主の日の災い:by エレミヤ
主の日とは、キリストの再臨の日の別名であり、その日、多くのクリスチャンが永遠の命を失う:
主の日の災いが近づいている
本日は聖書に記されている終末の「主の日」に関して学んでいきたい、と思う。
1. 主の日とは、何か?
聖書は旧約においても、新約においても何度も主の日に関して言及している。
たとえば、以下の様である。
イザヤ 13:9 見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
13:10
天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。
13:11 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。
1テサロニケ 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
この様に主の日は、終末の恐るべき日であり、裁きや罰が下される日として、旧約聖書及び新約聖書に記されている。
主の日は、ノアの日のように、罪人を根絶やしにする
2. 主の日は、教会時代の終わり、終末に到来する:
主の日は、過去の日でもなく、既に終わった日をさすわけでもない。
そうではなく、主の日とは、これから到来しようとする日であり、終末の日に実現する
恐るべき日である。
パウロは新約聖書のテサロニケ書の中で終末に到来する主の日に関して、以下の様に
預言している。
2テサロニケ 2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
上記ことばを見てもわかるように、主の日は、教会の背教や、不法の人、滅びの子、すなわち、
反キリストが登場しなければ、起きない、すなわち、教会時代の本当に終わりの日に
成就することであり、未来のできごとであることがわかる。
主の日は、平和だ、安全だと言うときに襲い掛かる
3. 主の日に裁かれ、罰を受けるのは教会時代のクリスチャンである。
さて、問題は、その主の日が裁き、罰の日であるとして、その罰を誰が受けるのか?という問題である。
一体誰が裁かれ、罰を受けるのか?
結論を簡単にいえば、それは、今の教会時代のクリスチャンである。
そう考えられる理由を簡単に述べてみる。
上記箇所でパウロは、「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」として、その主の日すなわち、裁き、罰の日と教会の背教や、
不法の人(反キリスト)の到来が密接に関係することを述べている。
だから、このことばから、その主の日という恐るべき罰の日と教会の背教や、不法の人の到来が大いに関係することがわかるのである。このことは、このように理解できるだろうか。
ある優しい旦那さんと愛する奥さんの2人の家族がいたとする。ところが、ある日、その優しい旦那さんが
あろうことか、奥さんを訴えるとすごい剣幕で怒っている。
何が起こったのか?よく聞いてみると、その愛する奥さんがあろうことか、他の男と駆け落ちをして家の通帳も全財産も持って出て行ってしまったからだ、という。
それは怒るのも無理がない、と思われるわけである。
このことを上記テサロニケの手紙にあてはめれば理解できるだろうか。
キリストの妻である教会がキリストという旦那を裏切り(背教し)、代わりに他の男、すなわち、
滅びの子、である反キリストを自分の夫として、迎える。それで、旦那であるキリストの怒りが炸裂する(主の日の裁きや罰が下される)のである。その怒りの対象は誰か?当然、裏切った妻である
罰は教会に下される、と思うのが正しいのである。
というより、上記テサロニケ書の箇所はそのようなことを描いている部分なのである。もし、そう見えないのなら、それは我々が正しく読めなかったからだけなのである。
終末の日に罰を下されるのは、ユダヤ人であり、教会は天に挙げられる、などとの
おかしな教理を信じている人もいるが、そのようなインチキ話には何らの聖書的な根拠もない。
何故なら、繰り返すようだが、上記テサロニケ書には、主の日に至るプロセスとして、明らかに
教会の背教を大きな条件、原因として語っており、ユダヤ人のことなど、何一つ語っていないからである。
主の日は、教会時代の終わりに予定されており、その主の日に裁かれ、罰を受けるのは、
背教に至った教会である。この単純な話を巧みに作られたインチキ教理を鵜呑みにして
惑わされるべきではない。
旧約時代の終わり、旧約の神の民の背教の故、また、救い主キリストを殺したゆえに
旧約の神の民は、裁かれ、罰を受け、西暦70年にエルサレムのユダヤ人たちはみな、
滅びた。
同じ意味合いで、新約の教会時代の終わりに裁かれ、罰を受けるのは、新約の教会、背教の
教会である。そのことを上記テサロニケ書は語っているのである。惑わされ、インチキ教理を受入れるべきではない。
主の日の災いとして滅びの子が教会を破壊する
4.主の日とは、ただ一つの日のことである。
主の日とは、何日も続くわけでなく、たった一日のことである。
そして、その日は本番としてはまだ到来していない、これから到来しつつある。(型として、
西暦70年のエルサレム攻撃の日に成就しているが)
以下の様に書かれている。
イザヤ
2:11 その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる。
2:12 これは、万軍の主の一日があって、すべて誇る者と高ぶる者、すべておのれを高くする者と得意な者とに/臨むからである。
ゼカリヤ14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
上記の聖書箇所からわかるように、主の日とは、ある一つの日のことである。
そして、その正確な成就、本格的な成就はまだなされていない。逆に教会時代の終わりに
起こるべく計画されている。このことを持って、私たち新約のクリスチャンは思いをただし、
慄然とし、襟をただすべきである。
すなわち、おためごかしの偽預言者のゴマすり話や、盲人牧師の勘違い教理と大いに異なり、神の目には、今の時代のクリスチャン、教会は背教に向かっており、その先には恐るべき神の怒りの日、罰の日、主の日が待っていることを知るべきなのである。
クリスチャンが裁かれる、終末の日に教会が裁かれる?そんなことは聞いたことがないという意見があるかもしれないが、それは、今の時代の教師が盲人であり、それに従うクリスチャンが盲人に手を引かれる盲人だからである。盲人の先導を信用して歩むなら、行き着くところは穴におちいること、ゲヘナの穴に落ち込むことになる。
さらにもう一つのことがある。後で詳しく記すが主の日とは、実はキリストの再臨の日なのである。
そして、主の日はここに書かれているように、2つも3つもある日ではなく、ただ一つの日なのである。
したがって、キリストの再臨はたった一つ、一度のみ行われる、と考えるのが、聖書的には正しいことがわかる。したがって、キリストの再臨が2回あるとする2段階携挙説、艱難前携挙説などの誤った教理には何らの聖書的根拠もないことがわかる。
キリストの再臨の日がすなわち主の日である
5.主の日の型は西暦70年のエルサレムの崩壊である
聖書に記されている主の日をどのように、イメージすべきなのか?どのような日が到来すると
考えるべきなのか?
主はその日の型として、西暦70年のエルサレム崩壊を述べているように思われる。
以下の記述である。
ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
ルカ
23:27
大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
このように主は旧約の神の民が、神の怒りの中で、裁かれ罰を受ける日を預言された。
そして、これらのことばは、西暦70年、エルサレムが敵に包囲される日に実現した。
旧約の神の民、ユダヤ人の背教は、神のすさまじい怒りを引き起こしたのである
そして、この日は、終末の主の日に再現することになる、と思われる。
その日、キリストを裏切った背教の教会は、神の怒りをかい、
裁かれ、罰を受け、滅びるようになる。
終末の主の日の型は西暦70年のエルサレム崩壊の日である。その日、旧約の神の民はその背教のゆえ滅んだ
6. 主の日は敵に復讐する日:
主の日の具体的な内容を見ていきたい。エレミヤ書はその日は仇に復讐する日と
描く:
エレミヤ:46:10 その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。
仇に復讐とはどのような意味合いだろうか?主の日の型である
西暦70年のエルサレム攻撃の日を考えてみれば、理解できるだろうか。救い主として来られた
主イエス・キリストは仇である律法学者、パリサイ人に攻撃され、非難され、罠をしかけられ、
最後は偽証する人々により、有罪とされ、十字架で命を失った。
その仇、神の子であるイエスの命を奪った人々への神の復讐の日、仇へ復讐する日が、
西暦70年のエルサレム攻撃の日だったのである。その日、主を排斥し、非難し、罪人、極悪人呼ばわりし、死刑判決を下し、十字架で命を奪ったエルサレムの都の人々は、みな神の怒りと復讐の下で命を奪われ、滅ぼされた。
そして、終末の主の日も同じパターンで繰り返されることが想像できる。
その日、キリストの霊である聖霊を追い出し、キリストの教えを捨て、反キリストを自分の夫として
迎える背教の教会に裁きが下され、罰が下される。そして、
その日、キリストを否定し、福音書に記された十字架も復活も嘘だったと語る、偽りの教師、牧師に、罰、仇に罰が下される日が来るのである。
その日には、現在、あらゆるインチキ教理を語る教師や、聖書学者に対して、神が仇に報いる、
罰を下すようになる。
主の日は神の仇に復讐する日:
エルサレム崩壊の日に、キリストのことばに逆らい、彼を十字架につけた
パリサイ人、律法学者すなわち、キリストの仇は復讐された。それは、終末の日に
再現し、現在キリストの復活を否定し、みことばを攻撃する仇どもはその主の日に、これから当然の報いを受ける
7.主の日の戦いに備えて石垣を築くことが必要:
そのような恐るべき日、主の日が確実に近い将来到来するとして、
私たちはどのように備えをするべきなのだろうか?
聖書はそのために石垣を築くことを語る:
エゼキエル 13:5 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。
主の日は戦いであり、教会で反キリスト礼拝が強要されたり、イエス・キリストの名前のゆえに
あらゆる人に憎まれるようになる日である。その日のために前もって備えた人のみ、
その戦いに耐え、永遠の命を獲得できるのである。
その備えは上記の通り、家の石垣を築くことである。
石垣を築くとは?ここにはたとえが使われている。
石は、「この岩の上に私の教会を建てよう」といわれたペテロ、 弟子の歩みに通じる。
また、岩の上に建てられた家の物語の様にみことばを行う歩みに通じる。
終わりの日の戦い、主の日の戦いに勝利するのは、 弟子の歩みを行い、みことばを行う人々である。
このエゼキエル書の箇所をもう少し見ていきたい。
エゼキエル書13:2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。
13:3
神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
13:4 イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。
13:5 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。
13:6 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。
13:7 あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ。』と言っている。
13:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。――神である主の御告げ。――
13:9 わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らはわたしの民の交わりに加えられず、イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
この箇所を順に見る。
13:2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。
13:3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
この箇所は、新約のイスラエルである、教会に関する預言である。そして、預言者は、ヤコブ書によれば、現在の教師である。それで、この預言の警告は、自分の心のままに語っており、
自分が欲している通り、クリスチャンが終末に艱難に会うことはない、その前に挙げられる、と説く、
偽りの教師たちに語られたものであることがわかる。
“自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。”
彼らは自分で聖書を見ることも読むこともできず、ただ、神学校で習ったインチキ教理をテープレコーダみたいに鸚鵡返しに語ることしか能がない。そして、自分のうちに働く惑わしの霊にしたがって
終末のヨタ話を繰り返しているのに過ぎない。しかし、そのような彼ら、愚かな預言者にわざわいが来ることを主は述べられる。
“
13:4 イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。
これらの預言者、教師たちは神の目には、廃墟にいる狐のようなものであり、
決して、終末の真理が開かれた教師ではない。
廃墟の狐:終末に対して、何の役にも立たないよた話を語る愚かな教師であってはならない
13:5 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。“
彼らの問題はこれから来る終末の日がそもそもどのような日であるのか理解していないことである。
聖書は明らかに終末に来るクリスチャンへの恐るべき惑わし、よりわけ、困難、艱難の日を述べ、その
主の日に対して備えることを述べるが今の愚かな教師たちの一人として、そのような備えを述べる者はいない。かえってありもしない、実現することもない空想の艱難前のキリストの再臨、2度に渡る再臨をしきりに述べ、
クリスチャンの備えをつき崩し、何も備えをしていない彼らに根拠のない安心を与えている。
これらの教師は、備えをなすようクリスチャンに勧めるどころか、彼らの備えの足を引っ張っている。
13:6 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。
これらの教師たちの困ったことは、教師の立場、人を教える立場にいながら、なお、むなしい幻、
キリストの2度にわたる再臨などというありもしない幻を見、実現しない、聖書に根拠もない教えを必死に広めていることである。
その上それらの誤った教えを広げるのに、主の名を使い、キリストの名を使い、『主の御告げ。』などと
いっていることである。しかし、” 主が彼らを遣わされないのに。“と書かれているのに、彼らは実際は
主に遣わされてそのようなヨタ話を語っているのではなく、自分の妄想や、混乱した聖書理解に基づいて誤りを語っているのに過ぎない。
“しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。”
彼らはありもしない、実現することもない、聖書に約束されてもいない、艱難前に到来するキリストを待ち望み、待望聖会を開いている。しかし、彼らの行っていることは神とも聖書とも関係のないことがらである。
“13:7
あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ。』と言っている。
13:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。――神である主の御告げ。――“
今の時代の教師たちの問題は主が語ってもいない終末に関する幻や啓示を語ることである。
終末の艱難の前に挙げられるなどの幻である。しかし、それはありもしない、実現もしない
むなしい幻、まやかしである。
“
13:9 わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らはわたしの民の交わりに加えられず、イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。“
しかし、そのようなありもしない、起こりもしない、まやかしを語る教師たちに
主ご自身が厳しい報いを与えられることが語られている。
彼らは、「イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。」
すなわち、入るべき、天の御国に入れない。
石垣を築く:主の日に備えて石垣、みことばを行う歩みを心がけることが必要
8. その日、諸国の民、すなわちキリスト教の各教派は滅ぶ:
聖書は主の日とは、すなわち、諸国の民が滅びる日であることを語る。
以下の通りである。
エゼキエル30:1 次のような主のことばが私にあった。
30:2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。
30:3 その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。
30:4 剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。
30:5 クシュ、プテ、ルデ、アラビヤ全体、クブ、彼らの同盟国の人々も、彼らとともに剣に倒れる。
これらのことばの意味合いを考えて見たい。
30:1 次のような主のことばが私にあった。
30:2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。
主の日は、幸いの日でもなく、祝福の日でもなく、泣きわめく日である。
そして、その主の日とは、終末の時代、キリスト教会時代の終わりにある日であり、
教会の堕落、背教のゆえにもたらされる、刑罰の日である。
30:3 その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。
その主の日とは、「諸国の民の終わりの時だ」すなわち、今のことばでいえば、キリスト教諸教団の
終わりの時なのである。
すなわち、教会時代の終わりには、主の日、すなわち背教のキリスト教諸教団への刑罰がもたらされる日が計画されていることを知るべきである。
30:4 剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。
その主の日とは具体的にはどのように起きるのか?この件に関して上記節では、「剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ」と書かれている。ここにはたとえが使われている。
剣は「御霊の剣、すなわち、神のことばをとれ」とのことばどおり、みことばや教理のたとえである。
すなわち、エジプトすなわち、この世についたキリスト教会があらゆる惑わしの教理に倒されていくことがここでは書かれているのである。いわく艱難前に挙げられる、いわくクリスチャンと名がつけば、誰一人滅びることはない、などどのインチキ教理に惑わされ、終末の日に永遠の命を失っていくのである。
「その富は奪われ、」
宝である、御霊の実が同性愛は正しいなどの偽りの教理の中で失われていく。
「その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。」
キリスト教会の土台は覆され、基は、覆される。基は何かというと、
「エペソ2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」との言葉どおり、使徒や預言者の教えさらにキリスト・イエスの教えである。それらが
根こそぎ、教会から消え去り、救いの基本も土台も消えうせ、結果クリスチャンが永遠の命を失っていく。
「クシュには苦痛が起きる。」
クシュとは、黒という意味があり、それは、すなわち、罪のたとえである。
教理の土台を覆され、同性愛の罪も、キリストを否定する罪も神に許されるなどと勘違いする
人々、クシュ、黒、罪のある人々はその主の日において、義なる神により、聖書の文字通り裁かれ、慄然とするようになる。
他にも主の日、すなわち、主の再臨の日とは、諸国の民が罰せられる日であることを語る聖書箇所はいくつかある。たとえば、以下である。
黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
ここでも主イエス・キリストの再臨の日、すなわち、主の日に「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」ことが描かれている。キリストの再臨の日、すなわち、主の日が、すべてのクリスチャンにとり、必ずしも祝福の人は限らず、逆に地上の諸族すなわち、この世につくキリスト教団各派にとり、災いとなることがわかる。何故か?それは、この世についた教会、教団であり、聖書のみことばより、
地上の論理、地上の常識を優先するからである。彼らはこの世の常識に従い、聖書に禁止された同性愛を受入れ、この世の常識や、考古学発見なるものを優先し、キリストの十字架も復活もなかったと、神を偽りもの、キリストを偽りものとするため、その再臨の日に裁きを受け罰をうけるのである。
“マタイ24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。“
ここにも主の日、すなわち、キリストの再臨の日が、地上の種族にとっては、幸いどころか、災い、
罰の日となることが書かれている。ここにも、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら.」
キリストの再臨を仰ぎ見るようになることが描かれている。
したがって、我々は主の日、すなわち、キリストの再臨の日に関するあらゆる偽りの教理を捨て、その再臨の日が、必ずしもすべてのクリスチャンにとり、幸いの日とはならない、逆にこの世について、
神のことばを捨て去るクリスチャンにとり、災いの日となることを見ていくべきである。
キリストの再臨の日:地上の諸族、すなわち、この世についたキリスト教各派は、再臨の主に会う時、嘆くようになる
9. 主の日には、パン、みことばが絶たれる:
主の日のもう一つの特徴は、その日には、神の宮から食物すなわち
みことば、パンが消えうせることである。以下の様に書かれている。
ヨエル1:15 ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。
1:16 私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。
ここに書かれているように、主の日は、食物が断たれ、神の宮から喜びも楽しみも消えうせる日となる。
この件に関して、上記ヨエル1章をもう少しみていきたい。
ヨエル1:1 ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。
1:2 長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。
主の日においては、ここに書かれているように、どの時代にもなかったこと、キリスト教の先祖の時代にもなかったことが起きる。それは何か?すなわち、食物が絶たれること、あらゆる
みことばのパンへの攻撃、破壊である。
1:3 これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。
1:4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。
いなごは、何を食べるか?すなわち、麦を食らい、ぶどうの木を食らう。麦はパン、みことばと関係し、ぶどうの木は、ぶどう酒すなわち、聖霊の働きに関係する。すなわち、教会のみことばが攻撃され、聖霊の働きが攻撃される日が主の日なのである。
1:5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。
終末の一つの大きな特徴はぶどう酒が絶たれること、すなわち、聖霊の働きが教会から去ることである。
聖霊が教会から取り去られることは以下のテサロニケ書にも書かれている。
いなごの害:その日、背教の教会の麦、パン、みことばはいなごに食い荒らされ、ぶどうの木も食い荒らされ、ぶどう酒すなわち、聖霊の働きは悪霊の働きに変わる
2テサロニケ 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
続きを見たい。
1:6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。
1:7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。
聖霊が教会から取り去られることは自然発生的に起こるのではなく、ある一つの民族の
侵入、攻撃により起こる。具体的にはベニーヒンを始めとした偽ユダヤ系の、悪霊リバイバリストたちである。彼らが悪霊のリバイバルを教会に蔓延させ、教会から聖霊の働きを追い出している。
そのようないつわりの働きをさして,「一つの国民がわたしの国に攻め上った。」と語られている。
1:8 若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。
1:9
穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。
主の宮である教会から、穀物のささげもの、すなわち、神のみことばが絶たれ、
また、ぶどう酒、聖霊が絶たれることが書かれている。
このことはいずれ、獣の国アメリカの世界支配の中で成就するようになる。
今アメリカで起きている聖書や正しいクリスチャンへの攻撃が世界中の教会で起きるようになり、
教会の中で、聖書の教理は曲げられ、キリストの十字架のあがないも、復活も否定されるようになると思われる。
1:10 畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。
1:11 農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。
いずれ、神のみことばを正しく解き明かすメッセンジャーは教会から絶たれるようになる
以下のみ言葉が成就し、獣のしるしを受けた働き人以外背教の教会で奉仕に立つことができなくなるからである。
黙示録13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
売り買いは、あがない(買い取るの意味がある)のたとえであり、獣のしるしを受けた人以外、
あがないやら、救いに関する奉仕に立てなくなることが書かれている。
1:12 ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた。
1:13
祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。
1:14 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。
「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。」と
書かれているように、いずれ、今の教会の奉仕者、牧師たちにとり、悪夢のような日が
やってくる。
正しいみことばを語ろうにも法律で規制され語れない日が来るのである。
何故そのような日が来るのか?それは、今の教会の偽りの教理、偽りのメッセージに対して、
神の怒りが燃え上がっているからである。
1:15 ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。
主の日とは、ここに書かれているように、全能者から来る背教の教会に対する破壊、攻撃の日なのである。決して、喜びの日でも救いの日でもない。
1:16 私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。
1:17 穀物の種は土くれの下に干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。穀物がしなびたからだ。
1:18 ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。
ここには、牛の牧場がないことが描かれている。牛はきよい動物としてクリスチャンのたとえである。
そして牧場はクリスチャンを養う教会のたとえである。その日、健全な教会は消え去り、
行くべきまともなメッセージ、聖霊が下される教会は消えうせるようになる。
それは、その日、主の日が背教の教会、クリスチャンに対する神の怒りの日だからである。
その日、牛はさまよう:牛にたとえられるクリスチャンには行くべき教会がなくなる
10. 主の日には、太陽、月が暗くなる
主の日には、また、太陽、月が暗くなることが描かれている。以下の通りである。
ヨエル3:14 さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。
3:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
このことばには、たとえが使われている。太陽、月は、大きな器をさすたとえである。
キリスト教会を照らす太陽や月の様な 大きな器もその日には、光を失い、
真理の光を失い、偽りをいうようになり、キリストはあがない主ではない、などとの偽りを語るようになることがたとえられている。
このこと、太陽が光を失うことはマタイの福音書の主の再臨の箇所でも語られている。
マタイ24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
ここに書かれているキリストの再臨の日に、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」との記述にもたとえが使われている。太陽、月が暗くなる、とは大きな器が真理の光を失うことまた、星が天から落ちるとは、天に座す存在であるクリスチャンがそこを去り、
地上に落ち、この世的な標準で歩みだす、ということをさす。具体的には、今までみことばに従い、
同性愛を拒否していたクリスチャンが法律や恫喝に屈し、同性愛を受け入れたりするようになることをさすと思われる。天の万象が揺り動かされるとは、すなわち、教会のあらゆるクリスチャンに動揺のときが来る、今までの教会の常識や、教理、信仰が覆され、揺り動かされることがたとえで 書かれている。
このように主の再臨を語るマタイ24章の記述には旧約の主の日に関することばと重なる表現が多い。
それは、何を語っているか、というと、すなわち、キリストの再臨の日とは、旧約で繰り返し語られている、主の日そのものである、ということである。繰り返すが、キリストの再臨の日とはそれはすなわち、主の日なのである。
であるので、キリストの再臨に関して、我々は今のキリスト教会で語られている一方的な恵みの面だけでなく、もう一面、その日は多くのキリスト教教団教派への裁き、罰の日という大事な一面を正しく見ていくべきである。
主の日には太陽、月が暗くなる:器から真理の光が消える
11. 主の日には、あらゆる惑わし、偽りが横行する
主の日のもう一つの特徴は、その日には、キリスト教会において、あらゆる惑わし、偽りが横行する、
多くの人々が惑わされる、ということである。以下の様に書かれている。
アモス5:18 ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。
5:19 人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家にはいって手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。
5:20 ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。
この箇所を少し見ていきたい。
18 ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。
主の日は、闇であって光ではない。すなわち、その日、真理の光は教会から消えうせることがわかる。
具体的には、キリストのあがない、復活などの大切な教理も消えうせ、闇となると思われる。
5:19 人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家にはいって手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。
獅子、熊、蛇はみな、人を殺す生き物である。したがってあっちへ行っても、こっちへ行ってもキリスト教会には、人を殺したり、永遠の命を奪ったり、天の御国に入れないような教理や、偽りの器
が満ちるようになる。
さて、同じことが少し表現を変えて主の再臨の日を語るマタイ24章に描かれている。
以下のとおりである。
マタイ24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
ここでも終末の日ににせキリストや、偽預言者が起こり、その大きなしるしや不思議により、
選民をも惑わし、滅びに導くことが書かれている。
であるので、主の日とは、キリスト教会にあらゆる惑わしや偽りの跳梁跋扈が許される日であることがわかる。
主の日とは、熊に襲いかかられるようなもの:永遠の命を奪うあらゆる偽り、惑わしが許される
12. 主の日は、すべてのキリスト教各派、教団が震われる日である
以下の様に書かれている。
オバデヤ1:15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。
1:16 あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。
ここに書かれているように、「主の日はすべての国々の上に近づいている。」すなわち、
すべてのキリスト教各派、各教団に主の日は及ぶ。その日、主に忠実でなく、みことばに忠実でない、教団、教派は、主から恵みどころか、恐るべき罰を受けるようになる。
13. キリストの再臨の日がすなわち、主の日である
旧約聖書の主の日に関する記述はそのまま、新約のキリストの再臨の日の記述と重なる。
どちらにも同じ様な表現が用いられている。それゆえ、主の日という、あまり新約の教会では語られない日とは、
実はキリストの再臨の日をあらわすことばであることが理解できる。
具体的にこのことを以下のゼカリヤ書の記述から見てみたい。
ゼカリヤ14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
この箇所を順に見る。
14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
ここでは、主の日に関して書かれている。したがって、この章の箇所は主の日に関する記述であることがわかる。
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
ここに描かれている主とは明らかに再臨のキリストである。
ここでは、主の足がオリーブ山に立つことが描かれているが、キリストの昇天及び再臨がオリーブ山で行われることは以下の使徒行伝に明確に書かれている。
使徒行伝 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
したがって主の日に下る主とは、キリストであり、主の日とは、すなわち、キリストの日であり、
「主の日」の主とは、主イエスキリストのことであることがわかるのである。
旧約及び新約聖書に書かれている主の日に関するすべての記述はみな、キリストの来臨の日、再臨の日に関する記述なのである。
14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
この箇所も新約聖書に記されているキリストの再臨に関する記述と一致する。
上記「わたしの山々の谷に逃げよう。」とは、キリストの言われた終末の日に関してのことば、
「マタイ24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」といわれた記述と似ている。
さらに「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」との主の来臨に関する記述はそのまま、1テサロニケ書の以下の記述と重なる。
1テサロニケ 4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ゼカリヤ書には、主の日に主の来臨があること、さらに「すべての聖徒たちも主とともに来る。
」と聖徒たちも主とともに来ることが描かれている。
そして、1テサロニケ書にも同じく主イエスの来臨とともに聖徒がともに来ることが描かれている。
どちらの記述も重なり、同じことが描かれている。であるから、この1テサロニケ書の主イエスの再臨に
関する記述は、ゼカリヤ書の記述と同じものであることがわかる。したがって、
旧約でいう主の日とは、新約でいうキリストの再臨の日なのである。
というより、パウロの記述、1テサロニケ書の彼の再臨に関する記述は彼が独自に考え出したというより、パウロがゼカリヤ書を読んで理解したことがらを記載した、と考えるほうが自然である。
オリーブ山から昇天するキリスト:キリストの再臨の日がすなわち主の日である
14. 主の日の前にエリヤが遣わされる
聖書は主の日、主の大いなる恐るべき日の前に神がエリヤを遣わすことを預言している。
以下の通りである。
マラキ 4:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――
4:2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
このように、マラキ書は主の日が来る前に、エリヤが遣わされることを預言しているのである。さて、
このことばは、実は主イエスの時代に一度成就している。このことを見てみたい。
マタイ 17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。
このマタイ書の記述からわかるように、上記マラキ書の預言、主の日の前にエリヤを遣わすとの預言は、主イエスのときに一度成就している。具体的には、その頃用いられた預言者、バプテスマのヨハネが他でもないかねてから預言されていた、エリヤの働きをになったのである。
このように、主イエスのおられたときはもうこれから主の日、主の大いなる恐ろしい日を迎えようとしているときであった。そして、この時代の人々は邪悪であり、このように神から送られたエリヤを
受入れたわけでなく、逆にこの民の王であるヘロデは、エリヤであるバプテスマのヨハネの首を切り落とし、殺した。さらに主イエスもこの時代の人々に拒絶され、十字架で命を奪われたのである。
さて、このようにして、神が名指しで送られた預言者エリヤも受入れなかったこの時代の人々はその後、どうなったのか?結論として、この時代に主の日が到来し、多くの神の民は滅んだのである。
具体的には、主イエスの十字架の死から40年後の西暦70年にエルサレムはローマに囲まれ、
この都の住民は最後の一人まで殺された。まさに、マラキ書のいう、主の大いなる恐ろしい日、のろいでこの地を打ち滅ぼす、とのことばは、間違いなくこの民の上に成就したのである。
主ご自身もこの主の日の成就の日を預言してこういわれている。
ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
ここに預言されているエルサレム崩壊の日こそ、まさにかねてから、預言されている主の日の
災いに関する預言の成就の日なのである。
新約の時代に住む我々、クリスチャンは、これを知りどうするべきか?
私が思うに我々はこれらの歴史的な事実を通して、聖書が語り、預言している終末の主の日に
関して、我々は正しく学ぶべきだと思う。
何故なら、我々クリスチャンは、これから、主の日の本番、もっと大きな規模での主の怒りの日を
経験するようになるからである。
それでは何を学ぶべきか?何はともあれ、我々が知らなければならないことは、聖書に記されている主の日、
神の大いなる恐るべき日とは、単なることばの上での脅かしや、大げさな表現ではなく、
逆に文字通り成就する、ということを学ぶべきである、と思う。
この日、西暦70年のローマによるエルサレム攻撃の日には、エルサレムの住民は最後の一人まで、殺された、という。エリヤとして遣わされたバプテスマのヨハネの警告を聞かず、逆に彼の首をはねて殺した神の民、さらに主イエスご自身さえ、受入れず、拒絶した神の民に対して、
すさまじい神の怒りが爆発した。このようにして、主の日に関する預言は成就するのであること、
を我々は知るべきなのである。
さて、エリヤはかつての日、主の初降臨の日にバプテスマのヨハネとして遣わされた。これはエリヤに関する預言の最初の成就である。
しかし、それでエリヤの預言が終わりというのでなく、終末の日、主の再臨の日にも 再度エリヤが遣わされることを聖書は預言している。以下の通りである。
黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
この2人の預言者の特徴は、「預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており」
とのことだが、これは、まさに旧約聖書のエリヤが行ったわざである。
エリヤが祈ったとき、3年半の間、天が閉じ、雨が降らなかったからである。
このことを通し、黙示録の日、終末の日に再度エリヤが遣わされることを我々は知ることができる。
そして、このことを知ることにより、
我々はいくつかのことを理解できる。
それは、一つは、やはり、終末の日にかねてから、旧約聖書に預言されているように、
主の日が必ず、到来することがわかるのである。かつての日、バプテスマのヨハネのとき、
聖書に預言されたとおり、エリヤが遣わされ、その後、主の日が間違いなく到来したことを
我々は見た。そうであるなら、終末の日に再度エリヤが遣わされ、その
後、間違いなく主の日が到来することを我々は知るのである。
さらにもうひとつのことを知る。
かつての日、バプテスマのヨハネの日、彼の警告を受入れなかった神の民に対して、
その日、主の日には、容赦のない神の裁き、罰が下されたことを我々は知る。
そうであるなら、再度来たらんとする本番の主の日においても、警告を受入れない、
背教の教会、新約の神の民に対して、すさまじい神の怒りが下ることが予想できるのである。
以下のことばは、まさに主の日の災いと関連してクリスチャンへの警告として書かれたものなので、
恐れをもってよむべきみことばである。
黙示録14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
預言者エリヤ:主の日の前にはエリヤが遣わされる
16. 主の日に具体的に起きることはマタイ24章に記載されている:
上記の様に聖書はかつての日、AD70年のエルサレムの崩壊の日を
終末の主の日の型として語っていることがわかる。逆に言えば、
このエルサレム崩壊の日に関して学ぶことを通して、終末の主の日に関して学ぶことができる。
そのことに関連して、マタイ24章は主の日に関する2重の預言である。この預言の一度目の成就は、
AD70年のエルサレム崩壊の日に成就した。そして、終末の日、主の日に再度、
成就する。マタイ24章は終末の主の日に関する預言なのである。
この箇所から少し主の日に関して学びたい。
マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
主はこの章でまず、主の日に関連して、始めに宮の崩壊に関して述べている。
この宮の崩壊は、AD70年、ローマのエルサレム侵攻の中で成就している。そして、同じ預言は
終末の日に再度成就する。しかし、今回は物理的な宮が崩壊することはない。なぜなら、
今、エルサレムには宮など存在せず、影も形もない。よって、すでに跡形もない宮が崩壊することはありえないからである。逆にこの預言はたとえとして、成就し、宮、すなわち、神の祈りの宮としての
教会は崩壊し、その教理の土台、信仰の土台は崩される。キリストはいずれ、
背教の教会において、主でもなく、復活もしていないといわれるようになる。宮の土台であるキリスト教会の根本教理が崩されるのである。
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
主の日の前には惑わしがキリスト教会で許される。
24:6
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
かつての日、戦争のうわさが起き、実際にその戦争は起き、エルサレムはローマに攻撃され、
滅ぼされた。同じように終末の日のエルサレム、キリストの教会に対しても、
戦争が計画され、それはいずれ、実行に移される。
聖書のみことばや、キリスト教会の基本教理に対して、執拗な攻撃がしかけられ、
いずれ、教会はその戦いで敗北するようになる。
この戦いのきざしは既にアメリカで起きており、アメリカでは、聖書に基づき、同性愛に反対する
クリスチャンに対して、政府が攻撃を加え、逮捕、罰金の重い刑で圧迫を加えている。すでにこの戦いの前哨戦は起こりつつある。
戦争と戦争の噂: キリスト教を攻撃する戦いはもうすでに始まっている
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」すなわち、キリスト教教団、教派間の戦い、いさかい、
争いが起きる。
また、ききん、すなわち、命のパンであるみことばの正しい食物が消え去るようになり、地震すなわち、
揺り動かしがキリスト教会に許される。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
主の日の一つの特徴は正しい人々、主につく人々が迫害されることである。
そして、それゆえ、その報復として、主の日の災いが背教の教会に下るのである。
24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
その迫害の結果、多くのクリスチャンは主の日の前に振るわれてしまう。
また、偽預言者の教えが横行し惑わされる人も出てくる。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
さらに教会において、もう律法を守る人、聖書の教えを守らない人が増えてくる。
同性愛に反対し逮捕されるなどのこの世の脅かしの中で、みことばに従う人々は少なくなっていく。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
しかし、それらの全ての困難や迫害の中でも最後まで、みことばにとどまる人々は救いを得、
永遠の命を獲得する。逆にこれらの困難の中で主を裏切る人々や獣のしるしを受ける人々は主の日に
神からのすさまじい怒りを受けるようになる。
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
教会は背教し、聖なる所、キリストの神の座は明け渡され、そこに反キリストが立つようになる。
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
24:28 死体のある所には、はげたかが集まります。
正しいクリスチャンに対して、背教の教会にとどまるより、そこを出て仮庵の祭りに入ること、
地下教会に入ることが奨励されている。
山へ逃げろ、屋上から降りるなとは、地下教会をさす表現である。
24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
そして、その後、主の再臨が起きる。そして、この日こそ、主の日なのである。そして、
その日は、「地上のあらゆる種族」すなわち、この世についたクリスチャンにとり、災いの日、裁きや罰の日となる。それで、彼らは主の再臨を悲しみながら迎えるようになる。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
しかし、選びの民すなわち、かつての12 弟子のように、主に選ばれた弟子の歩みをする人々は主により、より集められ祝福に入る。
再臨:最後まで耐え忍ぶものは幸い
17. 主の日のさばきを行われるのは来臨のキリストである。
主の日がキリスト教会、教団への裁き、罰の日であるとして、そのさばきを行われる方は誰か?
そのことに関して聖書は以下の様に語る。
ヨハネ5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
ここに書かれているように、主の再臨の日に行われる裁き、罰は他でもない主イエスキリストによって
行われる。
ヨハネ5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
また、上記記述の様に、最後の審判の日に生けるものと死んだ者とを裁く方も主イエスキリストなのである。
したがって、もし、私たちが主の日を恐れ、主のさばきを恐れるなら、主イエスのみことばを守り、この
方に忠実な歩みをすることが大事であることがわかる。
最後の審判:その日すべての人はキリストにより、裁かれる
18. 主の日を経て永遠の命を受けるものは誰か?
それは、背教の教会に従わず、また、反キリストを拝まず、獣のしるしを受けず最後まで、主に忠実なクリスチャンである。以下の様に書かれている。
1テサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
マタイ 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
黙示録14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
19. 結論:
主の日とは、すなわち、背教の教会、クリスチャンに襲い掛かる裁きの日、罰の日である。
いずれ、教会は獣の国アメリカの世界支配の下で、世界的な規模で反キリストを拝むように強制され、
教会の教理も変えられ、イエスキリストはインチキであり、ペテン師である、と語るようになる。
それらの背教の教会、クリスチャンへ厳しい罰が下される日が主の日であり、キリストの再臨の日なのである。
聖書は表現を変え、ことばを変え、繰り返し繰り返し、その日が来ることを警告し、
預言している。これらのことばに謙虚に耳を傾け、その日に向けて今から必要な備えをなすものは幸いである。
再臨:全ての聖徒たちも彼とともに来る
―以上―