「後の雨」の教え  バルク訳

 私たちは再び「仮庵の祭り」について、大いに耳にしています。多くの人が、「幕屋」を霊的に解釈し、それを彼らのいと高き所における霊的共同意識の一つの霊的巻物として使っています。
 「後の雨」思想によると、「仮庵の祭り」は、時代を通しての教会発展の型を表していることになります。過ぎ越しの祭り(これはカルバリです)から始まり、教会はおそらく多くの年月を経て、別の祭りを通り、ペンテコステに至ります。

 ワーノックは、こう書いています。

私たち(教会)は、今なお贖いの日を通過中であり、ラッパの祭り、その次に「仮庵の祭り」になり、ワーノックにとってこの祭りは、「われわれ終わりの日の教会に対する神の完全な目的」である、と言っています。
 私たちが「天幕」の中に入る時、(これはイスラエルにとって、この上もない祝いの時だったのです)神は、彼の人々の中に遂に住まわれるでしょう。(pp.58-59)

 ニューエイジ運動は、1951年以前には聞かれませんでした。しかしワーノックの進化モデルは、今日のニューエイジの未来主義者たちに、大変似ています。彼らも、人類全体が神に進化する次のステージをもたらそうとしていると信じています。
 ワーノックは、教会は、聖徒達の完成と彼らの地上における支配を通して神の祝宴の完成に至るための道案内であり、或いは、キリストが肉体をとって来られ、キリストの王国を地上に設立するために肉体を持って来られるために、教会が成熟してキリストの受肉された地点にまで到達しなければならない、と教えます。
 既成のペンテコステ教団による反対にもかかわらず、今日の教会の中で「後の雨」信仰は実践されており、私たちが見てきたように、その性格から明らかで、静まることがありません。次のことは、おそらく一般に見られ、それをある程度発展させた教えを講壇から何度も聞くことができるでしょう。

 われわれは霊性においては、ある段階から、また次の段階へと進んでいます。そのことをある人は、外なる宮、内なる宮、そして、「最も聖なる所」(至聖所)の経験と呼びます。また別の人々はあえて、神ご自身が完成のレベルに達したことを真似ることさえして、それが彼が「いと高き者」と呼ばれる理由です。

 これはクリスチャンを別のレベルにまで導くことになります。その完成された人々は、実にキリストを顕わすことができるのです。その人々は、「新しい油そそぎ」の下にあるので多くの超自然的な業を行うことができるのです。彼らは遂に、不死を得るところにまで到達します。(彼等にとって)死は本当に克服され、そうして彼等は確かに「顕現された息子(manifesto son)」なのです。彼らはキリストが再臨される以前に、自分がキリストを受肉することによって不死を獲得します。
「顕現された息子(manifesto son)」によって「しるしと不思議」が行われるでしょう。そして彼等が、栄光ある世界的終末の収穫を導くのです。

 仮庵の祭りの祝いは、一致を成就します。(これは全ての一つの心になった信者たちの結束した一致への参加であり、受肉したキリストのための備え、すなわち、教会へのキリストの入場の準備です。)
 これは伝統的な教義に基づいた統一ではなくむしろ「後の雨」の教えに基づくものです。

 祝会の意味は、「後の雨」リバイバルが、刈り入れだからです。この刈り入れは、蒔かれたものの刈り取り、彼らの働きの初穂です。これは新しい人の現れであり、キリストが教会に受肉することであり、神の子達の出現です。このことは人として地上に再臨されるはずの歴史的イエス(という伝統的な教理へ)の置き換えです。

 いわゆる「教会の敵」と呼ばれている人々(この「敵」が誰を指しているのかは、「これらの敵が」一致や収穫に参加することを拒む人々という点を考慮すれば、誰かはかなり明白である)は、うち負かされ神の国は確立されます。幕屋は喜びと楽しみの収穫祭を指すとして、霊的なものであると理解される(笑い(のリバイバル)現象はその始まりの兆候と思われる)。それはまた、目に見えない、霊的キリストが来臨し彼の共同体に宿ることと見なされます。これは、キリストが個々の人々の上に宿られたペンテコステの時のことがらとは逆です。

この、キリストが彼の共同体に宿るために来られるという教えは、今日「新たな真理」を通して表現されます。(これら新たな真理は、最近爆発的に起こされている「しるし」「不思議」「個人預言」そして「黙示的知識」と共に示されており、その数があまりに多いので、それぞれを把握することは困難である)この高次のレベルの油注ぎがなされることにより、教会はほどなくしてこの地を受け継ぎ、鉄の杖で国々を支配するようになるはずである。

  新しい種の教え

 これは、顕現された息子(manifesto son)によって教えられることで、「新しい種」が特に終末の教会のために起こされる、という教え。(この教えは)西暦2000年が近づく頃、とりわけ勢いづき、興奮状態へと到達しました。幻と黙示が聖書と同等の地位に位置づけられました。この「より高く、より深い」神の知識に達することが、計画が実行される中でもっとも重要な役割を演じ、それはほとんど全てのことがらに結びつけられます。
 霊性のレベルが向上することは、結果として「油注がれた者達」の是認を引き起こします。彼らは今なお出現を切望しつつ共に集まっていますが、その時が来ると、「ヨエル軍団」と呼ばれるクリスチャンのエリート部隊として登場するはずです。(聖書の記述によれば、かの有名な「いなごの軍団」であるにもかかわらず…)

 「ヨエルの軍団」は、征服しがたいものと考えられます。この新しい教えを受けない者は、「古い世代」です。その人たちは約束の地に入ってそれを所有できないのです。実際、この新しい油注がれた「ヨエルの軍団」が、神の敵を裁く権能を持ち、そして「悔い改めること」を拒否し、この「新しい事柄」に加わらない全ての人々を滅ぼすことによって、彼の教会を清める、と彼らは信じていたし、今も教え続けています。

シフトが起きました。正直な疑問が挙がった時には、そこにしばしば、敵意や好戦的な反応が起きるようになったのです。人々は、様々な異なる視点に目を向けることなく、結論を引き出すでしょう。 人のマインドが前もってセットされるようになっています。反対意見を挙げる人は隅に追いやられ、疫病や癌のようにみなされるようになりました。

 私たちはすでに1940年代、50年代の「後の雨」思考と、その後の(あまり知られていない)ニューエイジ思考との類似点を見てきました。私達はさらに衝撃的で驚くべき類似を見ることになります。
 (それは)この前もって設定された指令に沿うことを拒む人々を地上から消し去り、或いは、一掃することです。これは、どちらにおいても「清掃行動」と呼ばれています。チャールス・シンプソン(以前の、牧者/弟子時代の5つの砦の一人)の著作では「清掃」を癌の細胞の切除に譬えています。

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 われわれは、神が任命した構造を発見し認識することによって、創造の中で完全に向かって働かなければなりません。物質、社会、そして霊的世界は測定的様式で創造され、相互に依存し合って造られました。
 内的健全さや安全保証の構造は、より大きな構造と調和し、相互に関係づけられます...もし、内的に健全であるなら、より大きな構造体の目的成就をその中にあって追求するのが自然です。この動機は直感的であって、すべての健全な下部構造の内にあるものです。それは、われわれの遺伝子コードに書かれています。健全な個人は、家族との関係を追求し、健全な家族は教会との関係を…健全な教会は社会との…健全な社会は国との関係を追究します。各個教会はより大きな範囲での教会或いは神の国との関係を追求するものです。健全な国家は健全で相互に有益な国家間相互関係を形成するでしょう。
 この原理は自然の法則であり、天与の法則であると私は固く信じます。健全な構造というものは、その外側自体を表現し実現することを追い求めるものであります。全ての物質生活、すべての霊的生活、すべての社会生活が、もし適切に役割を果たし働いているなら、より大きな構造の中にあっての実現を目指すものであると。

  統合することの過ち

 より大きな構造に統合することの過ちのしるしは、孤立分離に向かって行く傾向であります。それゆえに、不健康な状態や不調を見せることになります。状態は多くの方法でそれ自体を描写します。派閥、恐れ、疑い、罪責感、自己中心。もし、一つの細胞が、自分がその一部であるところの生理学上の構造から離れたり、拒んでしまったら、またもし、ある家族が、自分たちの生活圏から離れたり、拒んだりしたら…、拒絶は、不健康な状態の兆候であり、ある種の不調を顕わしています。

 私がお話ししているところの「癌」とは、生物学的実例です。癌にかかった細胞は生き続けようとします。しかし、その細胞は他の細胞と統合関係にはいることを拒みます。それらは全体と調和して働きません。それは、体から命を吸い取り、繁殖し、他者と統合関係しようとしません。
 
 

「統合」(一致は「新しいぶどう酒から始まる」から
チャールズ・シンプソン 1983年6月
ニューエイジ・モニターで再版 1988年7月

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 ニューエイジ預言者たちは、人類は歴史上重要な時期に来ている、と主張します。それは、全ての「不思議」が普通となる時代です。彼らは、これらの不思議は「不健康な要素」の除去が起こるところにおいてのみ真に顕現する、と主張します。
 
 
 

「 ..新しい人類の胎児はすでに、時代の母胎の中で胎動を始めている。あたかも人間の母親のように、人間は、無駄な物質と毒とを清掃して除去することを学ばなければならず、胎児に適切な養育を施さなければ、その子供と母親はもろとも危険にさらされるでしょう。これが現在の過渡的状態における働きです...。」

F・ホーマー・カーチス&ハリエット・カーチスによる「来たるべき世界の変化」)

 Djwhal Khul(アリス・ベイリが道ぞなえをした、実在するニューエイジャ-)は、クリスチャンを、人類の中の「危険な病的汚点」である、とも見なしています。)

 

 Djwhal Khul

 「....恐るべき連鎖球菌と伝染病は、人間の体の中の感染した部分で感じられることによって、その存在を現します。別の外科の手術が必要となるかも知れません。感染を散らしたり、発熱を避けるために。絶対に忘れないでおいていただきたいことは、命の形状というものは、不適当であったり、あまりに病的であったり、あまりに不自由であったりする場合..それは、階級制度という点からの視点ですが−その形状で生き続けさせるべきではないということです..。」
(アリス・ベイリー、ニューエイジの教育、ニューヨーク:ルシス出版会社 1954年)

 ニューエイジヤーは、世界的覚醒の出現に先立って、流血の時期を呼び掛けています。これが起きる必然性とは、宇宙的覚醒に向かって全被造物と共に働くことのできない人々を取り除く、慈悲深き除去なのです。
 この出来事はわれらの種の次のレベルへの進化への入口であり、地球の進歩なのです。これが、「憐れみ」と呼ばれる理由は、そのことから導き出される最善の故であり、来たるべき新しい時代に入るために跳躍しない人々はただ、他の人々を引き戻すことしかしないので、他の全ての人々の益のために、削除されなければならないからです。

 ジェレミー・リフキンという、ニューエイジの著者は、同様の呼びかけをしています。

..均質化パラダイムは大鎌を備え、それは死につながれた文化の、もつれた破片を切るために十分に研ぎすまされ、また新たな時代の夜明けに向かって道ぞなえをするために十分広い刃渡りがなければなりません。どのように為されるかは、機械的世界観の最後の痕跡の残りを清め去った後に、その詳細が分かるのです。
 われわれ自身の回心は、この事業の最初の仕事です。古い思考や態度を永遠に横に投げ捨てたときにのみ、そしてわれわれ自身に新しい効率世界観を身に付けた時、前進し、われわれの文化を作り直す準備ができた時です。この新しい時代の秩序は科学、教育界、宗教界では革命と共に始まらなければならないのです。」
 

(「均質化:新しい世界観」バンタム出版、ニューヨーク1981年「計画された欺き」の中で引用。「ニューエイジ救世主」コンスタンス・E・クンベイ)

 「後の雨」思考の中における、これらの考えに並行した考えは、すでに述べられた「終末の軍隊」です。彼等は裁く権威を持ち、神聖な彼らの軍に参加しない人々を、教会から清める権威を持っています。
今日いわゆる預言的声が語られており、そこには文字通り流血があるであろう、なければならない、と宣言されており、それは亀裂を起こす考え(彼らの教義)に黙って従うことを拒んだ人々のことです。新しい秩序が、天与の命令を実現できるために、古い秩序は過ぎゆかなければなりません。

  回復の教え

 回復の教えの焦点は、教会が、第1世紀以来、神のご計画に従わなかったということです。それゆえ、その元来の意図と目的とを達成するため、支配が回復されるべきであると言います。これは、使徒達と預言者たちの働きの回復をも含みます。
 また、ダビデの幕屋の回復と、(礼拝と賛美の再構築がその特徴です)力(しるしと不思議)の回復も含みます。

  回復の教えの簡単な要約

*回復された教会
−神は教会が来るべきリバイバルに備え、回復するためにダビデの幕屋を回復される。

*改革された教会
−教会がリバイブされ、神が終わりの日に約束された大いなる魂の収穫に備えさせるため、神は幕屋を回復される。

*跳躍する教会
−再臨するキリストのために、大いなる収穫をもたらすため神はダビデの幕屋を回復する。
(パウロ・L・ワードからのe-mail)

さらに回復を要約する教え

「しかし、神にとって住むべき場所が備えられるまでは、その全存在をもってわれわれの間に住まわれることは不可能です。われわれがすでに見てきたように、ダビデはその住まいを用意し、人々を準備し、そうして契約の箱、神の臨在の力をシオンに運び登りました。それと同じように、われわれは、まず最初に回復のために神を求めなければなりません。その後、リバイバルが訪れるでしょう。リバイバルが訪れる前に、教会の全的回復があるべきなのです。」
(「彼の臨在の力」 グラハム・トラスコット)

 もう一つ別の強調点は、悔い改めと聖なる生活をとおして教会を清める、という点に置かれます。信者にとって悔い改めや聖なる生活はそれ自体、善いし、望ましいことです。ところが、「後の雨」回復論者たちの視点によれば、神が教会を設立し、国を統治するためさらに早く動くことを見たいために、すべてに批判的になっています。
 へりくだった信者の光が、この罪で被われた、反逆の世界においてより明るく輝くことを求めるというより、「後の雨」支持者たちは、彼自身の中と彼の影響下に対し義を強制しなければならないのです。
 この常軌を逸した教えの枠組みの底流には、実はいつも他の(しばしば妥当性のある)教えが内に外に織りなされています。しかしもし一度でも、あなたが間違った教えが入り込むのを許すと、その道筋があなたをどこへ連れていくのかを語る声はもうありません。

 「統治/王国は今」という命令の教え

 「神の顕現された息子(Manifesto sons of God)」の教えは、大いなる攻撃の下でやってきました。そして、誰も、この教えの仲間になることなど望みませんでした。預言者たちは、自分たちの周りにエリート集団を率いて人々の生活を支配するようになりました。
また一方、40年代後半と50年代の影響は、いまだに今日まで覚えられています。
(訳者注:後の雨運動は1940-50年頃、始めて世に出た、そしてその頃、あまりに過激な教理なので、伝統的なペンテコステ教会からは受け入れられず、拒絶された。多くのアメリカペンテコステ系の教会はその歴史を知っているが、日本にはこのことは、正しく伝えられていない)

共通の糸は、「王国は今」/「統治」という教えです。その考えは、教会は「自分自身を備えなければならない」、そして、終わりの日には、教会が「誕生」しなければならない、というものです。
 花婿が彼女に来られるために、断食を伴う深い執り成しを、取り入れなければならない。この花嫁の立場による前提と彼女の準備/啓示が「顕現した神の子たち」の教えの必須部分であり、その名の以外の何物でもない存在です。
 「神の国は今」の教えの傾倒者たちは、教会は世界規模のリバイバルを経験し、それは
世界中の国々に強い影響を与え、世界をキリスト教化すると信じています。
 「神の国は今」/「統治主義」の思想は、教会を徐々に新しい世界観へと連れ行きます。パラダイム(基軸)の移動が起こりました。もし牧師が「新しい事柄」(訳者注:New Thingといわれる。
現在アメリカで第三の波系の教会の中で提唱されている、啓示、教理等の「新しいことがら」の総称か)に沿うことに不賛成であるなら、彼等は取り除かれると度々いわれています、これは前に述べた通りです。多くの人は暗黙のうちに教団は「新しい運動」(訳注:この言葉は、New Moveと書かれている。
これら第三の波系の一連の「新しい運動」をさすのか。)の視点から、存在しなくなると信じています。
教派、教団の代わりに、使徒、預言者が起こってきて、彼等が教会の中の益のないリーダーシップにとって代わるであろうというのです。
強いネットワーキングが存在します。これが、牧会、弟子訓練運動の必須部分です。
(訳注:いわんとしていることは、弟子訓練運動等の超教派的運動の大きな(隠れた)目的は、
教派の崩壊、廃止、エキュメニカル増進ということか)

  「王国は今」の教え−基本的前提

 アダムが罪を犯したとき、神は地上の支配を失い、それはサタンの手に落ちた。神は「契約」の人々を探し続けておられ、その契約にある人々は、失った「統治」をサタンから取り戻すために地球上に差しのばされた神の出張支部となる。これが「後の雨」が理解する偉大な命令なのです。

 「王国は今」/「統治主義」の教えを抱いた人々は、神の「王国」は、すべての分野にあるべきである:教育、科学、医学、芸術、そして最も重要な分野として、政治すなわち「政府」を統治すべきだと信じます。1980年代前半に現れた預言者達は、1990年代に来る使徒たちは、「政府をその肩に」になう、と宣言していました。これは「千年王国の政府がイエス・キリストの肩にある」との聖書箇所のわい曲です。

 統治主義者のいう「証人となる」ことの解釈は、統治を握って、個人も政府をも含めて全てのものを引き連れて、キリストへの従順に至らせる、ということです。神の国を発動させるためには、教会は油注がれた男女の下で一つに結ばれること、それのみでなく彼らは繁栄し、かつ世界の富の重要な部分を掌握しなければならないのです。彼等は、構造的にまた実質的に、地球上に
神の権威を行政せねばならないと真剣に信じているのです。

「後の雨」運動は、このグループの手の中に落ちて行きました。彼らの5職(訳注:エペソ書の使徒、預言者、牧師、教師、伝道者)の回復に関する教えは、使徒職とは政府を意味する、と主張するに至りました。いくつかのグループは他のグループよりも極端です−カリスマ全てが統治主義者ではありません。
しかし、相互のネットワークを通して、そこには多くの流れの道筋が存在しつつ、かつそれらが確かにひとつの大きな流れを形作ってゆくのをわれわれは見てきました。

  別のイエスに入る

 「神の言葉」から離脱することは、いつも、その覚せいに混乱をもたらすものです。今日の悲劇は、多くの牧師達、リーダー達が教会の中にある「グローバルな勢力」に気が付いていないことであり
、その勢力は、聖徒にひとたび伝えられた信仰を害する同盟を何としても結ぼうと試みているのです。

 教会の焦点は密かに変更されました。そこには、イエス・キリストの速やかな再臨に目を覚ますことは最早ありません。クリスチャンは自分が騙され得ることを最早信じなくなっています。焦点は、教会が舞い上がること、勝利を得ること、聖められた花嫁が、シミも傷もない者としてキリストに自分を捧げるそのためにキリストの敵を征服し、全世界を統治することにのみ置かれています。
 聖書によって記されている順序は逆転しました。イエス・キリストによりなされた御業の効果よりも、教会には重荷が与えられています。みことばの成就は教会の責任になり、「後の雨」預言を成就する危急の感覚が加えられています。

 いつも目をさますこと、常に祈りをすることの必要性は取り除かれ、遊女である教会が自らの塔を忙しく天高く建てることに置き換えられました。「守り」は降ろされます。神の言葉は、気づかない間に「その日」が臨むことのないようにわれわれに警告を与えています。「王国は今」の教えは、私たちの周囲にあるしるし、兆候について、あたかもそれらが、問題ないかのごとくに、われわれを無感覚にします。

 イエスは決して、
「私は教会が大勝利の黄金時代の中にある頃に再臨をする、あなた方は世界中をキリスト教国にする」
(訳注:これらは王国は今等の教理の教え)とは言っておられません。かえって、「騙されないように見張っているべきである」と警告されたのです。

ー以上ー

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