき人間のために何らかの行為をし続けておられるということでしょう。そして、「人を、神よりいくらか劣るものとして」という表現の「劣る」とは「低く、足りない」ということです。つまり、三日月は満月が欠けた状態のことをいいます。しかし、この欠けたところに神が介入してくださると満月になります。このように、人間の心は欠けているのです。欠けているために欠けているところを満たそうとするのです。その手段が、難行苦行や戒律や瞑想であったりします。こうして、人類は自分探しの道を歩んできたのです。ところが、自分の心の欠けを満たすことが出来ません。出来ないことによって、神でなければ満たすことが出来ないことがわるのです。
 このように、神の存在が三つの方法によってわかるようにされています。しかし、一般啓示によっては人は救われないのです。ですから、諸宗教というのは、この一般啓示の世界の問題であって救いには至らないのです。人類は一般啓示の世界の中を生きてきたのです。ロ一マ・カトリック教会が主張するように、「これと同じように、世界中に見いだされる他の諸宗教も、種々の道、すなわち、種々の教義と戒律と儀式を提示することによって、いろいろな方法で人間の心の不安を解決しようと努力している。カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排除しない」といいます。また、「あらゆる宗教の信奉者たちが、神を見つめて生き、各自の信じる真理の要求し忠実であるよう、励ましてください」ともいいます。そして、「教会がマリヤの取り次ぎと助けによって、真理への忠実な証言と、全ての人との対話を両立させることができますように。また、全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神のみ旨にそった平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように」という祈りのことばをもっています。
 本来、一般啓示の世界で見いだされるものは真理ということはできません。むしろ、真理に向かわせる道具的な存在ということです。まして、「各自の信じる真理」ということは真理なるものが多種多様に存在するということになります。イエス・キリストは「わたしは唯一の道であり、唯一の真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)といわれました。また、ヨハネは「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは、反キリストの霊です」(Tヨハネ4:1〜3)といっています。ですから、あくまでも唯一の神・真理・いのちはただキリストのみです。仏教、神道、ヒンズ−教、ユダヤ教だあろうが、イエスを告白しない霊は真理ではありません。従って、他の真理があるはずがないのです。
 しかし、ロ一マ・カトリック教会も上記で見て来たように、この聖書のことばを引用します。にも関わらず、他にも真理があると承認しています。この矛盾を矛盾として感じないところに問題があるのです。他宗教との対話は大切なことです。対話することと同時に他を承認することがイコ−ルであってはならないのです。ある日のこと、私はロ一マ・カトリック教会の書店に行った時のことです。仏壇が展示されていました。私は、興味深く仏壇の中をのぞいたのです。すると、位牌の代わりに十字架やマリヤ像が置かれているのです。当時、何の免疫もない私は、一人のシスタ−を捕まえて「こんなことが許されるのですか」と質問しました。すると、「日本の感情を考えると仏壇がないとイエズス様やマリヤ様を信じることが出来ないでしょう。だから、日本人クリスチャンにはこれがないとだめなんですよ」という回答が返ってきたのです。まさに、驚きというほかありませんでした。このことからもわかるように、ロ一マ・カトリック教会は寛容なのではありません。いい加減なのです。
 私たちは、状況がどうであれ正典としての聖書の光で照らし判断しなければならないのです。
b.特別(特殊)啓示(直接的啓示)
 この啓示は、人を救いに至らせるものなのです。特別啓示は二つあります。その一つは、イエス・キリストの生涯ということです。二つ目は、イエス・キリストの事実の証言としての聖書ということです。
《イエス・キリストの生涯》・・・これは、イエス・キリストの歴史的事実に目を向けなければなりません。
@受 肉・・・イエスの受肉と処女マリヤからの誕生は歴史的事実です。ヘブル書の著者は「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(ヘブル2:14)といっています。また、受肉の出来事が聖霊の業であり介入であったことが聖書には記述されています。
A生 涯・・・イエス・キリストご自身の生涯を見ると神がわかります。イエスご自身の教えや奇蹟は、みな神の国の教説です。ヘブル書の著者は「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この世の終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1〜2)といっています。
B死  ・・・これは、いうまでもなく十字架の死です。このことについては、説明はいらないでしょう。  
C復 活・・・イエス・キリストが、本当に復活したか否かを論議する人がいつの時代にもおります。事実、イエスは復活したのです。パウロは「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから12弟子に現われたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われてくださいました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」(Tコリント15:3〜8)と証言しています。また、パウロは「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです」とまで証言しているのです。ヨハネ20章を参照することも良いでしょう。
D昇 天・・・復活したイエス・キリストは弟子たちの目の前で昇天したのです。ルカは「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」(使徒の働き1:9)と証言しています。ある人々は、この様子について、「彼らは幻か夢でもみていたのであろう」といいます。しかし、その事実はありません。この出来事を幻か夢の次元で取り扱うことは、聖書の正典性を否定することになります。この昇天も、歴史的事実なのです。
 こうしてみてみますと、驚くべきことに気がつきます。それは、聖書の著者たちこそ、受肉を除いた全ての目撃者であるということです。手でさわって、目で見た弟子たちが、イエス・キリストの事実を証言しているのです。これほど、間違いのないことはないはずです。受肉の出来事を見ていなくても、もはや問題にはなりません。受肉も出来事の確かさが、理屈ではなく歴史的事実であることがわかるのです。ですから、イエス・キリストの生涯を見ると神がわかるのです。神を知るための近道は、聖書を読むことなのです。
《イエス・キリストの事実の証言としての聖書》
 聖書の問題については、第一章において述べていますので簡単な説明で良いでしょう。聖書そのものが啓示の書なのです。聖書を読むとキリストがわかってきます。
 聖書を通し、イエス・キリストの生涯を見ると神がわかるのです。そして、人は救いに至るのです。ロ−マ法皇の文書の中に「全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神のみ旨にそった平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように」という祈りの言葉がありました。確かに、対話や尊敬することは大切です。しかし、それぞれの神を承認することは絶対にあってはならないのです。なぜなら、唯一の神は三位一体の神しか存在しないからです。イエスを救い主と信じないものがどうして、神のみ旨にそった平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができるでしょうか。共に働くためのテ−ブルを「平和」という言葉で造っているにすぎないのです。聖書のいう平和(シャロ−ム)は神との平和です。ですから神との平和の次に他者との平和が生まれるのです。
世界の平和は、軍事力の緊張関係によって保たれているのです。十字架の命によって保たれているのではないのです。特に、日本人の平和についての概念は「今も明日も何もかわらない」という理解です。ですから、文化や民族によって平和の概念が違うのです。神との平和こそが全てではないでしょうか。
 従って、私はロ−マ・カトリック教会は寛容なのでも幅があるのでもない。正典としての聖書に対して不忠実であると理解します。また、プロテスタント教会は「排他的である」という声を聞きます。そうではないのです。排他的ではなく、正典としての聖書を神の言として忠実に守り維持しているのです。つまり、排他性とは純粋性なのです。
 お互いに教会と信仰の正統性の根拠がどこにあるのかをしっかりと理解し、そこにたち続けたいものです。
 

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。                            (使徒の働き4:12)
 

 
 
 

引用文献

1.第2バチカン公会議 公文書全集 p197〜200 南山大学監修    中央出版社
 

参考文献

1.キリスト教入門《自修用》上  グドルフ著                エンデルレ書店
2.キリスト教入門《自修用》下  グドルフ著                  エンデルレ書店
3.救いの協力者聖母マリヤ  スキレベークス著                        聖母文庫
                             伊藤庄治郎訳
4.カトリックの終末論    里脇浅次郎著                            聖母文庫
5.キリスト教とは何か    カール・ラーナー著                エンデルレ書店
    現在カトリック神学基礎論  百瀬文晃訳
6.第2バチカン公会議 公文書全集  南山大学監修                中央出版社
7.新カトリック教理  J・ヴァン・ブラッセル著                エンデルレ書店
            山崎寿賀訳
8.カトリックとプロテスタント ホセ・ヨンパルト著                中央出版社
9.戸塚文卿著作集 1 カトリック読本                              中央出版社
            小田部胤明編
10.戸塚文卿著作集 2 カトリック読本                              中央出版社
                        小田部胤明編
11.新聖書注解 1 旧約                         いのちのことば社
12.新聖書注解 1 新約                                           同 上
13.新聖書注解 2 新約                                           同 上
14.新聖書注解 3 新約                                           同 上
15.日本基督教団 口語 式文                   日本基督教団出版局
16.式 文  キリスト教聖礼典および諸式文                      日本同盟基督教団
17.第2バチカン公会議 公文書全集  南山大学監修                中央出版社
18.福音主義キリスト教とは何か 宇田進著               いのちのことば社
19.旧約諸論     尾山令仁著                     聖書図書刊行会