大いなる裏切り       デイブ・ハント著、バルク訳

               ベリン・コール、2000年6月

 これは、私達がチェコ共和国から一日かかって列車で到着したばかりのスロバキアで書いています。
 ルースと私は現在ヨーロッパにいますが、それは、初めてドイツ、オーストリア、およびスイスを通り、車で講演旅行をしている途上です。
 私達はドイツのアウグスブルグから始めました。そこは冷戦の間に、近くに配置されたアメリカ軍隊の諜報部員によって設立された親愛なる信者のグループでした。私達の心は、宗教改革が始まり、多くの人々が、「聖徒に一度伝えられた信仰」(ユダ書3)のために殉教したヨーロッパの一部をもう一度訪問することで、大いに感動を覚えておりました。

 ルター以前、1000年の間ヨーロッパでは、一度もカトリック教徒であったことがなく、かつプロテスタントとも呼ばれることのなかった福音的キリスト教徒たちの迫害、つまり火刑、および溺死を見て来ました。これらの用語(プロテスタント)は後になって初めて、教会の中にある邪悪に抵抗して、教会から除名された人々に付けられた名称です。司祭や修道士の間では、聖書に立ち帰るよう呼びかける運動がルターより幾世紀も以前から始まっていました。
 アビラの司教、プリスシリアンは、おそらく最初の改革者と呼ばれ得るでしょう。AD384年、フランスのボードの教会会議に於いて、誤って異端、魔術、不道徳と非難された事件について(現在、ブルツバーグ大学の図書館でこれらの刑に関する、彼の7つの論駁書が発見されています)、プリスシリアンほか6人が、385年トリエで打ち首に処せられています。その後、多くの殉教者が続いています。
 1300年後期に飛びますが、ジョン・ウィクリフは宗教改革の明けの明星として、聖書権威のために戦いました。聖書を英語に翻訳し出版し、教皇と聖餐のパン変質説の邪悪に対し説教し、書物に著しました。ヤン・フスは、熱烈なカトリック司祭でプラーグ大学の修道院長でありましたが、ウィクリフから影響を受けて、1410年に除名され、フスは、「異端」として火刑に処せられ、腐敗した教会を「聖さ」と「神の言葉の権威」へと呼び覚ましました。
 このような初期改革者たちは、マルチン・ルターの改革へと舞台を築いたのでした。ルター自身「私は、教皇政治を、反キリストの王国と公言した最初の者ではない。われわれの前に、多くの偉大な人々が多年を経て、同じ事を明確に表現することに着手していたのだ。」と言っています。
 たとえば、10世紀の「レイム公会議」の中で、オルレアンの司教は、教皇を「反キリスト」と呼んでいます。11世紀に、ツールのベレンゲルによって、ローマがサタンの教区として告発されています。ワルデンシアンは、教皇を反キリストと同一視し、それを「高潔な訓戒」という題の付いた1100の論文の中で述べています。1206年には、アルビゲンシアン会議において、バチカンを「殉教者の血で酔っている女」として告訴しています。そのことは、彼女(ローマ教会)が証明し続けていたことです。

 教皇とローマの聖職者達、さらに天国への入場券としての免罪符の販売、(これは聖ペテロ寺院のバシリカ式聖堂建築費の調達資金となった)、という不道徳を見て刺激されたルターは1517年10月31日、免罪符の力と効力についての彼の論争(99箇条の提言として知られている)をヴィッテンベルグの城門に貼り付けたのでした。ラテン語原文の訳のコピーは、広く配布され、「罪の赦しの安売り」についての刺激的論争はヨーロッパ中に広がりました。
 私たちにとって、アウグスブルグは、そのユニークな歴史故に特に重要な地です。1518年10月12日に、ローマに呼び出されたルターは、教皇の命令によって逮捕され、アウグルブルグに幽閉されて、枢機卿カジェタンの前での裁判を待つ身となりました。公平な裁判を拒否されたため、ルターは夜のうちに亡命しました。1521年1月3日、教皇によって、「もし、ルターが、自説を撤回しなければ、地獄に引き渡される」という正式なローマ教皇の教書が出されました。その命の安全を保証され、皇帝によって召集されたルターは、1521年4月17日、神聖ローマ帝国のヴォルムスの国会に姿を現しました。そこで、彼の著作を撤回するかどうかを尋ねられたルターは、
「私が引用した聖書によって、私は捕らえられています。私の良心は、神の言葉の虜となっています。私は、何も撤回できないし、しないでしょう。これ以外には、できないのです。ここに私は立っています。神よ助け給え。」

 さて、教皇の命令による亡命者ルターは再び難を逃れ、ヴィッテンベルグに帰る途中、友人達によって「誘拐」され、ヴァルツブルグ城内に匿われることになります。そのところから彼は、著作活動によって、この「異端」を広め、全ヨーロッパをさらに揺さぶることになりました。ルターは聖書の権威だけを主張しました。彼は、ロザリオの祈りや、巡礼の旅、聖徒達への祈り、修道士の肩衣、勲章、キリストの十字架像、あるいは、人の功徳やいかなる施しも、神の前に「義」とされないことを、強く主張しました。彼は「神をなだめのための」ミサを拒絶し、ミサの意味あいは、「カルバリでなされた完全な犠牲」をただ想起することであることを強調しました。これに矛盾して彼は、一方では救いの条件としての洗礼についていい、また明らかに信仰を持ちえない(幼い)子供の「幼児洗礼」を、有効であるとして、残しました。

 ルター派の異端を取り除くためのローマの決断が、1529年3月のスペイヤの第U国会で表明されるや、数多くの独立君主たちを怒らせ、聖書に従って生きる権利を主張させました。彼らはこの堅い決意を、1529年4月、有名な「プロテスト(抗議)」の中で表現しました。そこから「プロテスタント」という言葉が造られたのでした。

 神聖ローマ帝国国会が、「プロテスタント異端」全体の調査のため、アウグルブルグで召集されました。アウグルブルグ告白(ルターとの諮問により、メランヒトンによって作成された)は1530年6月に、教会の高位たちと国家高官200名の前で読まれました。ルターは、あえてそこに姿を現しませんでした。その告白はローマによって非難断罪され、それ以来、ルター派の基本理念となっています。
 信じられない事ですが、今現在、多くのルター派の指導者達がローマと手を組んでおり、ルターが命がけで勝ち取った真理を裏切っているのです。

 1999年10月31日のアウグスブルグでは、(1517年、マルチン・ルターがあの城門に彼の提言を公に打ち付けた、まさしくその日)ルター派世界連合の代表者たち(LWF)とローマ・カトリック教会(RCC)の代表者達が、「過去の違いを放棄する」正当化共同声明(JD)にサインしました。「共同声明」は、事実上、「改革論争を終わらせる」という見出しは、世界中に出現しました。
 結局、ルターは間違っていたのです。正当化共同声明(JD)の調印は、ルター派世界連合(LWF)がルターの確信を放棄したことを強調するために、故意にその日(10月31日)、と場所(アウグスブルグ)が選ばれたように思われます。ローマは遂に、自分たちの潔白を証明したのでした。
 49人のルター派世界連合(LWF)会議において、満場一致で、正当化共同声明(JD)を受諾する決定において、アメリカにある、福音的ルター主義教会(ELCA)を主宰する司教H・ジョージ・アンダーソン(前LWF総理)が、「今や、われら一同、われらの神に感謝す」という歌を導きました。スウェーデンの大主教K・G・ハマルがその会議をルター派陣営における「偉大な日」と呼びました。まことに、宗教改革を放棄し、ルターへ不信をつきつけること以上に偉大なことなどあり得るでしょうか?
 「正当化共同声明」(JD)は、30年に及ぶルター派とカトリック派の神学者たちの間で意見交換された結実でした。
 もしキリストにある信仰による義が、それほど複雑であるなら、誰が救われるのでしょうか?ピリピの獄吏が叫んで、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った時、パウロは、「それを説明するために、私に30年ほど時間をいただけますか?」とは言わず、ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言いました。(使徒16:31)聖書的福音は神学的「対話」などという余地を与えません。

 JDを歌いながら、ルター派は降伏し、カトリックは、何一つ変わっていません。ヴァチカンは、ローマカトリックの秘跡にあずからない限り救いはなく、「キリストにある信仰のみによって義とされる」と宣言する人々に対して向けられる100以上の呪い(アナテマ)のひとつをも、無効にするのを拒み、これらは相変わらず、有効なのです。
 「正当化共同声明」(JD)は、プロテスタントとカトリックの両者を欺き、宗教改革は、真のカトリック教義を誤解したところから起こってきたものである、と信じるようにしています。紛れもなく、世界中にいる10億人のローマカトリック教徒(JDから完全に無視されている)の信仰と実践は、今までと寸分変わらずそのまま残っています。彼らにとって、JDの注意深い入り組んだ神学用語が、全く意味のない(理解できない)ものとなっているのが現状です。カトリック教徒は、今もマリヤに、救いの祈りを捧げていますし、「十字架上のキリストが勝ち取られた功績と恵みとにあずかる」ためには、教会の秘跡により与えられる小さな分割されたキリストを受けることによってのみと信じているのです、しかもそれは完全には救い得ないものであるとしても..。彼らはいまだに、自らをむち打ち、善い業と苦しみで、自分の救いを稼ぎ出そうとしているのです。

 ここスロヴァキアのプレソヴで最後の集会を持ちました。私たちは「カルバリ」と呼ばれる丘の上を訪れました。そこから街が見下ろせます。同じ様な「カルバリ」がこの国の至る所に見いだせます。その頂上には、古い伝統的な教会があり、そこに行き着くまでに、急な曲がりくねった小道が、数多くの寺院を通り過ぎ、聖徒たちへと導いています。特別な休日には、何千人ものカトリック教徒とギリシャ正教会の信者達が、その丘の上の教会への小道を歩き、その中の多くは、ひざまずきながら丘の上まで登ります。ファティマ、ポルトガルや別の寺院までは、決してなめらかな石やセメント塗りの道ではありません。プレゾヴの苦難の道は、かぎ裂きの石でできています。そして私は、彼等が天国を勝ち取るために、血のしたたる傷ついたひざを痛々しく耐えているのを思うと、心がひるんでしまいました。こんな、惑わしが教会により助長され、祝福されているのです。これは中世の話ではなく、現在、全世界のカトリック教徒によりあまねく実践されている「救い」の方法なのです。

 カトリックは、天の門を開き、母なる教会に向かい、煉獄から死者たちを解き放ち、彼らのためのミサを捧げるために、いまだに修道士の肩衣と勲章を身に着けています。彼らはなお、聖徒たちに向かって祈っています。例えば、彼らは、パドレ・ピオが、他者の罪の価を支払うために苦しみ、彼が40年間も聖痕を耐え、それによって多くの人を贖ったと信じているのです。実に数十万人もの信者が1999年5月2日に聖ペテロ広場を満たしたのです。その時、ヨハネ・パウロ2世はピオを礼讃したのでした。これが1500年間実践されてきたものであって、JD、ECTによっては、何一つ変化のないカトリック信仰なのです。承知してかどうか、この文書に署名した福音派の人々は、これら異教徒の行動を是認しているのであり、ローマ・カトリック教徒が、偽りの希望の中にいることを励ましていることになるのです。

 まさに、免罪の提供という行為は、(これがルターの目を、ローマの邪悪な福音に開かせ、これを非難し、これに対抗して、彼が苦心して働いた)いまだにカトリック教義の事実上極めて大切な職務上の部分であるにもかかわらず、奇妙にもJDとECTにおいては、無視されています。
 ルター派とカトリック派の交渉が決定的となる時でさえ、教皇は2000年ゆえに、さらなる免罪を約束しているのです。免罪の主な目的は、煉獄での時間短縮と苦しみの軽減であり、ヨハネ・パウロ2世が頻繁に支持している、偽りの教義です。
 例えば、1999年8月4日、ヴァチカンに於いてローマ教皇は「われわれは、何らかの浄めの体験(キリストの十字架の苦しみに加えて、個人的な苦しみを通して)を経ずして神に近づくことはできない(天国に入ること)。悪に結びつくあらゆる痕跡は取り除かれなければならず、魂のすべての不完全さは、改められ…そして、確かにこれが教会が正確に教えている煉獄の意味である」と再度説明しています。JDとECT(カトリック教徒をクリスチャンの仲間である、と宣言している)に調印した人々は、このようにさげすまれているのです。
 1999年のクリスマスイヴに、ヨハネ・パウロ2世は、罪の赦しを得るために世界中から来る巡礼者たちが通る聖ペテロ寺院の聖なる門を開けました。(その後、ローマの別の三つの門をも開きました)教会は、この行事が1300年以来、ローマ法王ボニファス[世によって始まったことを誇っています。1302年無謬のローマ教書である「ウナム・サンクタム」にあるように、ボニファスが教皇に対する絶対の服従が救いの条件であるとして、現在も押し通されています。JDとECTは盲目であり、口をきけなくされているのです。

 ボニファスは、あまりに悪いので、ダンテは彼を地獄の最も深みに葬りました。同時に母親と叔母は彼を支配していた仲間でした。時代はジュリアス・シーザに戻りますが、美しいパレスチナの町をことごとく破壊し、文化芸術と歴史的建造物の遺産もろとも数千人の住人を殺害し、そこに塩を蒔いて荒れ地としたのです。なぜでしょうか?パレスチナの集団がローマ法王の敵であったからです。そこで、法王は、免罪符を(実に免罪符を!)その殺戮に荷担した人々に与えたのでした。ヨハネ・パウロ2世は、このこと全てを知らなければなりません。しかして彼と、彼の教会とは、彼の立っている疑わしい「使徒継承権」を、そのような怪物教皇たちにまで辿るなら、ボニファスは、その中で決して最悪ではないのです。

 宗教改革は、ヨーロッパにカトリックとルター派という国家宗教という構造を残しました。それらの教会の牧師たち、司祭たちが、全ての市民の税金から給与を支給されていることは、キリスト教界に対する増加傾向の憤りの一つの事実であります。
 スロヴァキヤは、近々ローマ・カトリック教会に特別な地位、特権と影響力を付与するヴァチカンと協定を結ぶことになっています。最近、スロヴァキヤの大統領ルドルフ・シュスターによって率いられて、国家巡礼と宗教指導者たちは、ローマに行き、教皇との公式会見に臨みました。代表者たちは彼の前でお辞儀をし、彼の指輪に接吻しました。その代表団の中に含まれていたのは、バプテスト連合とおそらく別の福音派の教会の指導者たちでした。
 私の最初のプレソブでの集会は、地域の使徒的教会の中で持たれるはずでした。ところが私が到着すると、集会がカルバリ・チャペルに移されたと告げられたのです。というのは、私を招いてくださった使徒的教会の牧師は、ローマ教会の誤った福音を暴露したために、追放されたからと言われました。
 宗教改革と彼らの信条、そして、さらに近年の忠実な信仰者たち、たとえば、スポルジョンやマルチン・ロイドジョーンズなどは、一貫してローマ法王を反キリストと呼び続けてきました。かつてのいかなるローマ法王にしても、また今後も反キリストであり、サタンの政略的な世界支配者です。
 法王たちは、常にキリストと正反対であり続けました。法王は大統領たち、王たち、総理大臣に歓迎され、どこへ行っても何百万人から歓待されます。キリストは暴徒たちから「彼を除け!十字架につけよ!」と叫ばれ、嘲られたのに。キリストは、身を横たえる家もなく、十字架前夜、地面の上にたった一枚の衣服で身を包んだのに、法王は黄金で刺繍された何百枚の最高級のシルクの礼服を所有し、宮殿(その中の2棟はそれぞれ1100部屋あるという)に住んでいるのです。キリストは、ご自身の十字架上の苦しみで支払った完全な救いを無代価で与えます。法王は、ローマ・カトリック教会の祭壇の上に、日毎に何千回となく捧げられる、犠牲のキリストを通して、不完全な救いが分与される、と宣言します。キリストと彼の見せかけの牧者との間の相違が、これ以上かけ離れ得るでしょうか。

 裏切りが存在します。ルターの持っていた確信とルター派を導いた人々による宗教改革に対してばかりではなく、福音派主導者たちによる「キリスト」と「福音」とに対して。
 かつて、そこで殉教者たちが福音を堅持したために大衆によって殺された、その福音が、ただに彼らの不信仰な子孫たちによってばかりでなく、キリストを公言する教会の指導者たちによって拒否されているという背教と不信心を見ることは、私たちにとって胸が張り裂ける思いです。時は満ち、終わろうとしています。しかし、真理を聞こうとする人々を助けることに、遅すぎることはありません。主が、いずれの地にもいる彼らカトリック教徒に、われらを遣わしてくださるように!

ー以上ー